Globalization & Governance
Globalization & Governance to English Version Toppage
トップページ
HP開設の言葉
学術創成研究の概要
研究組織班編成
メンバープロフィール
シンポジウム・研究会情報
プロジェクトニュース
ライブラリ
研究成果・刊行物
公開資料
著作物
Proceedings
Working Papers
関連論考
アクセス
リンク
ヨーロッパ統合史
史料総覧

「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
産学共働の新しい波
濱田 康行
 
 

 本稿の目的はふたつある。ひとつは、1990年代の後半に出現した産学共働、あるいは産学連携運動の実情と背景を述べることである。特に“背景”については日本の資本主義の現況を意識しつつ考察してみたい。別の言葉でいえば、産学共働の経済学的考察である。

もうひとつの目的は、産学共働の北海道における情況を紹介することである。

〈産学共同小史〉

産学共働は決して新しい言葉ではない。日本の大学の歴史をみると、特に理系の分野に顕著であるが、官営が主流であった。大学は、官学であり、欧米への産業技術面でのキャッチ・アップを強く意識して設立されたのであるから設立当初から産官学でもあった。

 しかし第二次大戦後、情況は大きく変わった。戦争中、大学の研究の一部が軍事産業に利用されたことへの反省から、大学の中立性が強調されることになる。戦後民主主義は大学に“学の独立”、“学問の自由”という防御柵をプレゼントしてくれた。大学人はこれに守られて自由に自己の研究課題を設定することができた。大学の研究課題や方向性が産業

界の要請に影響されるということは、個別にはあったが組織的にはなかった。大学と産業界の関係は卒業生を通じて維持されるのが普通であった。大学では学会を意識して研究がなされ、産業技術の研究は卒業生が企業の研究所で行うという分業が成立した。

 そもそも分立していた両者の距離がますます遠ざかる契機となったのは学園紛争であった。この時期(1960年代から1970年代)、産学共働(当時は共同という字を使用していた)

は忌避された。産業側もこの頃から大学をいたずらに刺激することは避けるようになり、自前の研究施設を充実させることになった。もちろん、そうした事ができるのは大企業であり、それを現実に可能にしたのは企業の利潤の豊富さであった。高度成長が続いたお陰で企業は大学をアテにする必要がなくなった。もちろん基礎的な分野は大学の領域として残されたが、それは必要な時、“卒業生ルート”を通じて入手すれば間に合ったのである。

日本の産学共働は総じて極めて低調であったが、それは各方面に是認されていた。産学の関係は極めて個別的(ある企業とある研究室、教授個人との関係)であり組織的になることはなかった。企業が大学に入り込むにはまず大学人との人的コネクションをつくる必要があった。だから概して大学の敷居は高かったのである。

 高度成長から低成長へ、さらにバブル経済を経てリストラ時代に入ると、大学と企業の距離は構造上一段と離れることになった。というのは大企業が研究開発部門から次々と撤退し始めたからである。これまでは、産学連携は大学のある研究室とある企業の研究部門の間の連携であった。受託研究も共同研究もその大半はこうした個別ルートで支えてきた。しかし、リストラ経済下では費用対効果のはっきりしない企業の研究部門は縮小の憂き目にあうことになった。いまやかつての“花形”は一転して“金食い虫”とみられた。もちろんすべてではないが多くの企業が本業と直接かかわりを持たない研究部門を縮小した結果、ちょうど中間に空白ができるような型で、大学と企業との距離(研究上の距離)は遠くなった。こうした情況を経済産業省のあるレポートは次のような図で表現している。(図1(経産省))

〈平成不況〉

 産学共働という言葉はいつも囁かれていたが実態的には共働関係の希薄化が進行していた。そして、産と学、両者の距離が最も開いた時に両者の距離を縮める要請が生まれた。

 1990年代の初頭にバブル崩壊を契機に始まった平成不況は大方の予想を裏切って長期化している。90年代、二度の景気回復を認める論者もいるが、おしなべて10年不況である。この間、景気対策には膨大な資金が投入された。(注1)そして、その投入手法は伝統的な公共支出であった。公共支出の乗数効果を疑問視する意見もあったが、大勢を動かすには至らず、省庁間の支出割合にも大きな変更はなかった。簡単に言えば、ハコモノ、ハードへの支出を中心としたバラまきが続いた。しかし、景気は現時点でも回復していない。今回の不況が循環性のものではなく、日本経済の基本構造に(少なくともその一部)由来した根の深いものであることが徐々に明らかになっていった.宮崎義一教授の『複合不況』(中公新書)はかなり読まれたが当時の段階では処方箋づくりには至らなかった。橋本政権も構造改革を主張したが、具体策は示せなかった。いよいよ、なんとかしなければならなくなった時に小泉内閣は成立した。だから構造改革のスローガンは受け入れ易く、そのまま内閣の看板となった。しかしスローガンとしてはともかく、構造の具体的中味となると実は極めて曖昧なのである。現下では、金融機関の不良債権処理が構造改革の象徴のように言われているが、金融論の理論上は支持しがたい面がある。なぜ支持しがたいかについては次の私の論文を参照されたい。(注2)

