はじめに もし丸山が政権交代を見ていたら?
ご紹介いただきました山口です。今日は大変由緒あるというか、晴れがましい場にお招きをいただきまして、話をする機会を得ましたことをお礼を申し上げます。
本題に入る前に、私と丸山先生に接点があったということを少しお話します。私は1958年生まれで、東京大学に入ったのは1977年です。したがって丸山先生はもうお辞めになっていまして直接講義を聴く機会はありませんでしたが、私どもの世代でも大学へ入ったら丸山眞男の『現代政治の思想と行動』という本は読むものだ、というような常識がありまして、私も大学一年生の時に読みました。高校の頃に『日本の思想』という岩波新書を読みましてさっぱり分からなかったんですけれど、ともかく『現代政治の思想と行動』を二度ぐらい読んでノートをとって、ということをやりまして、政治学というのは大変面白い学問であるということを感じました。私が政治学者の道を志した動機の一つは、やはり丸山先生の本との出会いでありました。
その後、東大では行政学を専攻して、辻清明先生のお弟子の西尾勝先生のところで勉強しました。1984年に北海道大学に赴任して以来26年、人生のちょうど半分を北大で過ごしてまいりました。『忠誠と反逆』(筑摩書房、1992年6月)の合評会で、丸山先生が1993年7月に北大においでになったことがありました。宮村治雄先生とアメリカのコーネル大学におられる酒井直樹さんをお招きしてにぎやかな合評会をいたしました。その時のことは、『丸山眞男手帖』第41号(2007年4月)に掲載されているインタビュー(「丸山眞男先生を囲む会(上)」)の中でもいろいろと触れられております。93年と申しますと、細川〔護煕・もりひろ〕政権ができた時で、私はその年の5月に『政治改革』という岩波新書を出版して論壇にデビューしたという時期でありまして、そのようなことも先生のお話に出てきます。
今から思い起こしますと怖い者知らずの限りなんですが、合評会の後の懇親会でいろいろな人がスピーチをいたしました。私は『政治改革』で、基本的には当時の小選挙区=政治改革というのは違うんだ、地方分権とか官僚機構の民主化とか、トータルに政治制度を見直していこうといった趣旨のことを書いたつもりだったんですけれども、『読売新聞』の読書欄で当時東京都立大学にいらした御厨貴さんが、小沢一郎の『日本改造計画』(講談社、1993年5月)のある部分と、私の『政治改革』の中のある主張がぴったり重なってくる、同じ方向を向いている、ということをお書きになっていました。私は懇親会のスピーチで「御厨さんはこういうことを書いていますが、私はこれからも政治批評を続けますけれど、平成の矢部貞治[註2]ではなくて丸山眞男をめざします」なんていうことを、畏れ多くも先生の目の前で語りました。以来17年、ずっと日本の現代政治批評を書いてきまして、あれは本当に実行できたんだろうか、私は丸山に近いのか、矢部に近いのか、どっちなんだろうと最近ちょっと考えることがあります。
今日の講演を依頼されたのはずっと前、今年の初め頃でした。政権交代も起こって万々歳、日本の政治が新しい段階に入った。丸山先生の取り組んだ日本の民主化というプロジェクトも一歩前進、といった呑気なことを言うつもりでした。ところが、まことに困ったことに、皆さんもご承知の通り、せっかく政権交代を起こしても民主党が現在のような混迷を続けている状態で、一体全体どういう話をすればいいのか悩んでいました。そして、丸山眞男という人が、もし今この政権交代を見ていたらどう言っただろうか、ということを今日の私の一つのモチーフ、テーマに据えました。結論から言えば、むしろこういう混沌とした状況、行ったり戻ったりという状況のほうが丸山先生の政治学を生かす場面だ、と負け惜しみになりますけれども、私は思っています。民主党がすごく英明な政治家揃いで、スイスイと日本の政治の変革を成し遂げていって、まことにきれいに政権交代が成就してみんなが喜んでいる、みたいな状態だったら、政治学というのは御用済みになるわけです。やはりうまく行かんなぁ、と悩んでいるところで、もう一度丸山を読み直してみて、あぁそうか、と気づく、悩む時の一つの参考にする、そんなことが今日の話の中心であります。
一 丸山以後の政治学
政治学を志す動機づけの変化
今日は「政治と政治学の間」というテーマを掲げまして、政治学、政治学者が現実の政治を変えていくことにどう関わるかということをお話したいと思います。私は現在、日本政治学会理事長という仕事を仰せつかっておりまして、日本の政治学全体を見ながらいろいろな企画を考えるということの取りまとめ役をしております。政治学という学問はこの30年ぐらいの間に急速に変化してまいりました。何が変わったかというと、政治学を志す動機づけというものが変わったのです。そこで、レジュメにありますように大雑把な世代論みたいなものができるわけです(一 丸山以後の政治学、「動機づけの変化」本誌52頁)。もちろん、同じジェネレイションの学者が同じ方向、同じ傾向を持っているわけではありません。若い世代でも比較的上の世代の感覚を持っている人もいればその逆もまたあり、ということですが、大雑把に言って、やはりいくつかの世代に分けることができるだろうと思います。
戦後政治学の第一世代と言いますと、私どもにとっては何と言っても丸山先生、あるいはそれにプラスして辻清明[註1]先生など、敗戦と解放というものを身をもって経験した、民主化と政治学の研究が車の両輪というか、重なり合う世代の学者だろうと思います。
もう少し時代が下りますと、第二世代、大学闘争──安保闘争を含めたほうがいいのかもしれませんが──を自らやったという人たちが大量に学者になっています。特に60年代の大学闘争の世代になりますと、学問の官僚化に対する反発というのが大変強い。既存の体制を正当化するために役立っているような学問を根本的に批判していくという発想は、この世代に特徴的なものでした。私が大学へ入った時は、東大の教養学部に折原浩先生という学問の官僚化ということを最も強烈に批判した社会学の先生がおられました。
その次の世代、私が学者としての修行を始めた頃は、この第三世代がだんだん幅を利かせてきた時代で、言ってみれば、政治学を学問として純化していく、佐和隆光さんの言葉を使えば、政治学の「制度化」というものを志向していくという発想です。制度化とは何かと言いますと、専門業界として確立することです。具体的には、業績を発表する専門的な媒体、学術雑誌をちゃんと作る。それから、専門的な論文を評価する基準、枠組み、というものを確立していく。そして、業界の中で流通する術語、ジャーゴンjargonを使った論文を蓄積していき、専門的な論文をいくつ出したかということによって学者の値打ちを測っていく、ということであります。
