〈はじめに〉
北海道拓殖銀行が破綻してから5年が経過する。この事件がきっかけとなって公的資金による銀行への資本注入が行われた。これだけが効を奏したのではないが、以来、都市銀行クラスの大型倒産は避けられている。
民営の企業に、しかも、巨額な公的資金が注入された例は他にないが、その概略を示すと別表のようになる。
実に10兆円を超える税金が2回に亘って注入されたのである。私企業に公的資金が資本金として注入されるということは、資本主義経済では原則的にはありえないことである。国民生活に必要なサービス・財貨を提供している民営企業が経営難に陥ったために、やむを得ず国営化するというケースは歴史上みられるが、それはあくまでも緊急避難であり、かつ民営から国営という組織形態の変化を伴う。注1)
これに対して今回の公的資金の注入は、民営を保全するためのものであり、経営陣にも一切退陣を求めないものであった。前代未聞の大盤振る舞いを国民は是認したのだが、世論形成の背景に拓殖破綻があったことは間違いない。露骨なことを言えば、平成8年の住専問題で封印されていた公的資金注入を再実施するために拓銀は“いけにえ”になったのである。拓銀破綻→被害甚大→「大銀行を倒産させない」という単純な図式が、まず金融当局者の頭に描かれ、これがマスコミに乗って世論として浸透せしめられたのだ。
しかし、これ程の原則変更が情緒的運動だけで行われるものでもない。この過程には単純ではあるがひとつの理屈がついていた。それは、金融機関は公共的な存在であり簡単に倒産させることはできないというものである。
「金融機関(以下では銀行で代表させる)は公的存在」であるが故に倒産させられないという「命題」が最もわかり易くスローガンになった事例がある。それは「大手21行は潰せない」という金融当局の宣言であった。この宣言の出所は明らかでないが、当時の大蔵省高官の発言として伝えられており、「国際公約」としても通っていたと言う。ところが、この宣言も盤石ではなかった。というのは拓銀の破綻を容認する過程で一度、反古にされたからである。そうなったのは、宣言と、一方で政策当局が進めていた「日本版ビッグバン」という自由化路線が衝突していたからである。当時の判断としては、ペイオフを実施していないうちなら預金者に影響はないから、状態の悪いものをいくつか倒産させてみるのもよいというものだった。拓銀は実験台に使われたのだが、その実験結果はすこぶる悪かった。注2) そこで、再び「銀行の公共性」が強調される局面がやってくる。「21行は潰せない」の際もややそうであったが、今回は、大きくて影響力のあるものは潰されないが、そうでないものは見捨てる、つまりより差別的になっているのが特徴である。
このように、時折、しかも都合よく繰り返される「銀行の公共性」とは何かを考え、そこでの結論をもとに銀行への公的資金注入の非正当性と資本主義経済における公的金融機関の存在意義を考える。これが本稿の課題である。
〈二つの公共性〉
資本主義社会といえども、人々の生活のすべての面を市場原理・利潤原理で覆い尽くせるものではない。資本主義社会には次の三つの分野がある。
1. 公共分野
行政サービスは言うに及ばず、資本主義社会の中には国が事業主になる分野が多い。利潤原理にまかすとサービスが不完全になる分野がある。鉄道などの場合、人口の多いところにしか建設されないことになる。電気の供給事業も同様だが、それでは国土政策上問題がある。また、国民の側からみれば、生活のための当然の要求だが、それは利潤原理の事業主体には受け入れられないことがある。
何が公共分野であるかを決めるのは、それぞれの国の状況・発展段階による。だから国と時代が違えば公共分野の内容は異なるのだが、ともかく利潤原理ではやれないという質的規定性を持った“公共性”がその時代ごとにある。これを“質的公共性”と呼んでおきたい。ある分野の事業を担当することは、それ自体に公共性が存在し、事業の規模の大小には関係ないという意味で質的である。
2.混合分野
利潤原理と公共原理が適当に入り混じっている分野もある。典型的なのは医療とか教育の分野である。サービスを受けるのが国民全員ではなく、限定される場合、利用者が料金を支払うことは合理的である。逆にいえば、事業主は収入を得る。この収入が利潤原理に合うようであれば、民営の主体が参入してくる。民営にすべてまかすことにならないのは、利潤原理に合わなくなって撤退されてしまった時、国民生活に重大な影響が出るからである。
