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駆け出し研究者のアメリカ体験

第20期 曽野裕夫

ミシガン大学のキャンパスの中でもひときわ美しいロー・スクールに少し緊張しながら到着したのは、1989年8月28日のことであった。ゴチック様式のロー・スクールの建物は夜になると照明に照らされて、ますます荘厳な雰囲気を醸す。同じ一角にある寮の窓からその美しさに見惚れる日がしばらく続いたものである。なかなか去らない夏の薫りを風が運んでいた。

私は現在、2年間の留学の1年目を終えた段階にある。LL.M.(Master of Law)取得には修士論文の完成を残しているだけなので、これから始まる2年目はその論文の作成をはじめ、日本ですすめていた契約法およびその隣接分野の研究を深めたいと思っている。

この1年間の収穫のひとつは、書物から得ていた認識をいくつかの点で改めることができたことである。たとえば、ホームズ判事の「法の生命は論理ではなく経験にある」という言葉が表すように、事実(経験)の重視ということがアメリカの法学教育の特徴としてよく指摘される。私も、判例法国であるアメリカでは判決に影響を与えた法的に意味のある事実を抽出する能力(リーガルマインド)が特に重要で、法学教育も法ルールよりも事実の分析に重点を措くと理解していた。 しかし、契約法や不法行為法といった伝統的な判例法科目でも、現在の日本の判例研究と比較してアメリカの法律家の方が事実をより重視しているという印象は受けなかった。むしろアメリカの法学教育の特徴として強調すべきなのは、事実の重視ではなく、法ルール(論理)を重視しようにもそれができないということではないか。それぞれ異なる法ルールをもつ複数の法域から成るアメリカでは単一の法ルールを教育することが困難であり、それを補うために法ルールの調べ方について周到な訓練がなされる。 法ルールとは覚えるものではなく調べるものであるというこの視点こそが、法典法国である日本との比較においてとくに強調すべき現在のアメリカ法学教育の特徴であろう。制定法の時代にある現代アメリカではこの限界が克服される分野も増えつつある反面、かえって制定法の洪水が法ルールとは調べるものという視点を再確認させる契機になっているようにも思う。

さすがに学期中は、フットボールの試合のある土曜日の街中の盛り上がりに参加したり、充実した大学の体育施設を十分に利用することができなかったのが残念であるが、休みの間は身体を休めるだけでなく、積極的に忙しく遊ぶことによって充電することを憶えたのも収穫であった。また、各国から留学してきている法律家との交流や、現代的な問題に焦点を合わせた豊富なカリキュラムは視野を広げるのに役に立ったように思う。 そして、あらかじめ指定された判決を学生が読んできていることを前提として討論形式で進められる法学教育を体験したり、裁判の傍聴で陪審を前に説得力ある弁論をする弁護士やロー・スクールのムート・コート(模擬裁判)を観ていて改めて気付かされた口頭表現能力の価値には、特に魅了された。巧みな口頭表現が入念な準備と正確な知識に裏打ちされたときのパワーを私は憧憬する。「交渉者としての法律家」というクラスに参加するのを楽しみにしているのも、それが日本で注目されている臨床法学教育の一環であることの他に、口頭表現のパワーの一端に少しでも触れることができればと思うからである。

駆け出し研究者に過ぎない私にとって吸収すべきことは無限にあり、実に知的刺激に溢れた毎日である。このような機会を与えていただいた村田海外留学奨学会には心から感謝するとともに、本会が今後ますますの発展をとげることを祈っている。