政治学というのは社会科学の中で経済学や社会学に比べて、はるかに制度化が遅れた学問でしたが、70年代の後半から80年代以降は急速に制度化が進んでまいりました。特に、アメリカに留学して学位を取ってくる学者もどんどん増えてくる。アメリカンスタイルの論文、博士論文の書き方が日本にも浸透してくるわけであります。そして、より客観化された数理モデルのようなものを応用しながら物事を説明していくといったことが、主要な論文のスタイルになってまいります。
私は80年代に学者としての修行を始めたので、この制度化された学問がどんどん発展していくのを見ていたのですが、やはり、私にとっての政治学の原点は丸山眞男でありましたから、制度化された政治学なんていうのは面白くない。制度化には必ず限界がある。日本の政治の現実とどこかで切り結ぶというところがなければ、政治学なんてものはこの世に存在する意味がないんだ、ということを考えていました。しかし、こうした考えは当時は全くの少数派でした。
戦後政治学の遺産
戦後政治学の遺産というものを改めて考えてみた時に、昨年出版された宮村治雄先生の本(『戦後精神の政治学──丸山眞男・藤田省三・萩原延壽──』岩波書店、2009年)を読んで、私は非常に意を強くしました。あるいは、福田歓一[註3]先生のお弟子さんの加藤節さんの、福田先生の『デモクラシーと国民国家』(岩波現代文庫、2009年)への「編者あとがき」とか、丸山・福田世代の最良の後継者たちの著作を読んで、やはり戦後政治学の遺産というものを確認するわけです。本日お配りした資料1(本誌54頁)にも引用してありますように、加藤さんは「編者あとがき」で、「原理をもって現実に批判的に立ち向かい、理念によって現実を越えようとする理想主義的批判主義」が、戦後政治学の最大の遺産なのだ、とお書きになっています。
そういう批判精神、批判主義というものを引き継ぐというところに、いささか偉そうな言い方ですけれども、私は自分の役割を求めてきました。同世代の学者が、科学主義というか制度化された学問の中で論文を書いているのを見て、何だか面白くないなと思って、批判主義を引き継ぐにはどこかで拠点あるいはグループみたいなものを作りたいと思いました。私が北大に26年もいるというのは、一つにはそういう動機もあったわけです。今日、東京大学をはじめとして、いろいろな大学で制度化された学問がどんどん繁盛していって、そちらの方面の論文をじゃんじゃん書く学者はそれなりに揃っているんですけれども、批判的な精神を持った政治学者で、ある程度グループを作ってどこかに拠る必要があります。そういう意味では、北海道はまことにいいところでありまして、東京から遠く離れていて適度に田舎である、あまり都会の流行を追わなくてもいい、うるさい人はいませんから何をやっても若い人は自由だという、大変恵まれた環境であります。そういう中で、たとえばLSE(The London School of Economics & Political Science)がイギリス労働党の知的なシンクタンクになったように、北大政治学は自民党政権を倒すための理念とか政策とかを作り出すんだ、と10数年前からずっと考えていて、また、そういうことに共鳴する学者が集まってきまして、今日、論壇の一つの軸を作ることができた。これはちょっと自画自賛ですけれども、そういう意味では、第三世代を乗り越える第四世代の政治学がこの辺で出てきているな、と自分としては思うわけであります。つまり、加藤さんがおっしゃった批判精神、理想主義的批判主義の伝統を不十分ではあっても引き継いでいるというようなことを自負しているわけであります。政治学者としては、私はまことに幸福な人生を送れました。
問い直される政治学の存在意義
今から20年ほど前に、批判精神が必要とされる場面が実際にきたわけです。それは1990年以降、戦後の日本が依拠していたさまざまな前提がどんどん崩れたからでした。これはこの後お話する「現実政治と政治学(者)の位置関係」とも重なるんですけれども、ともかく冷戦が終わる。冷戦が終われば当然日本を反共陣営というかアメリカ、西側自由主義陣営に繋ぎ止める「ピン」として働いてきた自民党も歴史的存在意義を失っていくということになります。
先だって『朝日新聞』に篠原一先生の長いインタビューが載っていました(「歴史つくれるか民主党政権」8月10日号)。現在の政治史的混迷をどう見るか。これは、1975年スペインで始まった[註4]世界の民主化の波の中に位置づけるという、長いタイムスパンで見ていこうではないかという趣旨のインタビューで、私は非常に勇気づけられました。つまり、1970年代中頃、民主化はスペインの他にも、ポルトガルとかギリシアとか、南ヨーロッパで進んだ。15年ほど経って、90年前後に東ヨーロッパ、ハンガリーとかチェコスロバキアで民主化が進んだ。さらに10年ほど間をおいて、韓国、台湾、日本、東アジアの国々で民主化が進んでいった。そういう大きな民主化の波の中に日本を位置づける必要があるんだという指摘──実は1990年2月頃、ある研究会で篠原先生から直接伺った話であるんですけれども──、20年間を一つの大きな枠組みとして同時代の政治を見ていくということ、これはさすがだと改めて感心したわけです。政治学という学問をやっている人間として、実際に自分たちが生きているこの国の民主政治が変化していくということについて、どういうふうに説明をし、また、変化の方向づけをどのようにするのか。もちろん、私たち学者は権力者ではありませんから、自分で変化を主導する、スティアsteerというか、操縦するわけにはいきませんけれど、しかしやはり、理念、言葉でこのような方向に進むべきであるということを言わなくてはいけない。そういう意味で、理想主義的な批判主義というものの必要性が、90年代に入って急速に高まっていったということは明らかであります。
二 現実政治と政治学(者)の位置関係
明治憲法体制形成期の三角構造
次に、現実政治と政治学なり政治学者というものの位置関係について、明治以降をちょっと振り返って、いささか図式的ではありますが、整理しておきたいと思います。一昨年出ました坂野潤治先生の『日本憲政史』(東京大学出版会、2008年)を、私は大変すばらしい本だと思いました。短い本ですが、非常にエッセンスが詰まっている。近代日本の政治史の仕組みというものが、みごとに整理されています。