 日本経済を型づくるいくつかの構造(要素)のうち、どれが今回の長期不況に関係し、改革の対象にすべきなのか、依然として不明のまま、二つの緊急課題の存在が誰の目にも明らかになった。

 ひとつは失業率の上昇、つまり雇用状況の悪化である。日本の失業率は戦後の一時期を除けば2%台で安定していた。それは、外国からみればまさに羨む程の低率であった。しかし、長期不況の進行下、徐々に上昇し、リストラ時代が本格化する1990年代後半には年々上昇することになった。現時点では、5.2〜5.4%、失業者数が300万人を超える状況である。(注3)いつの間にか日本とアメリカの失業率は逆転してしまった。日本的な経営家族主義は後景に退き、リストラ・人員削減を自分の使命と考える経営者が増えてきているようだ。また、失業の中味も悪化している。つまり一年以上の長期失業者が増え、かつ若い層の失業者(学校を卒業しても就職できない人々も含めて)が増えている。こういう状況が長期化すれば経済面だけでなく、社会問題が深刻化することは間違いない。暗い荒んだ社会はすぐそこまで来ている。

もうひとつの緊急課題は日本経済の生産性の低下、それに伴う日本の国際競争力の低下である。表1や表2をみると意外な事実に驚かされる。日本人は勤勉で、かつ日本の技術力は高いというのは常識ではなくなった。おそらく、よく働く日本人というのは変わらないにしても、能力を発揮できる職場になっていないという組織の問題がある。そして、重大なのは技術である。日本の技術がアメリカに比べて遅れているということを気づかせたきっかけはIT革命である。IT投資の額でみても90年代後半から月末の差は開く一方であった。(図2)そして徐々に、技術劣後がIT分野だけでなく産業技術の広い分野にわたっていることが認識されはじめた。

 主要国の経済成長率をみると(図3)この5年間日本は最下位にある。2000年からは落ち込みが厳しくなっている。日本の凋落の象徴的な現象は表2にも示されている。資本主義の勢力を比べるならひとつの指標はその中の企業の世界ランキングであるが、1995年と2000年では大いに違っている。ここでも日米逆転は明らかだ。

〈対応〉

 失業対策・雇用創出、それも長期的安定的な方法を探ること。そして、産業技術力を高めること。この二つの課題を達成する方法が求められている。しかも、ある重大な制約の中で。制約とは財政危機である。統計など見る必要もない程、日本の財政危機は深刻である。(注4)返済のアテがあやふやな国債の格付が下がるのは当然である。先進国で最初に破産する国は日本である可能性が高い。

 このような情況下では、いかなる緊急課題を達成するにせよ国家支出は頼れない。雇用創出の簡単な方法は一時的にせよ役人を増やすことだが、それはできない。企業が雇用を増やすしかない。(注5)しかし既存の企業、特に大手企業はリストラの名の下に雇用削減を実行している。となれば、期待の先は中小企業と新規に出現する企業である。

 大企業が失業を生み、中小企業がこれを吸収しているという現象は1970年代のアメリカやイギリスで確認されたことである。(注6)日本でも最近になって確認されている。(図4)アメリカの研究では雇用を生み出しているのは従業員20人以下の企業、イギリスでは自営業であったが、こうした小企業の雇用が一般的に不安定であるという事実も明らかになっている。そこで中小企業のうちでも雇用を安定的に維持し、かつ増大できる企業に期待が集まる。

 技術に関しては依然として大企業に期待が残る。日本の中小企業が置かれた情況から考えて、彼らに費用のかかる技術開発を期待することには無理がある。では、大企業の後退で生じた空白を誰に埋めさせるか。そこで突然のように大学に期待が集まる。大学といっても特に国立の大規模な大学である。新たに大学に予算をつぎ込むことは財政危機から無理である。大学には、過去に大きな金額が使われており、その幾分かは大学の知的財産としてあるはずだ。かくして、大学という眠れる機関の“財宝”に注目が集まった。

 これまで述べたところから言えば、理想的な構図は次のようになる。

「大学で開発された技術が経営力のある中小企業によって活用され、当該企業の成長により雇用が安定的に増大する。」

 1990年代になって“ベンチャー企業”という言葉が新聞のみならず様々な経済学関係の学会でも使われ始めた。よく考えてみると定義のない曖昧な言葉なのであるが、にもかかわらず“ベンチャー企業”が市民権を得たのは、上記の理想の構図の中心にそれが位置しているからである。