どのくらいが公営でどのくらいが民営がよいかは、もちろん分野により、また国と時代により異なる。また、どちらがメインでどちらがサブかという判断もそうである。ともかく、混合していることで、公と民に競争が生じ、それが利用者の利益になる。ただし、競争は平等に行われないと“民業圧迫論”を誘発する。
公営が併存するということは、同業の民営に利益の上限を画するという制約を加えるとともに安定した利潤を保証することにもなる。なぜなら公的に必要という質的規定が企業に与えられ、それが企業に安定をもたらすし、料金設定が公的に行われることから民間企業間に生じる過当競争が少なくなるからである。
この分野に成立する事業も、第1の分野と同じように質的公共性を持つ。
3.利潤原理の分野
自らの利益を追求することが是認され、効率性を競争し、市場で評価される。多くの事業体はここに属し資本主義の主要な分野を形成する。
重要なことは、純粋な市場原理の分野でも公共性が見られることがあるという事情である。私営企業でも、彼らの生産物が市場のかなりの部分を専有する場合、そしてその生産物が国民生活に重要な意味を持つならなおさら、その企業は公共性を持つ。歴史的に民営が国営に転換するのは、こうした企業が経営難に陥ってしまった時である。国営にしてでも存続させるのは、その事業に公共性がある証である。
企業規模の拡大とともに公共性が認められるようになる。これを“量的公共性”と呼んでおく。中小企業に公共性がないと主張しているのではもちろんない。量的公共性は、理論的には自給自足の状態から商品が生まれた瞬間から生じるが、企業が一定規模に達した時に明示的になる。中小企業が成長し、株式を証券市場で売買するようになれば日本では“公開”という表現を用い、それを実現した会社は公開会社と呼ばれる。英語では同じことをGoing Publicと言い、それを行った企業はPublic Companyとなり、いわゆる私企業とは区分される。
このような公共性は、運輸、エネルギー、通信、教育、医療などのように、そこに成立するだけで、規模の大小にかかわらず成立する公共性とは異なる。量的公共性と呼ぶゆえんである。二つの公共性はそれぞれ別々に存在しうるし、また同時に存在することもある。
〈金融機関・銀行の公共性〉
以上の議論を念頭において銀行の公共性の内容を吟味してみよう。銀行が、三分野の第3
番目に属することは自明である。金融業は利潤を目的に展開する業種であり、歴史的にも多くの国で民業として展開してきた。公の手がこの分野に伸びるのは民が充分に展開したあとである。それにもかかわらず、銀行の公共性が人々に強く意識されているのはなぜであろうか。
銀行はこれまでに述べた公共性とは区分されるいわば第三の公共性を持っている。その公共性は、銀行の理論的な成立を跡づける理論の中に見出される。詳しい説明は別のところで述べたので、ここでは要旨のみを示す。注3) 銀行は三つの機能を持つが、理論的にも歴史的にも最初に現れるのは“様々な企業の出納役”という機能である。図1のように銀行は数多くの、しかも様々な業種の企業に取り囲まれてはじめて成立する。出納役がうまく機能し、かつここから貸出のための原資が捻出されるためには、資金の出入時期が異なる企業に囲まれている必要がある。逆にいえばこうして成立した銀行は企業社会の公共機関という性格を最初から持っている。企業だけが資本主義社会の構成員ではないからこの公共性は本来、限定的である。先に述べた質的公共性とは次元を異にするものであるが、資本主義における企業の圧倒的存在によりしばしば同一視されてしまう。
さらに銀行の公共性は次の事情によって強められる。それは、理論的には銀行の取り扱うものが貨幣という使用価値を超越した均一“商品”であることに由来する。各銀行は同じ“商品”を取り扱っているから容易に連携しうる。ある銀行が資金不足になれば他の銀行が融通するというように互いに手をつなぎ合う。図2はその様子を示している。こうした図は製造業では描きにくい。