私が坂野先生の本を読んで感じたのは、明治憲法体制形成期、形成過程における、ある種の権力と知識の構造というものと、戦後のいわゆる55年体制形成期における権力と知識の構造とがよく似ている、相似形であるという点です。明治憲法体制形成期においては、一つの極に国権主義的な官僚政治家がいたわけです。これはまさに藩閥勢力であり、黒田清隆が言った有名な超然主義[註5]という考えで権力を独占していたわけです。これを批判する勢力はもちろんありました。自由民権運動というのがそれです。しかしながらこれは、ルソー的ロマン主義というものを追求していたんだと、坂野先生は指摘されます。中江兆民[註6]なんかを見てもそういうところがあるわけですね。もう一つ、超然主義的な官僚政治家を打倒して、日本をより近代的な議会政治、政党政治にもっていくべきだという主張をした人がいる。それは福沢諭吉であり、福沢の『民情一新』の中に「平穏の間に政権を受授する」(『福沢諭吉全集』第5巻、岩波書店、42頁。坂野50頁)というイギリスモデルの政権交代システム、二大政党制というものを日本でも樹立すべきだという主張はすでにあった。しかしながら、反体制の勢力の中では、ルソー的ロマン主義を追求する勢力があまりにも強くて、福沢的な言論の伝統というのは非常に微弱だった、ということを指摘されたわけです。
戦後政治における相似形
戦後はどうかというと、相変わらず官僚が政策決定において圧倒的な力を振るう。自由民主党という万年政権政党、万年与党がその上に依拠して、官僚といわば協力・共生しながら権力を独占していくという形になっていました。これに対抗する革新勢力というもの、もちろんかなり大きなものがあったわけですけれども、たとえば、50年代から60年安保ぐらいまでの日本社会党なり日本共産党なりの運動を見ていれば、やはり院外の大衆運動というもののエネルギーで体制を打倒していくみたいな、まさに、ルソー的ロマン主義のようなものが革新勢力の根底にあった。議会で多数派を取って政権交代を起こすなどというようなことは、まことに微温的なことであって、日和見主義的で、左翼の中では評判が悪かったわけです。1960年に民主社会党、のちの民社党ができた時に、最初は、?山政道〔ろうやま・まさみち〕とか笠信太郎[註7]みたいな非常に優れた知識人がいて、イギリス労働党のような政党を日本でも作って、議会政治を一歩前へ進めようというような理念があったわけです。しかし、ぶざまな末路と言いましょうか、イギリス型の政党政治というよりは特殊な民間企業の労働組合の利益代表になっちゃって、とてもじゃないけれども政権交代を担うなどという勢力にはならなかった。それで革新勢力もだんだんと勢力が収縮していく中で、何と言いましょうか、単なる反対党という地位に自足するようになったわけです。
冷戦=55年体制下の批判的知性
冷戦時代、あるいは55年体制の時代、批判的知性は何をやっていたか。これはやはり、権力と知性の間に明らかな役割分担があったわけであります。ともかく、権力を持っているのが自民党と官僚。批判的知識人は常にそれに対するブレーキ役、あるいは、野党というのは改憲を阻止するためのブレーキ役、こういう役割分担が固定化されてしまいました。特に憲法をめぐる政治ということを考えてみますと、これには多数派は必要ない。ご承知のように衆参両院で三分の二以上の賛成がなければ改憲は発議できませんから、三分の一取ればいいんだということで、革新勢力にとっての目標水準は下がったわけであります。野党が三分の一で自足をするということと、知性のほうがいつも批判をするということで、自らの役割を確認するということとが、結びついてしまった。日本でどうやって自民党政権を倒して政権交代可能なシステムを作っていくのかということについて、50年代、60年代、70年代にあまり現実的な議論がなされなかった、という気がいたします。
もう一つ、現実の世の中は、60年安保以降急速に高度経済成長の道を驀進していくわけです。藤田省三先生の「安楽への全体主義」(初出『思想の科学』1985年、『藤田省三著作集』第6巻、みすず書房、1997年)のような議論が、その最後の輝きだと思いますが、知識人はみんなが物質的な豊かさを追求していくという流れに対しても、欲望自然主義批判みたいな形で、ある種、冷水を浴びせるという役割を果たしてきたわけであります。
1990年代──戦後政治の諸前提の崩壊
しかしながら、先ほど申しましたように、1990年を境に、戦後政治が依拠してきたいくつかの前提がガラガラと崩れたわけです。第一は、冷戦の崩壊です。もはや自民党という保守政党が日本を支配しなければいけないという必然性はない。どの党が政権を取っても、体制、要するに、市場経済システムや議会制民主主義という政治や経済の基本体制というものは変えられる余地がない。それはフランシス・フクヤマが言った通りです(『歴史の終わり』、邦訳1992年)。しかし、であるからこそ、自民党に取って代わって、かつ自民党が日米安保体制と経済成長という大きな枠組みの中で見落としていた、あるいは隠蔽してきた、さまざまなひずみや不正というものを是正していくための政治的なイニシアティブ、政策的な能力というものが必要とされる時代が来たわけであります。つまり、新しい政治主体をどう立ち上げるかという問題が、90年代に現れたわけであります。
もう一つの大きな前提の変化は、バブルの崩壊です。つまり、高度成長の終わりですね。バブルの頃までは物質的豊かさ・生活の安定というものを、「安楽への全体主義」という文脈で批判をすることができたわけですけれど、バブルが崩壊した後は、安楽どころかむしろ資本主義が牙をむくというか、先祖返りをした野蛮な資本主義になって、搾取などという言葉が再び現実味を帯びるようになったわけです。そういう新しい時代の中で、資本主義をどうやってコントロールするか。逆に言えば、社会民主主義みたいなものを日本でどうやって理念として、または政策体系として、そして政治勢力として立ち上げるか、という問題に直面したわけです。
みなさんもご記憶の通り、今から三年前に『論座』という月刊誌に赤木智弘という若いフリーターが「「丸山眞男」をひっぱたきたい」(2007年1月号)という衝撃的なタイトルの論考を載せたことがあります。言わんとするところは、資本主義がまことに苛烈・苛酷極まりないものになって、人間を物同然に扱う、そして生活するのも覚束ないような低賃金でこき使う。その中で働く人にとっては、豊かさを謳歌するなんてとんでもない。まして、家族を持つとか、あるいは、社会的に栄達をしていって、自分の生きる目標を達成するというようなことは、もう遠い世界。そういう閉塞感の中にいる若者にとっては戦争ぐらいしか希望はないんだという、まことにデスペレート desperateな、ヤケクソの言説ですね。
私はこういう議論が出てきた時に、やはり戦後の平和と民主主義を信奉してきた学者の端くれとしては、ちゃんと答えなければいけないと思いました。つまり、55年体制が崩壊する、自民党一党支配が揺らいでくる、官僚が無能さをさらけ出してくる。こういう混沌とした状態で、確かなものは資本主義だけ。資本主義が本来の野蛮さというものを剥き出しにしてくる。資本主義の野蛮さを全面的に開放する政策が規制緩和ですけれども、これが「改革」などと称賛される。そして、野蛮な資本主義によって痛めつけられる人間の存在が、政治のテーマからどんどん無視されていってしまう。そういう状況にあってどうやって民主政治を立て直すかという、まことに厳しい問いを、私たちは突きつけられたわけであります。