〈大学は目覚めるか〉

 眠れる国民的資源である大学の活用(大学側からは社会貢献)は突然にして時代の要請になってしまったのであるが、大学は果たして目覚めるのであろうか。ここで誤解のないように言っておきたいことがある。産業や経済に応用できそうな分野は大学の全研究分野の中ではさほどに多くない。そして、それが悪いことでは決してない。俗な表現になるが、一見役に立ちそうもないことを研究していることに大学の価値の相当部分がある。人間が動物と違って理性的でありたいと願うから大学は存在する。だから、問題なのは大学が役に立たないことではなく、応用分野という即戦力の部分が充分にそうなっていない、あるいは応用分野が時代の要請に比べるとやや少ないことである。

 大学を眠りから覚ます大きな動きがある。独立行政法人化である。既に文部科学省は平成16年からの法人化実施を決め法案を提出する動きである。国立大学協会もこれを大筋で是認したというからほぼ“決まり”という印象である。しかし法人化そのものはたいした問題ではない。既存の国立大学にとって問題なのは、すべての国立大学がそのまま法人に横すべりするのではないという点である。つまり現在ある国立大学をふるいにかけ、良さそうな大学だけを残すという選別がある。その予告編のような方針が平成13年に発表された。それが“トップ30”である。研究分野毎に上位30校に予算を重点配分し、国際競争に耐え得る研究水準を維持するというのである。

 こうした構想が財政危機に対応したものであることは明らかだ。国立大学の数を減らし重点投資する。そこで、地方の国立大学からは統合・連携構想が相ついで発表されている。いわば生き残りレースなのであるが、そのための当面の策はできるだけ国の方針に添っていることである。理工系の場合、これまで述べてきたような産学共働がひとつの方向として示されているのだから、それに乗るのもひとつの手である。大学は主体的な意志決定機構を持っており、外部からの要請に必ずしも応える必要はない。しかし、今度ばかりは、そうもいかない大学側の事情がある。だから産学共働がこれまでと違って急速に進みそうなのである。

〈三つのステップ〉

 これまでのところ今回の産学共働は三つのステップを経ている。第一のステップは先端科学共同研究センターあるいは地域共同研究センターの設立であった。アメリカに比べて日本の先端技術研究がやや遅れぎみであることはIT分野に象徴されていた。だからそのような研究施設をつくろうということは時代の要請に添うものであった。最先端分野は様々な研究分野の融合として展開することが多いから、これまでの学部・学科のタテ割りにこだわらず一箇所に集まって共同研究体制で進めようというのも理にかなっている。ところがこの構想にもうひとつの別な構想が付加される。それが産学連携、特に地域経済の担い手である中小企業との連携である。

1990年代の後半から全国の大学に共同研究センターが設置されたが、その目的は@先端科学の研究とA地域経済への貢献の二つであった。このやや収まり具合の悪い二重性は結局、建物の名称を二重化することになる。すなわち、全国区の規模の大きい大学では@をメインに掲げ、その名も先端科学技術共同研究センターと称した。これに対して、地域の小規模の大学では地域共同研究センターと称し主にAを目的とした。(注7)

大学の重い扉を開くという挑戦が、中央官庁の手で行われた。すなわち消極的な文部省(当時)に通産省(当時)が働きかけたのだが、その際に通産省に内在する二重性、つまり産業技術政策を担当する本省と中小企業政策を担当する中小企業庁が共同センターの性格づけに投影されたのである。

大学側にしてみれば、理工系の研究棟は恒常的に手狭であり、通産省の思惑がなんであれ建物さえ建ってしまえばそれでよかった。多くの大学人が何の建物かわからないうちに事態は進行した。結局、多くの共同センターが、理系研究室の分室と認識され、“別荘化”した。現状では@およびAという目的が充分に達せられたとはいい難い。かくして産学連携の意図は大学の建物というハコモノに吸い取られてしまった。もちろん、共同センターが産学連携の窓口になった事例もある。また、最近ではセンター内にリエゾン・オフィス(産学連携を推進するオフィス)を設置するなどの試みもある。しかし、共同センターを建てるというハコモノのステップから更に一歩進む必要があった。

〈TLO:リエゾンオフィス〉

図1に示したように、大学と産業の距離はこの数十年の間にかなり遠くなっていた。このことを認識しておくのは大事なことだ。アメリカを模範に様々な産学連携の試みが行われるが概してうまくいかない。個別のケースで首尾よいものもあるが全体的に、構造的には結果は今のところよくない。それは、日本とアメリカでは産と学の距離関係が違っているからである。