銀行業では、図2のような構造の故に、ひとつの銀行の破綻が他の銀行の危機になるという構図になる。つまり、銀行の存在の仕方が社会的である。企業社会の公共施設という性格は強化されることになる。歴史的にも、一銀行の破綻がその国全体の金融危機に発展した事例は多い。図1や図2で、中心と周辺をつないでいる線を貨幣の機能で表現すれば支払手段であるが、まさに支払不能の連鎖は一銀行のエリアにとどまらない。図2のような連鎖が拡大すればする程、銀行の公共性は強く意識される。今日のように、連鎖が国際間に拡大していけば、一国のひとつの銀行の破綻でも国際問題になりかねず、その分、ある国が他の国の銀行制度の安定に言及するという“内政干渉”も生じうるのである。また、BIS基準の遵守を各国の銀行に強制することにも理論的根拠が生じる。たとえ、当該銀行が国際部面にまったく関係がなくてもである。
わかり易く言えば、あるビール会社が倒産しても消費者は他の会社のビールを飲めばよい。また、このビール会社の支払いが止まっても取引関係のない製造業に類は及ばない。しかし、銀行の場合は事情は異なる。他の銀行に麻痺が及ぶ可能性があり、支払不能は銀行を取りまく全産業に及ぶ。
銀行の公共性は実は特殊なものであるが、これも量的公共性を合わせ持つ。つまり銀行の規模が大きくなればそれだけ“公共性”は大きくなる。図1で言えば、周辺の企業数が増え、それに伴って中心にある銀行も太っていく。それだけ、銀行が企業社会の公共機関という性格は強まることになる。しかし、ここで言う量的発展はあくまでも連続的なものであり、どこかに段差があるというのではない。
〈銀行の公共性の発展と未完成〉
銀行業はその発展過程において必然的に企業から個人へと領域を拡大していく。それは受信面・預金面で顕著に生じる。企業世界の資金需要に企業社会の預金だけでは対応できなくなっていくからである。しかし与信面では充分に展開することはない。銀行は発展の過程で大衆預金を獲得しにいくが、大衆を相手の貸出しは一般的には行わない。そうすることが利潤原理に照らして合わないからである。だから、この方面の進出によって得る銀行の公共性は半面でしかなく不完全である。
中小企業分野でも同じような事が言える。中小企業の範囲は、企業と呼べる程度に成長したものから個人として扱った方がよいものまですこぶる広い。利潤原理で行えそうなところからそうでないところまで直線上に並んでいる。預金獲得の対象としては全部だが、貸出対象としては上方の部分だけである。だから、ここでも銀行の公共性は半分でありかつ不完全である。
銀行がこの不完全さを克服したかにみえる時がある。庶民金融に積極的になったり、小企業金融に進出してみたりする。そういう現象は戦後の日本でも何度か観察されている。しかし、それは銀行側の事情による一時的なものであった。この観察事実は重要である。
いわゆる庶民金融の分野を銀行も担当せず、かつ公営機関も出現しない、あるいは不十分ということになると、ここに高利貸金融が復活する。これらは資本主義社会の体内にひそんでいるヘルペスである。
〈小括〉
銀行の公共性は、色合いの異なった複数の公共性から構成されている。まず銀行は諸企業の公共機関という性格から企業社会内部の公共性を持つ。しかし、それは質的公共性とは違う。象徴的な表現をすれば、“人々のために”と“企業のために”とは違う。もっとも、資本主義を是とするイデオロギーが人々を支配していく度合いが高まれば、二つの公共性の類似性は高まる。
信用制度の普及により、預金・支払決済等の業務が人々の領域(庶民金融)が小企業の領域(中小企業金融)へ展開すると、銀行は質的公共性を持つに至る。この利潤原理になじまない分野に銀行が進出するのは、ここに進出することが企業領域における金融業を補完し全体の利益に貢献するからである。人々の間で名声を得ることは単に預金獲得のみならず、人材を雇い入れる際にも有効である。社会に貢献しているというイメージは銀行業全般をやりやすくする。
銀行は独自の公共性に加えて質的公共性を持つが、これらは銀行の規模の拡大とともに量的公共性に発展する。
〈公的資金〉
こうしてみれば、公的資金の投入はまったく見当違いであったことがわかる。それは理論的にだけでなく、実践的にもそうであった。議論の末、健全な大銀行だけに注入するということになり、実際には必要としない銀行に注入された。結果として、銀行業界の不平等を拡大し、大銀行とその他という図式を形成したが、これが、その後の中小銀行の大量破綻を導いた。公共でないところを公共とごまかし公共資金を投入し、結局、資本主義的差別を拡大した。