この赤木さんに代表される世代は「ロスジェネ」世代[註8]と申します。いわゆる団塊世代の子どもの世代、1975年前後に生まれた人たちであって、物心ついた時にはバブルがはじけて、生きる希望があまりない、正社員になることさえも大変難しい。なかには凶悪な無差別殺人なんて犯罪に走る人もいるし、ともかく、生きる希望を失っている。そういう人たちに対して、自由と平和なんてことを説いてもあまり意味がないのではないか。人間を物同然に扱うような資本主義を野放しにしておいて、なにが自由だ、平和だ、とこういう不満を持つ。ただ、その不満をどうやってキャナライズcanalizeというか、方向づけるか。つまり、「気分は戦争」という感じで、本来あるべき民主主義なり自由なりという秩序そのものを全部ぶっ壊すみたいな破壊的な方向に向けるのか。それとも、やはり人間の尊厳を守るために資本主義に対してちゃんとコントロールをかけて、必要な規制や再分配を行っていくという政策のほうに方向づけるのか。これこそまさに学問の課題であり、また、メディアにおいて議論すべきテーマだったはずであります。そこの部分で、実は学者が十分な仕事をしてこなかったという悔いが残るわけです。
三 戦後政治学とリアリズム
丸山におけるリアリズム
90年代以降21世紀になって、より深刻化した社会経済の矛盾あるいは不安の高まりに対して、政治学はどう答えるかについて、次に考えてみたいと思います。
そこでまず、政治学とリアリズムということについて、考えてみます。加藤さんもおっしゃったように、丸山政治学にはリアリズムがあった。丸山先生はリアリストであった。福田先生もそうだった。理想と現実の緊張関係が常にあった。資料2(『「文明論之概略」を読む』上巻、本誌54頁)で引用したように丸山先生自身も、「ユートピアなどはないのだ、全て条件的なものなので、そのことを忘れるのが、福沢のいう「惑溺」の一種」なのだ、というわけです。「帯患健康」──要するに、どこか悪いところを抱えているけれど、まぁまぁ健康だというのが、政治における本来のあるべき秩序ということになるわけです。その意味で、丸山先生はカール・ポッパーが嫌いだとおっしゃっていましたが、やはり私は、現実の世の中を変えていく上では、ピースミール・エンジニアリングpiecemeal engineering(『歴史主義の貧困』中央公論社)で、漸進的に変えていくしかない、というリアリズムを持っておられたんだろうと想像いたします。
実際に90年代にさまざまな政治課題に応えていく時のリーダー、あるいは、論壇でものを書く人間が、そのようなリアリズムを本当に継承しているのかどうかというと、議論が分かれるところだと思います。自民党とか官僚とか、とにかく日本を経営してきた大きな権力主体に相当ガタがきたという時に、これに取って代わる主体を立ち上げなくてはいけない。あるいは、今までの社会保障であれ、雇用であれ、地方自治であれ、世の中の基本的な秩序を形作っていた法律制度というものを変えなければいけない。たとえば、少子化が進むなんてことは、国勢調査(簡易調査)を5年に一回やっていますから、25年位前から既に分かっていた話です。分かっていた話ですけれど、何もしないでずっと手をこまねいて、今日のこういう状況になった。
やはり「決定」が必要なわけです。決定を回避するということは、状況の悪化に荷担するということです。どうも、社会科学というのは、経済学の一部は別として、権力に対するチェック、ブレーキということをずっと言ってきて、本来変えるべき時に変えることを決断するということをサポートしてこなかったんじゃないかという不満を、実は私は90年代から感じていたところです。資料3(「アカデミックジャーナリストとしての丸山眞男」、本誌54頁)に引用していますが、岩波書店から『丸山眞男集』の刊行が開始された記念(特集 丸山眞男集)ということで、私は『図書』という岩波書店のPR雑誌に丸山論を書けと頼まれました。丸山論は苦手で、また思想史なんてのはさっぱり分かりませんから、困ったなぁと思ったんですが、論壇でものを書いているということで、その部分にだけ着目した丸山論を書いたんです。結局、戦後革新の中では批判がある種ルーティン化してしまう。そういう中で、何が可塑的であって、何がすぐには変えられないのか、政治における「帯患健康」というのは実際どういうことなのかということをちゃんと考える作業をしてこなかったじゃないか、というような悪態をついたことがありました。
丸山が「夜店」から撤退したことの意味
丸山先生自身は60年安保の後、同時代の政治批評を「夜店」と評して、そこから撤退を宣言されました。これは60年安保以降の政治の急速な変化、特に保守政治のモデルチェンジ、皆さんもご承知のように、安保の後、池田勇人が首相になって、高度経済成長路線で国民の統合を図っていったという、保守の側の偉大な政策転換の中で、丸山先生がある意味で敵を失ったことの現われなのかと思ったわけです。つい最近、中野雄さんがお書きになりました『丸山眞男 人生の対話』という書物を読んで、非常に面白い発見をしました。それは高度成長の教祖である下村治[註9]と丸山眞男の対比の部分です。資料4(本誌54頁)に引用してあります通り、下村という人は池田のブレーンで高度経済成長を進めた理論家ですね。それに対して革新側の都留重人[註10]さんなんかはいつも、公害とか、そういう高度成長のひずみに対する批判をしてきた。これに対して、中野さんによれば、下村氏は「あれは永遠の真理≠説いているだけです。いつも永遠の真理≠フ側に身を寄せているのは気楽なものなんです」と言っていたそうです。それに対して丸山先生が「永遠の真理≠フ側に身を寄せてか──厳しいけれど、傾聴に値する言葉です」と述べたのだそうです。ここらあたりに批判的知性というものが現実の政治や政策と向き合うことの難しさというものがあるんだな、と思うわけです。
実際、『丸山眞男回顧談』を見ても(資料5、本誌54頁)、「いまみたいな時代に」、つまり80年代後半から90年代の初め頃でしょうか、そういう時代に、「学問するということは非常に難しい」「対決するものがない」ということを丸山先生自身もおっしゃっていたわけであります。
改めて問われる政治と政治学の間
しかし、90年代以降、いわば取り組むべきテーマというか、対決すべきものが見えてきた。一つは、繰り返しますが、自民党・官僚という統治エリートの劣化、あるいは統治主体の空白という問題ですね。もう一つは、冷戦以後アメリカの一極主義的な軍事的ヘゲモニーの強化、あるいはグローバル化という名のもとに進む資本主義の先祖返り。野蛮な、苛酷な資本主義が世界を席巻する現象。これに対してどう関わっていくのか、どう対抗していくのか、ということが問われる時代となりました。宮村先生も『戦後精神の政治学』の中で、政治学の課題として「我々自身の間題として投げ返されている」ということを書かれています(資料6、本誌54頁)。