大学で開発された技術を民間企業に移転する。このために何が必要か。

最初の一歩は制度である。知識・技術が知的財産権として確定されていなければそもそも法的に移転はできない。このことをしっかりやろうというのが技術移転機関の設立の主旨である。端的に言えば、これまで大学の知識と技術はただ同然であり、いわば持ち出し得であった。研究室や研究者個人に“見返り”がある場合もあるが、それは極めて非公式であり、かつ対価としては不等に低いのである。企業からみれば、これは悪くない取引である。だから、この取引が成立するように研究室との人的コネクションをつくる。卒業生ルートや共同研究による人材の送り込みがその手段であった。こうした、やや不透明な関係を整理することがTLO(Technology Licensing Office)の第一の役割であるが、今のところ、この目的は順調に果たされている。全国に平成14年4月現在で27機関が“認定”されている。

TLOを機能させるには、大学内から特許案件が出て来なければならない。またTLOの側に案件を発掘する能力が備わっていなければならない。大学の研究領域は広大だが、どこで誰がいかなる研究をしているかを日頃から探っていなければならない。理想をいえば、TLOの開発部隊は“大学通”でなければならないが、そういう人材はまだ少ない。しかし、大学人の特許に関する考え方は少しずつ前向きになってきている。特許が点検評価の対象になったこともあり、大学人の特許への意識の変化は充分ではないが進んでいる。

TLOという制度の次は、この制度を動かすソフトである。技術移転といっても、技術が勝手に動いていく訳ではなく人によって移転される。人の関係が前提されねばならないし、移転には時間もかかる。人と時間となれば、それはすべて費用になるが、この費用を負担できる程に各地のTLOの財務体質は強くない。TLOの多くはこれまでのところ政府の補助金で生きている。

技術移転と一口に言っても,大学技術がただちに産業技術に転化するのは稀なケースだ。産業技術に成熟するには、実用化に向けての実験、その結果による改善を積み重ねる必要がある。大学内の研究であれば、大学の費用、大学への様々な補助金が使えるが、大学の外に出たときに誰が負担するかが問題となる。企業側が負担するにはリスクが大きい場合が多い。大学技術と産業技術の間を埋める時間と費用は分野によって異なるが、バイオ系などでは概して大きい。実用化するためには実験施設を一新しなければならない場合も多い。この間を、公的な資金を使った産学協働研究でつなぐというのはひとつの考え方である。

〈TLOの現状〉

1998年5月に大学等技術移転促進法が成立する。この法律は1995年以来制定された一連の“ベンチャー支援法”のひとつである。この法律に基づいて設立されたTLO(承認TLO)が2002年4月現在で27社ある。各機関の組織形態は財団、株式会社、学内の一部局と様々であるが、主要な任務は特許ビジネスである。単に特許案件を探し、特許化し、ライセンス先を開拓するという一連の仕事だけでなく、共同研究を仕かけるとか、特許移転先となる会社の設立に参加するとかの幅を持つケースもある。こうしたTLOの業務の拡大をTMO化(Technology Management Office)といい、今後の推進課題である。TLO26社の平成14年3月末の国内特許出願件数は約2043件、外国出願は318件である。このうち実施許諾件数は356件であり、実際にロイヤリティ収入をもたらしたものは262件である。出願件数の10%と必ずしも高くない。これは各社が、存在意義を示す第一歩として出願件数を意識したことによる。しかし、陳列棚に商品を並べているだけでは意味はないのであり、いかに売れる商品を最初から心がけて製作していくかが課題である。

研究、特許、実用化などの各段階がそれぞれ独立に展開し、やがて連携を持つということは実際にはなかなか生じない。こうしたプロセスが最初から組み込まれたような総合的なプロジェクトが構想されるべきである。そのひとつの例として北海道で構想されたマリンコンビナート計画がある。構想の第一歩は北海道の持つ課題を把握し、そのうち相互に関連したものを選定する。当計画の場合、エキノコックス、水産加工廃棄物、環境問題、そして水産資源の保護などを選定し、これらを総合的に解決する方策として“ゼロエミッション型の新規事業”を立ち上げる目標を掲げた。(注8)

大きな目標を掲げ、かつ事業化を最初から意識したことで、研究者は自分の研究の応用局面を想定しながら研究を進めることになる。また、様々な研究分野の人々が初期段階から協力し合う体制がつくられた。プロジェクトには特許流通アドバイザー、それに飼料会社(キツネにエキノコックス虫の駆虫剤を混入した飼料を食べさせる)が参加した。

