「選別」せぬ公共政策を
市民の間に「国家は信頼できない」という感覚が広がっている。昨年明るみに出た社会保険庁の不祥事は、そうした感覚を強める上で決定的な役割を果たした。それでは、信頼できない国家をどうするか。私たちが直面する深刻な問題だが、対応には大まかに言って二つの選択肢がある。
第一の選択肢は、信頼できない国家の役割を限りなく縮小することである。この選択肢は、実際に小泉政権の下で強力に推進された。依然として「国家への不信」がまん延していることから、国家の縮小はいっそう推進されるべきだという向きもあろう。ただし、その行く末には、二つの問題が発生することを覚悟しなければならない。
第一に、国家固有の役割がいっそう不明確化する。たとえば、公的年金が信頼できないなら各自が民間の年金に加入すればよいではないか、と言われた場合に、どのような反論が可能だろうか。
第二に、国家の責任を問うことが難しくなる。国家の役割を縮小すれば、社会的な問題が発生した際、安易に国家の管理責任などを問うことはできない。その前に、社会の人びとが自分たちで問題解決に取り組まなければならないのである。「自由には責任が伴う」とされるのは、このような意味である。その責任の重さを私たち一人ひとりが引き受けることができるのかどうかが、問われるのである。
第二の選択肢は、国家への信頼を回復し、国家の役割を認めていくことである。しかし、問題はまさに、国家が信頼を得るにはどうすればよいのか、ということである。
「無駄遣い」を監視し、政治家や官僚に非を認めさせればよい、といったような簡単なものではない。こうした対応は、国家は監視を怠ると不正な行動に走るという「国家への不信」に基づいている。しかし、不信は循環する。社会の側が国家を信頼しないならば、国家の側も社会を信頼しない。国家が公共政策の実施を社会に委ね、創造的な事業に補助金を給付しながら、その実施状況については厳しく監視しようとするのは、そのためである。これを信頼の循環にするにはどうすればよいのだろうか。
福祉国家研究で著名なスウェーデンの政治学者ロートシュタインは、公共政策が「選別主義」的である場合に、国家はますます人びとからの信頼を失うという。選別主義とは、たとえば社会保障給付の際に所得等に応じて受給条件を定めることである。「ばらまき」防止のために、選別主義は当然に見える。しかし、選別主義的な公共政策は実施段階で、市民には「恣意的」と見えるような国家側の裁量の余地を生む。給付の際に特定の基準を定める以上、当該の申請が条件に見合うかどうかについては、常に「現場の判断」が求められる。しかし、その判断が市民の納得のいくものである保証は存在しない。結果的に、国家への信頼は損なわれるというわけである。
ロートシュタインは、公共政策が給付対象を所得等によって限定せず、広範な人びとを対象とする「普遍主義」的である場合に、国家への信頼とともに、市民相互の信頼も増すと言う。このやり方では、税負担が増えるだけだろうか。しかし、そもそも税負担感が大きいのは、支払った税金が自分たちの生活のために使われているという確信を持てないからである。逆に言えば、この確信を持つことができれば、人びとは一定の税負担を引き受けるだろう。
国家を信頼しようとしまいと、基本的には各自の自由である。もっとも、「自己責任」の道は、たいていの人にとってはリスクが大きすぎる。とはいえ、歳出抑制で公共政策の対象範囲を限定するだけでは、ますます国家への不信を強めかねない。信頼の循環を作るためには、どれほど迂遠(うえん)に見えても、公共政策の基本的な発想転換が求められるのである。
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