改めてこの時代に政治学者なり、政治学が何をするか、ということですけれど、一つは、制度を提案していって改革を進めていくというコミットメントですね。たとえば佐々木毅先生なんか一番代表的な存在です。選挙制度をこうしよう、政党助成金制度をこうして、公職選挙法をこうしましょう。最後は、マニフェストをこう作って選挙戦の仕方を変えよう、みたいな。つまり、政治制度の改革について、具体的な提案をしていく。かつ、佐々木先生の場合は、もっとポリティサイズpoliticize、政治化されて、言論界・労働界・経済界等のお偉方を集めて、一種の大きな権威を持った民間政治臨調、現在の21世紀臨調という運動体を作って、その権威で発言をしていって世論を引っ張っていくというようなやり方をとりました。
私自身は1996年に民主党ができる少し前ぐらいから、オポジションopposition、要するに、自民党に取って代わる対抗勢力をいかに作るかということを理論的にも考えてきましたし、実践的にも結構動いていました。私の場合には二つテーマがありました。一つは、政権交代を実際にする、自民党に取って代わる勢力を作るということ。もう一つは、ヨーロッパの社会民主主義、今の言葉で言えば、中道左派の路線を確立した政治勢力を作って、日本の歪んだ資本主義経済に対して新しい政策の枠を作っていくということです。そのために私は、かつての日本社会党あるいはその後の民主党に期待をするということになったわけです。
私は安東仁兵衛さんとは1991、2年ぐらいから知遇を得まして、晩年の安仁さんにはずいぶん可愛がっていただきました。安仁さんも55年体制の崩壊の時期、つまり、細川政権ができて政治が動きだしたって本当に楽しそうでした。今の菅〔直人〕さんにしたって仙谷〔由人〕さんにしたって、あの頃、安仁さんの所でうろうろしていた若造の政治家でありましたから、安仁さんが今の内閣を見たら何とおっしゃるかというのは、私ならずとも皆さん興味がおありだろうと思うんです。安仁さんも、どうやって社会民主主義を軸とする新しい政治勢力を作るかということを、あれこれ腐心していたわけであります。
しかし、これに対しては、戦後政治学の第一世代から見れば、何をやっているんだという批判もあったわけです。たとえば、もう亡くなった高畠通敏先生なんかはえらくご立腹で、『エコノミスト』という雑誌で私の名前を出して、こいつは何をやっているんだと(「元「革新」論者たちの危うい状況追随主義」1994年8月23日号。『高畠通敏集』第4巻、岩波書店、2009年所収)。細川・村山〔富市〕政権の頃ですけれど、政権に取り入って動いていると怒っていました。私は確かに取り入って動いたことを否定しません。しかし、その時にやろうとしたのは、情報公開法とか地方分権とか、その種の官僚機構の民主化政策で、これはもう見解の相違としか言いようがないわけです。高畠さんみたいな世代から見れば、常に批判、チェック、ブレーキ、というところで学者は留まるべきであって、たとえ相手が村山社会党委員長を首班とする政権であっても、中へ入って政策の提言や献策をするなんてのはけしからん、ということになるわけです。これは学問をどうとらえるかということの見解の相違ということに、多分なるんでしょう。
私の場合は、先ほど言ったように、政権交代と中道左派ないし社会民主主義の勢力を作るという二つの軸があって、その軸を外すことはしてこなかったつもりなんですが、それは自分の正当化であって、そうじゃなかった場面もあったのかもしれません。ともかく93年以降、政権交代が現実の課題となってきたわけですけれども、その中で政治学というものがどう取り組んできたのか、どこに限界があったのかということについて、ちょっと振り返ってみたいと思います。
四 政権交代と政治学
第一次政権交代の意義
2009年の政権交代が、いわば初めての本格的な、つまり、国民の選挙の結果起こった政権交代であって、93年の細川政権というのは、言ってみれば、永田町で大げんかした結果、たまたまできたといった位置づけで、今ひとつ国民の記憶の中でも評価が低い感じがあります。『丸山眞男手帖』第41、42号に掲載された93年当時の丸山先生のインタビューを見ても、丸山先生は細川政権について、あまり喜んでもいないし、評価もしていない。要するに、自民党が割れただけだといった評価だったわけです。しかし、今思い起こしてみますと、93年から2009年まで、15年あまりかかって、やっとこさっとこ政権交代を起こしたということは、やはり決して軽視できない現実だと思います。
93年に非自民の細川政権ができたというのは、取りも直さず冷戦が終わったあと自民党がバラけてきた。別に自民党以外にも市場メカニズムや議会制民主主義を守るという勢力がいっぱいいるんだから代わってもいいじゃないかという、自由な政党の空間ができたということのお蔭です。実際、政治改革を巡って保守が分岐をしました。小沢〔一郎〕さんの新生党、武村〔正義〕さんや田中秀征さんの新党さきがけができて、それが非自民連立政権を作ったわけです。これは意味があった。一つは、選挙制度を変えたということです。小選挙区制については、皆さんいろいろ批判があると思います。しかし、白黒はっきりつけて自民党を権力の座から追い落とすということについては、小選挙区制があったがゆえに可能になったのだと私は思います。
いろいろすったもんだがあって、社会党と自民党がくっついて村山政権を作った。このことも、自民党政権を終わらすという意味では、実は隠れた貢献があったと私は思います。一つは、村山政権の時に、後に繋がる制度改革の種を植えたということです。たとえば、地方分権改革。これは村山政権だから、官僚や自民党からはとても想像のつかないような人が分権推進委員会のメンバーに入って、かなり思い切ったことができた。さらに情報公開法の制定とか行政手続法も日の目を見た。もちろん、官僚支配はまだまだ続いていますけれども、そういった官僚支配に楔を打ち込むような制度改革がこの時期に始まったということ。これは大変な功績です。それから、15年前の今日、8月15日、戦後50年というタイミングで「村山談話」[註11]というものを出した。これは日本の外交にとって大変重要な財産となりました。