北海道の抱える経済・社会問題の解決をめざすという目標は、利潤追求という私企業レベルの動機を超えたものであり、その分、国立大学が協力しやすく、また大学の社会貢献の推進にもなる。実際、大学発の企業を起こそうとしている人々に動機を聞いてみると、利益動機というのは少なく、自分の研究を社会に役立てたいというのが多いのである。だから、後に述べる大学発のベンチャー像というのは従来の利潤追求型の企業像とはやや異なることになる。

〈北海道TLO〉

 北海道TLOは全国で10番目の承認TLOとして1999年の12月に株式会社として設立された。その特徴を列挙すると次のようになる。北海道でオンリーワンをめざし、北海道の国立大学の参加で設立。株主の大半は大学教員であり、大学人の組織であるという意識を徹底。役員の半数以上が大学教官である。産業技術力強化法の規定を利用して大学の事務棟内にオフィスを持っている。大学の研究協力棟がすぐ隣に密接な協力関係を築いている。

 現状で運営上の問題点を探ると次のような点が浮かびあがる。特許ビジネスというのはいわゆる懐妊期間が長い。つまり特許を得ても、それがライセンスシングとなり現実に収入をもたらすまでが長い。支出が先行し、あとから収入があるがその期間が長く、不確かな部分もある。この欠陥を補うためには次の二つの方法が有力であると考えられる。ひとつは、ライセンスシング可能性の高い特許を最初から目ざす事。理想的なのは、企業との共同研究を仕組み、そこから技術・特許が出、それを共同研究企業が利用するというものだ。TLOに出資機能を持たせ、特許+資金で企業の創出に参加する方向も検討されている。平成13年度の補正予算では、文部科学省、経済産業省ともいわゆるマッチングファンドの構想を打ち出している。TLOが仲介役となって、大学の研究室と企業が共同研究を実施する。その際、国は、この研究が企業家を目めざすものであることを前提に企業の支出した額の二倍を限度に補助金を出す。TLOには仲介者としての手数料が入り、経営の安定にも寄与するというものだ。この制度に関しては、予算のバラ散きとの批判もあるが、政策当局としてはせっかく生まれたTLOを活用していきたいという希望のもとに実施している。というのも、TLOの存在が大学の研究の方向性に変化をもたらすという影響がみてとれるからである。TLOが設置されている大学の方が、そうでない大学に比べて産学連携に熱心であることがいくつかの調査で示されている。

〈特許の分布〉

 TLOがどのような分野の特許を出願しているかを地域別にみたものが図5である。ここには地域的な特色が強く出ている。例えば北海道には製造業関係が少なくライフサイエンス系が多い。四国も同様である。これは好ましい傾向である。というのは、ややもすれば全国画一的になるからである。産業連携を推進したのはもともと官であるし、TLOにしてもやはり国の法律によって設立根拠を与えられた。それらは地域的運動ではない。さらにいえば、日本の国立大学はすべて文部省のいわば支店であり、いわば東大をモデルにしている。しかし、TLOがそれぞれ特許活動をやってみると図5のような差異が出たのは、画一的な枠の中にもそれぞれの大学の個性が発現していることの証しである。そうなったのは、各地域の特色が大学にも反映しているからである。こうした地域性は大学発ベンチャーを具体化するうえでも考慮されねばならない。

〈平沼プラン〉

 平沼プランとは平成13年5月に経済産業省が発表した“3年間で大学発ベンチャーを1000社つくろう”という目標である。やや唐突の感もあるが、失業率の高まりを受けた緊急雇用対策のひとつである。実はベンチャー企業の雇用創出能力はさ程高くないことが海外の事例から実証されている。だから、大学発ベンチャーが雇用対策というのは実は直結していないし、短期の効果という点では無理がある。むしろ大学発ベンチャーは、日本の生産性の向上、企業社会の活性化、産業技術の高度化などを直接的にはもたらすはずである。それだからこそ経済産業省が最も関心を示してよい分野である。雇用対策が緊急を要するものとなり、厚生労働省だけでなく関係各省に要請があった折に大学発ベンチャーという持ち札に雇用対策を冠したというのが実情のようだ。

1000社という目標はアメリカを参考にしている。アメリカでは、有力な理系大学とビジネス・スクールが連携して多くの大学発企業が生まれている。同様な現象はカナダでもみられる。こうした現象がアメリカの経済活力や今日の長期にわたる経済繁栄に貢献しているという認識がある。もっとも、こうした主張はマクロ的に検証されたものではない。しかし、大学発企業の多くが安定的に成長し雇用を拡大していることはミクロ的には事実である。もちろん、失敗するケースもあるのだから、大学発の企業づくりにどれだけの費用が使われ、どれだけの雇用が生み出されているかが長期的に検証されなければならない。しかし、日本ではこの運動は始まったばかりであり、データがそろっていない。また、こうした運動が、大学そのものにいかなる影響をおよぼすかについても観察する必要がある。中国の有力大学では、数年前から大学発企業運動が盛んであるが、それは大学の研究条件の悪さ、教員の待遇の悪さの反映でもある。また、教員がビジネスに熱心になるあまり、本来の仕事である教育に支障が生じている事実もあるという。

 ここで強調したいのは、平沼プランが産業連携運動の第三波として位置づけられるということだ。第一波である、先端研・地域共同研究センターの設立はともかく大学の窓を外に向かって開くことを意味した。第二波のTLO運動はこの窓を通して出ていく大学の知的財産の取扱いのための制度的な整備である。そして平沼プランはとり敢えずのゴールとしての企業づくりである。

 不況とか失業とかの根本問題を資本主義の枠内で解決しようとする際、ひとつの答えにいつもなりうるのが新しい企業の誕生である。それは新しい血液を注ぎ込むようなものだから、古くなった組織にはいつも一定の有効性を持ちうる。しかし、注ぎ込まれる本体が根本的欠陥を持つ場合には一時の対症療法にしかならない。このことは念頭に置いておくべきである。しかし、いまのところ平沼プランは日本の選択した数少ない処方箋のひとつであるようだ。

 平沼プランは大学にとっても好都合であった。国立大学は、膨大な税金を使い、かつ有能なる人材を多数擁しながら、学問の独立を楯にして経済社会の苦境には知らん顔を決め込んできた。これが、今日の世間の大学を見る目である。大学の法人化は実は日本の学問・研究のあり方を決める“100年問題”なのであるが、あまり深い議論がなされないうちに社会の主要な構成員が賛意を示すのは、上記のような大学への潜在的な不満があるからである。この不満を緩和するひとつの手段、そういう考え方もあるから平沼プランは受け入れられたのだ。大学への進学率は既に低下している。大学が国民全体の財産という意識は薄れ始める。大学にいかない人々にとってみれば大学は贅沢品であろう。だから社会全体の役に立つことを示さねばならない。平沼プランは渡りに舟だし、大学の活性化にも貢献するという期待もある。

 しかし、プランの実現となるとなかなか難しい。図6は平成12年までの大学発ベンチャーの数である。数は増えているが目標が1000社となると道は遠い。このままでは達成不能とみた政府は平成14年度には新たな支援等を実施する。(注9)

 北海道の例でみると、現在5社のプロジェクトが進行しているが、発信は若手というより学会でも地位の確立した教授層が多い。彼らのような地位を持たないと資金をはじめとする各種のサポートが集まらないのかもしれない。設立者に動機を聞くと、多いのは社会貢献とか社会への現れであり、個人的動機というより社会的動機が強い。数年前の調査では大学内で最も強い起業動機を持っているのは大学内で不遇であった中高年の講師・助教授層であった。しかし、現実はこうした層のベンチャー志向を引き出す程の状況にはまだないようだ。そうなるには大学内の組織改革(講座制ヒエラルキーの是正など)が必要である。

 大学発ベンチャーについての調査は文部科学省の事業として実施されている。それによれば、全国687の大学を対象にしたところ、大学発ベンチャーは424社であったという。数は急速に増えているが、前年調査で報告されなかったものが入ってきたという事情もある。大学発ベンチャーの業種で多いのは情報通信系で全体の1/3を占める。次いでライフサイエンス、電子・機械、ナノテクノロジー・材料となっている。大学発ベンチャーにはまだ2000年ITバブルの影響は出ていない。政府系研究所のベンチャーにはライフサイエンスが多い。これは、理化学研究所が大きな比重を占めることと、バイオ研究には巨額な資金が必要で、それを支出できる機関が限られていることによるものと思われる。

 

 大学発ベンチャーには三つのタイプがある。@技術移転型、A人材移転型、B出資型である。もちろん@、A、Bは併用されてよい。むしろ併用されるべきである。既に述べたように技術だけ移転するというのはかなり無理がある。共同研究などで企業側の研究者が大学の研究室に最初から入っていればよいが、そうでない場合は人が必要となる。大学の人材が動くとなると身分上の不安定という問題が生じる。国立大学の教員に、勇気を持ってスピンアウトしろといっても無理があるから、現行法内で休職という手段を採ることになる。このような場合、退職金上の不利益が生じないように処置がなされているが、適用例は少ない。