残念ながら、社会党という政党は、政権を担う政党として持続していく戦略や展望を持っていませんで、村山政権の終蔦とともに社会党は事実上雲散霧消してしまいました。その後、橋本〔龍太郎〕政権から小泉〔純一郎〕政権、さらにその後、麻生〔太郎〕政権に至るまで、自民党中心の政権が10数年続く結果になりました。これはやはり、自民党という政党もただじゃ死なない生命力を持っていたからです。また、当時バブルの余韻というのがまだ残っていまして、バブルが崩壊したとか、不景気だとか言っても、先ほどから言っている、本当に仮借ない資本主義が猛威を振るうまでにはタイムラグがあったわけで、自民党政治は伝統的な利益配分政治をフルに駆使して、しばらくは地方や弱者を支えるという政策を続けてきたわけであります。
第二次政権交代の意義
本格的な意味での政権交代を起こすには、その自民党が完全に余力・生命力を失うとともに、高度成長の余韻、バブルの余韻が全くなくなって、本当に身も蓋もない不平等・貧困社会が到来するまで、待たなければいけなかった。あるいは、小泉改革という時期をくぐらなければ、本当の意味での政権交代はできなかったということになるんだろうと思います。
自民党は小泉政権のもとで、構造改革という名の、いわば、資本主義の純化路線に走りました。同時に社会保障と地方交付税を中心とした歳出削減によって国民生活を痛めつけました。小泉という人が個人的な人気でもって自民党の危機を粉飾できていた時代はまだ良かったわけですが、自民党が小泉という、いわば属人的な要素に過度に依存して危機を凌ぐということを取ったが故に、ポスト小泉の自民党は途端にどうしようもない危機に直面した。もっと言えば、政党としての生命力を失うところまで落ち込んだということになったわけです。
その時に民主党を受け皿とする政権交代が現実味を帯びたということですね。民主党というのは、もともとは、いろいろな政治家の寄せ集めで、特にここに集まっているような方々から見ると、うさんくさい、松下政経塾出身の新自由主義っぽいのとか、国家主義っぽい変なのがいっぱいいるじゃないかと思われるでしょうけれども、民主党は自民党と対決していくという上で、社会民主主義という言葉は使いませんが、「国民の生活が第一」という旗印のもとで、社会保障、雇用等を中心とした国民生活を支える、私の言葉で言えば、リスクの社会化路線を明確に打ち出すことで、政権を取ることができたわけであります。それについて言えば、96年、最初の民主党を立ち上げた時の菅さん、仙谷さん、鳩山〔由起夫〕さん等々の、長年の努力がやっと実を結んだということになるわけですね。小沢という人は評価が分かれるところですけれど、彼も政権交代を起こすという一点ではまことに明快で、揺らいでおりませんで、小泉時代の自民党と対決していく上では、「生活第一」、中身的には社会民主主義ということで、子ども手当とか、農家の戸別所得補償制度とか、そういった福祉国家路線の政策を次々と繰り出すことで民主党をまとめていったわけです。ですから、昨年の8月30日の総選挙での民主党の勝利は、一応、政権交代と中道左派的な政策路線の結合ということで、私にとってはめでたい話になったわけであります。
民主党政権の失敗と政治学
しかしその後を見ますと、政権を運営していくことの大変さ、政権を担う政治家の能力や政治的な成熟度というものが問われてきたわけです。昔の自民党は派閥のケンカばかりしているように見えて、いろいろと批判されてきましたけれども、やはり国を担うエリートを次々と育成していきました。佐藤〔栄作〕の次は、田中〔角栄〕だ、三木〔武夫〕だ、福田〔赳夫〕だ、大平〔正芳〕だ、中曽根〔康弘〕だとか、すごい政治家が出てきた。宮沢〔喜一〕さんあたりまでは、そういうかたちで人材をちゃんと育て引き継いできた。まことにすごいものだと思うわけです。あるいは、非常に難しい政策課題についても、ともかく何とか治めて物事を決着させるという能力を持っていた。これはやはりただものじゃなかったと今にして思います。
民主党政権はあちこちで失敗してしまいました。その原因は何か。そこで私は、学問の側のある種の貢献の不足というか、十分役割を果たしてこなかったことについて、思い至ります。一つは、理念不在という問題です。つまり、先ほど私は「国民の生活が第一」いうことで、社会民主主義の路線なんだということを言いましたが、これはあくまで選挙に勝つための便宜とでも言うべきものでありまして、自民党が「構造改革・小さな政府」と言っているから、こっちは「生活第一」で、ある程度大き目の政府にしようか、みたいな話でした。内発的、内在的に自分たちがしっかり議論を重ねていって、社会民主主義なり中道左派的な思想を培ったというわけではありません。要するに、自民党という政権与党に対するある種の反射としての「生活第一」というスローガン。ここに一つの大きな限界がありました。もう少し踏み込んだレベルでは、政策を支える知的基盤が実にお粗末でした。たとえば、対等な日米関係なんて言っても、それを支える外交・安全保障の戦略のブレーンに誰かいるかというと誰もいない。総理が何か言葉を出してもそれは空回り、ということになってしまいましたね。今回の参議院選挙の場合で言えば、菅さんが消費税増税ということを言った。私はこれはいいことだと思うんですけれど、やはり、将来的な日本の福祉国家のあり方についてビジョンを示し、それに向けて国民負担のあり方をきちんと説明するというような意味での理論が欠如していたという問題があります。
制度改革論の意義と限界
さらに、リーダーシップの問題を考えた時に、たとえば昔、京極純一先生が首相クラスの政治家と話をして薫陶を及ぼしたとか、丸山先生が三木武夫と話をしていたとか、そういった話がいろいろあったわけです。今そういう意味で、形や言葉にならないけれども、判断力とか、洞察力とか、歴史感覚とかといったものをリーダーに伝授するような、まさに、知識人があまりいない。
確かに知識人は運動をしています。たとえば、佐々木先生とか、私の師匠の西尾先生なんかが21世紀臨調という運動をやっています。ただその議論を聞いていても、申し訳ないんですが、あまり洞察力とか判断力が身につくとは思えません。どこに問題があるのかということですけれども、佐々木さんたちの運動はあくまで超党派的で、表向き色をつけないことにしています。彼らの運動というのは、あくまでも隠れたアジェンダとして政権交代を追求しているけれど、特定の党派にはコミットしないという前提を取っています。言っていることは、かつては選挙制度や政治資金の話。最近ではマニフェストを作りましょうとか、政治資金のあり方はこうでとか、公職選挙法はこうしようとか。つまり、政党政治の基本的なルールみたいなところばかりです。私はそういうのを「超党派的な説教」と呼んでいます。たまたまそういうことを考えておりましたら、資料7(「盲の手引きする盲」、本誌54頁)に引用しましたが、大杉栄[註12]のエッセーと遭遇して、なるほどこれなんだと、私も腑に落ちたわけであります。
大杉曰く──これは吉野作造批判としてこういうことを言っているんですね──、「第一義的のものを看過して、第二義的なものに没頭するところに、学者先生殊に社会科学の学者先生の本領があるんだ」。「政治の目的は分からない。何のためだか何人のためだか分からない。しかしとにかくその目的を達するための最も有効な方法があるというんだ。実に眉唾物の至りである」。まさに21世紀臨調に集まる知識人が言っているのは、「何のためだか、何人のためだか分からない」けれども、「その目的を達するための最も有効な方法」はこうなんだよ、ということを一所懸命言っている、ということです。これでは、やはり力にはなりません。たとえば対等な日米関係なり沖縄基地の県外移設、あるいは、子ども手当を中心とした福祉国家の増強と国民の負担増、民主党がこういった政策を打ち出せば、党派的な対立を惹起し、批判の砲火を浴びることも当然です。その時に、やはり知識人たるもの、特に今の民主党政権を支持するという立場の人はもうちょっと前面に出て、これでいいんだという砲列を敷かないことには、政権のほうが四面楚歌になっちゃって、自信を失って右往左往ということになります。挙げ句の果てに、前言を翻してさっさと退くというような結果になってしまったというわけです。
一つ言えることは、政治学というのは単に選挙制度がどうしたとか、マニフェストを作りましょう、みたいな手続き論だけではなくて、実体的な資源配分論に踏み込んで議論をしないことには、やはり意味がないだろうということであります。吉野作造という人は──大杉から批判を受けていましたけれども──、後年は明らかに無産政党にコミットして社会政策の実施に向けて、つまり政治的民主化としてのデモクラシー、普選と資源配分の変更、無産政党の要求に応えた社会政策立法といったところとを明確に結びつけていたわけです。
資本主義が先祖返りした今日、再びそのような意味での資源配分に踏み込んだ議論というものを、政治学でもやらなければいけないということを、私個人は言いたいわけです。
結び 政治学は新しいデモクラシーを作り出せるか
幻滅に慣れることの重要性
時間もだいぶ過ぎましたが、せっかく政権交代を起こしたけれども、なかなか当初期待したように進まないという現状こそが、丸山政治学の教えを適用し生かす政治状況だと、負け惜しみですけれど、強く感じるわけです。
私たちはリアリズムとシニシズムの区別をちゃんとしなければいけないと思います。私自身、鳩山政権の末期にせっかく民主党政権を作ったのに何だこれはと思って、やるせない思いで、たまたま寝る前に寝床で堀田善衞〔ほった・よしえ〕[註13]さんのエッセーを読んでいましたら、あっすごい、これだ、と思った文章に遭遇しました。それが資料8(本誌55頁)です。「出エジプト記」というエッセーの中で、堀田さんは、「自由と解放の後に幻滅の感が来ないとしたら、そっちの方が不思議なのであった」。「民主主義は、それ自体に、これが民主主義か?という幻滅の感を、あらかじめビルト・インされたform of government──統治の形態──なのであった」と書いています。なるほど、堀田さんという人は偉いなと思いました。堀田さんは1990年前後、東ヨーロッパの民主化の時にこのエッセーを書いたんですね(1990年3月)。先ほどの篠原テーゼは、東ヨーロッパから東アジアへ民主化の波だということですが、幻滅の波も伝播してくるんですね。だけど、幻滅してもあきらめずにちょっと動いて、また幻滅して、その繰り返しこそが民主主義なんだということです。
「悪さ加減」の選択ということ
それと似たことはすでに、もう50年以上前に丸山先生がおっしゃっています。資料9(本誌55頁)の「政治的判断」という講演は、1958年──つまり、私が生まれた年──に、長野県で行ったものです。「政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している」。「政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる」。この言葉は自民党政権が崩壊した今こそ、私たちが拳々服膺すべき言葉です。50年以上前に丸山先生は今日のこういう状況のために予言を遺しておいてくれたのかなぁと、堀田さんのエッセーと合わせて、そういうことを感じています。
最後に、しかし、希望はあるわけです。私は、丸山さんのような意味での<しぶといリアリズム>+<理想主義>。厳しい現実認識に裏打ちされた底抜けの楽観主義・理想主義。こういう精神のあり方を今の若い人にも見いだすことができると思って、希望を持っています。資料10(本誌55頁)で引用した湯浅誠君の論文です。私はこれに本当に本当に感動しました。湯浅君というのは、ご承知の方もおられると思いますが、〔丸山先生の弟子の〕渡辺浩先生のお弟子で、大学院を途中で飛び出して社会運動に行った。そういう意味で言えば、丸山先生の孫弟子に当たる人です。この人が自らの年越し派遣村の経験と民主党政権ができてから内閣府の政策参与として政府の中で失業・貧困対策に取り組んだ経験をもとにして、「社会運動と政権」という論文を『世界』に書きました。本当にこれはすばらしい論文です。この湯浅君の文章の一部を紹介して終わりにします。「社会が主で、政治が客だと思うから、一気に進展しないとしても、それは社会の勢力図の反映だと考える。一歩を刻むところまでは来た。しかし、それ以上ではないから一歩しか刻めない。それは、最終的には運動体の世論形成の弱さに起因している。弱いながらも一歩を刻むところまでは来た」ということですね。
湯浅君は僕よりも15歳ぐらい若い人ですけれども、こういう文章を書ける若い人がいるというのはすごいことだと思います。つまり、今は自民党あるいは官僚機構の大きな蓋が取れた時代でありまして、その気になって社会の側で動くことによって、一歩、二歩、三歩、政策を変えていき、世の中を変えていくことができる、そういう大きなチャンスが来たということでして、そういう時代であるからこそ、私たちは元気がなくなったな、幻滅したな、という時には丸山先生の書いたものを読んで、政治としぶとく息長く向き合っていくという態度を思い起こすことに、これからもしたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。(拍手)
【質疑応答】
川口 ありがとうございました。ご質問のある方がいらっしゃいましたら、頂戴したいと思うのですが、いかがでしょうか。
── 貴重なお話をありがとうございました。事実確認のようなことで恐縮ですが、最後の湯浅さんのような方が出てくるのとは逆の事例ですが。公式には福田歓一先生の直のお弟子さんは佐々木毅先生。篠原一先生の公式のお弟子は馬場康雄さんや舛添要一さんだったりするわけですが、篠原先生の直下に舛添要一がいるのは、どういうことか、コメントがあればお願いします。