 技術の応用にも人は必要であるが、人という点で決定的なのは経営である。平沼プランの弱点は、社長になる人材の確保について具体策がないことである。制度的にもまだ不備である。TLOに関する法律や平成12年の産業技術力強化法によって大学職員による民間企業役員の兼業は限定的に認められたが、この方面の規制緩和はまだ充分ではない。また、制度外での抵抗もあり、認められてもほとんどが無報酬という限界もある。

 社長の器という言葉があるが、大学人がもっとも持ち合わせていない資質である。1000社を誕生させるには1000人の社長が、そして望むべくは1000人の側近が必要だが、そのための方策がない。アメリカの大学のようにビジネススクールを設置して養成しようとしても日本には様々な問題がある。ひとつはビジネススクールの教員がいないことだ。いなければ、明治の頃の北海道大学のように外国人教師を招聘するという方法もありそうだが、それは自然科学分野だから可能だったのである。日本の経営は“日本的経営”というぐらいでアメリカのそれとは違い、この違いは両国の資本主義の歴史や文化的風土によるのであるから、日本の事情を知らない人に日本のビジネスを教えるのは困難だろう。それならアメリカのビジネススクールに送り出せばよい。この方法は私的なレベルでは既に相当の数で行われている。アメリカの有名ビジネススクールには数多くの日本人が学んでいる。しかし彼らの多くは日本の大企業の派遣組である。私費の人々もいるが、前者も含めて日本のベンチャー企業に入るという意向は実はほとんどない。ひとつの理由は、アメリカのビジネススクールの授業料が高額で、この元手を回収しようと思ったら給与が安く不安定な職場は選べないからである。アメリカのビジネススクールの卒業生はエリートであるが故に、立ち上ったばかりの日本のベンチャー企業には不向きである。

 第二の問題は、ビジネススクールという存在が、日本の大学の伝統になじまない面があることだ。日本の大学はヨーロッパの伝統を継承しており、実用主義とは距離がある。なかなか移植しても根づかない。もともと商科大学であったところでさえビジネススクールが主流になるには時間がかかる。最後の問題は学生が集まるかという極めてシンプルなことである。他の学部と同じように高校を卒業した人々を集め22才で卒業させても、すぐ“社長”になどなれるはずもない。だから、ビジネススクールは社会人や社会人経営者を対象にすることになるが、そうなれば土日と夜間の開校は必然である。しかし、現在の大学の組織はそれに対応できない。

 既にいくつかの大学でビジネススクールはスタートしているが、それは大都会にあり、かつ再び大学で学びたいと希望するOBが多いなどの条件の下に成立している。そこで国立大学に一般的に可能性のある方法は、既存理工系学部に少しだけ(初歩の教育に充分なだけの短時間)ビジネス関連科目を設定することだ。

 日本の会社の社長の半分は理系の出身である。彼らは、職場の中で経営の実践を学んだ。しかし、ベンチャー企業には最初から技術も経営もわかる人材が必要だ。政策当局も、技術プラス経営の人材を育てる計画を立てている。「イノベーションを担う起業家・経営人材の養成強化」というのがそれである。「専門技術知識と起業の経営能力の融合」がスローガンだが、いまさらアメリカのようにMITの卒業生がハーバードのビジネススクールにいくという方法は使えない。時間もないし費用もかかりすぎである。北海道大学では平成13年度に理工系学生を対象に2泊3日の集中合宿形式でビジネス入門コースを実施し、現在も継続している。(注10)このような試みを改良して全国的に展開するのも費用対効果をあげるひとつの方法である。

 技術と経営の融合を、各種のコースの実施を含めて先端研や地域共同センターが実施することも考えられる。ビジネスコースを理系共通科目として実施すれば、先端研が研究機能に加えて教育機能を持つことになり大学内での地位強化につながるのである。

注1) 小渕内閣以前に投入された景気対策費を含めると累計120兆円になる。

注2) なぜ支持しがたいかについては、次の私の論文を参照されたい。

「協同組合としての信用組合」『信用組合』全国信用組合中央協会(2002年7月号)

注3)2002年4月の発表では全国で5.2%、北海道は7.3%であった。

注4)政府累計債務は650兆円(2002年4月)にのぼっている。

注5)最近になって雇用対策として注目されているのがワークシェアリングである。しかし、これは根本的な雇用創出ではない。ひとつの仕事を数人でするのだから過労死の防止にはなるが雇用は創られていない。また、この方法では労働のスキルが低下するおそれがある。

注6)アメリカで1970年代にバーチ報告が注目された。

注7)歴史的には地域共同研究センターの方が歴史が古く、第1号は富山大学に設置された。

注8)マリンコンビナート計画については次の報告書がある。

『マリンコンビナート構想による事業化調査研究報告書』北海道大学先端科学技術共同研究センター(2001年8月)