山口 篠原先生の後継者は馬場先生で、舛添先生は駒場の先生でしたから後継者というわけではないんですね。別に弟子はすべて師匠の縮小コピーでなくてはいけないという理由はないんで、篠原門下に舛添さんがいても私はかまわないと思いますよ。それぞれ自由にやればいいだけの話です。もう一つ、東京大学法学部の政治学にもう過度な期待は持たないほうがいいと思いますね。東大政治学だからといった属性が学者の議論を規定するといったようなことはおかしいんで、東大政治学というのは、先ほど言いましたが、ある時代から学問の制度化の先端を走るようになっていますので、要するに組織とか制度ではなくて、個々の学者の生き方とか、学問の仕方の選択の問題として批判的精神を継承する人がいればいいだけの話だと思います。
── 昨今の風潮を見ていて、資源配分の必要性とか、雇用問題や沖縄の問題はとても大事な問題だと思うんですけれど、話があくまで表面だと思うんです。たとえば雇用問題について言えば、労働運動が衰退しているとか、根元にあるのは資本主義経済において従来の規制がなくなっていること。また、日米安全保障条約や外交問題に関しても、冷戦が終結してもう20年も経っているのに、依然として日米安全保障体制に対して根源的な批判を加えない状態で対等な関係を目指すとか、より同盟を進化させるといった瑣末な議論に進んでいるように思うんですが、その点についてどのようにお考えですか。
山口 資源配分というのは根本的問題だと思います。市場メカニズムというものを放置していたら、つまり今までの労働規制とか諸々の規制をとっぱらって金儲けを勝手にやれという時代を作ったら、格差・貧困時代が来るわけで、そうさせないために資本の動きをどうコントロールするかは、資本主義に対決する根本的な問題です。やり方としては、労働規制とか税による再分配とか、いろいろあるわけで、そこは菅さんがせっかくああいうことを言い出して、神野〔直彦〕先生など優れた学者もいるわけですから、この機会にきちんと枠組みを作っていくことが必要だし、チャンスだと思います。日米関係の問題については、ご指摘はまことにごもっともで、私なんかもお恥ずかしい限りですけれども。そもそもポスト冷戦の時代、もっと言えばアメリカがアフガンとイラクで大失敗した後の時代に軍事力というのはどういう意味があるのか。これからの安全保障をどのように進めていくのか、まさに根本の議論をしなければいけない。そういう根本の議論に参入する学者の層がもう少し厚くなっていって、議論が広がっていかないことには困るんですけれど。今活字の媒体が元気がありませんから、ネットの空間なども活用する可能性もあるだろうと思います。
── 参院選の印象ですが、私は民主党のオウンゴールで負けてしまったという感じがするんです。しかし負けたのは一人区で、全体的な票数では民主党は負けていなかった。前回の衆院選では、新自由主義的な流れで小泉が出てきて地方が痛めつけられたことに対して地方の反乱があって民主党が勝った。今回はそれが逆だった。選挙民のアンケートで、参議院がねじれて政策を通すためにみんなの党と連立したらいいじゃないかという答えが多く出ています。今まで国民の生活が第一と言っていた流れと、新自由主義的な党を結びつけるという意見が、国民の中にパッと出てくるわけですね。先生は、そういう流れをどのように捉えられていますか。
山口 私も参院選で民主党はそんなに負けていないと思うんです。おっしゃったように比例の得票は民主党が第一党で、一人区で負けたことで議席がだいぶ減ったということは確かです。理由はよく分かりませんが、民主党が政権をとってもそれほど期待に応えていないじゃないかという、何となく飽き足らない人々の票が、田舎の場合は自民党にいくしかない。都会だとみんなの党とか、ほかの党にいくんですけれど、田舎の場合は自民と民主しか立候補していませんから、自民党がその受け皿になったということです。戦術的には公明党が相変わらず自民党と事実上選挙協力をしていたということの効き目が大きかったのではないか。それと田舎は経済的にも都会よりも落ち込んでいますし、消費税率の引き上げという話が特に貧困層というか、経済的に恵まれていない層から非常に強い反発を受けたということもあるんだろうと思います。
これからどうするのか、と言われても、どうしようもないんですね。参議院で法案が通らないという現実があります。みんなの党と組んでも参議院の過半数はとれないわけです。中途半端に負けて、みんなの党を足したら過半数に達するという状態でしたら、連立の組み替えみたいな話になった可能性はあります。それだと今おっしゃったように、生活第一の否定、新自由主義の復活ということになりますので、政策的には矛盾した話になります。したがって参議院で過半数をとれないという状態の中で、今の民主党政権が政策を打ち出して議論をするという方向でいくしかない。参議院の与野党がしっかりと議論をしながら、まずは政党の対立点を整理していく。共通点がどこかにあるのだったらそこで次の協力の枠組みを考えていくということで、年内いっぱい、秋の臨時国会の間ぐらいは対立、論争みたいなことでいく。望むらくはいろいろな意味での対立点を整理するような生産的な論争ができれば、ということです。
── 俗なことを言いますが、私は民主党がヨタヨタしても、もう少し頑張ったほうがいいと思います。今の「生活第一」からして。その場合に衆議院はどんなにぶざまな場面が起こっても任期いっぱいやるぐらいの粘りを期待しています。片方では解散・総選挙、政界再編などと言っている人もいますが、山口さんはその点についてどうお考えですか。
山口 私は再編にはあまり期待を持っていません。直接菅さんとか政権の首脳部にものを言う機会はないんですけれども、この間、『週刊東洋経済』で月一回書いているコラムでは、三年続けると宣言せよ、それから全てがスタートするんだということは書きました。民主政治というのは、選挙で国民が権力者を信認する、ないしは更迭するという要素と、選ばれた政治家が一定期間国を統治するという要素と両方あるわけです。この間、ちょっと選挙が多すぎましたね。世論調査も多すぎるわけです。国民自身もよく分からない状態で、ある日突然電話で質問されて、与えられた選択肢の中で適当なことを答える。それでは本当の意味での世論が分からない。とりあえず電話で聞き出した答えなるものが新聞に載れば、それが世論になる。それを見た国民が今度は、あぁ、やっぱりそうか、と思うという悪循環が続いている。参議院選挙が終わってこれから最大限三年国政選挙はないわけです。この期間にこの政権はこのようなことをしたいんだという政権構想を秋の臨時国会の冒頭で打ち出せということを、私は一所懸命民主党の周辺に言っているところです。
川口 それでは時間となりましたので、山口先生の講演を終わらせていただきます。(拍手)
編集部註 / 会場配布資料
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