注9)平成13年度の補正予算から実行され、平成14年度も継続される「大学発事業創出実用化研究開発事業」である。TLOが仲介者となり民間企業と大学研究室の協力で企業を立ち上げる。そのために共同研究を実施、企業が費用の1/3、国が2/3を支出する。同様な計画が文部科学省からも提案されている。

注10)この事業については次の報告書がある。

『平成13年度、先導的起業家育成システム実証事業』北海道大学経済学研究科(2002年3月)

 

補論 知的財産本部について

 国立大学が独立法人になるにつれて、対応しなければならない問題のひとつに知的財産の管理がある。

 大学の主な財産は何かと問われれば、それは土地や建物ではなく、研究が生み出す知的財産である。それがあるからいわゆる高等教育も可能なのである。もちろん、教育に関するノウハウも知的財産の一部である。

 これまでは、国立大学は文部省の一出先機関にすぎず、自らの名義ではいかなる財産も持ち得なかった。ところが、法人化ということは所有権者たりうることを意味する。建物や土地などは評価して大学法人の財産として登録することは比較的容易であるが、難しいのは無形財産の一種である知的財産である。1)

 知的財産には二種類ある。ひとつは、権利化のできるもの、つまり特許や著作権などであり、他は教育ノウハウや特許には向かない様々な知識体系である。ここで問題にするのは前者である。これまでは、大学内でなんらかの発明がなされると、それは国有になるか発明者個人の帰属になった。その振り分けは、大学内の発明委員会がするのだが、実際上、その機能は充分でなかった。というのは、多くの案件は委員会にはかられることなく、学外に流出していたからである。

 法人格を持つということは自律するということであるから、もはやこのような杜撰は許されない。発明はすべて職務発明であり、その権利は大学に帰属する。となると、大学が自らの手で特許等の権利化をし、その管理・運用をしていかねばならない。これまで、どこかで国立大学の発明に関する管理を実施していたなら、その機能を各大学法人に分属させればよいのであるが、そうではない。国立大学の知的財産管理はまったくの未開の領域なのである。

 特許化したものの応用(いわゆる特許権の利用許諾)については、まさに企業まかせであった。逆に言えば、企業側がやってくれていたのである。この部分も、法人化後は大学が自ら行わねばならない。

 文部省は、こうした事態の困難性を意識し、平成15年度の予算で新たな措置を講じた。それが「大学知的財産本部整備事業」である。

 法人化された大学には知的財産本部があってしかるべきである。この本部の設置に向けて準備する費用を法人化前に支出しようというのである。この予算に向けて北海道大学でも知的財産本部の構想を検討する委員会が設置された。

 知的財産本部は単に特許権や著作権を管理するだけではない。冒頭に述べたように、知財権は大学の主要な財産であるから、法人として自立する以上、どのような分野の知財を生み出していくか、つまり研究の方向性を示さなくてはならない。国の方針は、国立大学の再編、要するに数を減らすことである。大学側にしてみれば、研究分野に特色を出すことが必要である。知財本部は、大学の主要な機関としてこうした方針作成に参加する必要がある。

 特許化の事務手続きなどは、既存のTLOに外注することになるが、おそらく一番の問題は特許の応用・利用の使い道である。大学でなされた発明が特許化され、それが社会的に利用されることは大学の社会貢献そのものであり大学の存在意識(特に税金によって運営されている大学)を示すことであると同時に、大学自身にとっても独自の収入源として重要である。よく言われているように、アメリカの主要な大学は巨額な特許収入をあげている。それが次世代の研究に利用され、また新たな特許が生まれるというように、知的財産サイクルが機能している。

 ところが、この応用・利用面がこれまで個々の研究室とそこに結びついた企業の関係、いわば大きな公的組織の中の私的関係に全面的に委ねられていたのである。これからは、大学としてなんとかするといっても、集合的なノウハウはどこにもない。ここが最大の問題であるし、法人発足前の一年間を使って準備すべき要点なのである。おそらく、大学の個々の研究室が持っている外部との関係を知的財産に集中する作業が欠かせないが、それには関係する研究者の協力が欠かせない。

 大学人の知財に関する意識改革という点に関連づけていえば、必要とされる知財本部の機能のひとつに教育がある。これは、知財に関する知識を持つ人を育てる教育と、研究者の知財に関する啓蒙活動に分かれる。


1)

知的財産の評価については民間企業においてさえ正当になされているとはいい難い。企業の価値はよく株式時価総額で測られるが、ここに知的財産部分は反映されていない場合が多い。島津製作所の田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞したとたんに同社の株価が急騰したのは、こうした日本の状況を反映している。

また、知的財産権に対しては、企業会計上の対応・認識も遅れている。