本来ならば、公的資金をもって支援されるべき中小金融機関は打ち捨てられた。BIS規制という資本主義的弱い者いじめの論理にしめつけられ、貸出抑制をせざるを得なかった。この間、多くの小規模金融機関が倒産し、それらと取引関係にあった小企業が倒産し、関係者に苦しみを与えた。
こうした状況の中で、つまり、間違った公的資金の注入によって、より不完全になった金融の公的分野で、いわゆる公的機関の存在が注目され、そこに期待が集まるのは当然である。しかし、それらを、“民営化”という幻想に基づいた理論で潰そうとしている。幻想とは、資本主義が市場原理だけでやっていけると考えることである。
結局、公的資金の注入は、一度後退した金融当局の権力を復活することになった。いまや、国は銀行の事実上の大株主でもある。一連の事態の結末は、経済的弱者に犠牲を強いることである。それは、まさに反公共性に他ならない。
〈質的補完について〉
第二の分野では、公営と民営が競争して結果として良いサービスを国民に提供する。この図式で注意しなければならないのは、競争上の平等である。この点からすれば、郵便貯金が預金保険料を支払うのは当然である。しかし、この国民的に便利な施設を民営にする必要はない。民営にしてもサービスが向上する保証はない。民営か公営かは、一般的には所有形態について言われるが、それとサービスの向上とは直接関係ない。国営・公営でも経営努力によって“向上”を計ることは可能だし、現にそれはなされている。
もうひとつ、ここで述べておきたいのは、公営が民営を補完するという場合、何を補完するかである。民間に資金が少ないので官営が補完する(量的補完)、民間に長期資金が出せない(期間補完)、民間が借手の担保不足で貸せない(信用補完)等が伝統的である。
しかし、民間の機関が金融機関として成長してきた現在、第1と第2は主要でない。第3のものは、信用保証制度が機能している。
これからは、質的補完というべきものが重要である(図3参照)。民間にはやれないプロジェクトファイナンス、ベンチャーファイナンス、DIPファイナンス等の分野を開拓する。開拓には初期費用がかかりまた知識も知恵も必要である。
日本の公的金融機関には中小の民間機関がうらやむ程の高学歴の職員が集まっている。これを活用して、現在は民間がやれないが日本のために必要なこと、そしてノウ・ハウが確立すれば民営でもやれること、そのような新しい金融分野を開拓していくことが必要だ。そうすることで、彼らの公共性は証明され、存続への国民的合意も形成される。
〈むすびにかえて:政策的提言〉
結論は次のようになる。
@ もし銀行が庶民金融分野(零細企業を含む)を担当しているなら質的公共性を持つので、公的資金の投入は妥当である。大企業金融と兼業しているなら、その度合に応じて投入する。といって、一事業体に注入された公的資金が使い分けられるのは不可能だから、庶民分野だけ切り離してそこに公的資金を注入する。こうした分野が立ち直るまでに時間を要する場合には、既存の公的金融機関による代替が必要である。
A 銀行が大企業金融や国際金融に特化しているなら公的資金は必要ない。どうしてもこれらを支える必要があるなら次の二つの方法しかない。ひとつは一時的な国有化である。他のひとつは法人税の増税によって得た資金を投入する。銀行は企業社会の公共機関であるから、それを利用する受益者が出資する。これは、資本家的共産主義の原則にかなっている。地方銀行の危機に際し、取引先企業が預金を出資金に振り替えて増資に応ずるという例がみられたが 注4)、法人税増税→公的資金という方法はこれを国策として展開することである。
B 銀行が大きすぎて倒産させられない。つまり量的公共性を持つときは、まず@の切り分けをする。大企業が顧客であるが銀行の規模が大きく、倒産をした場合に社会不安が生じ、結果的に人々に害がおよぶ。このような可能性があるなら方策はやはり一時国有化である。そして、この場合経営者は刷新しなければならない。民営が失敗し、それを放置すると社会的影響が大きいという場合に一時的に国有・国営にする事例は銀行業の他にもみられる。
1998年以来2度、2002年中には第三次が計画されているが、これらの公的資金投入は理論的に正当でない。それは、「銀行の公共性」を振り回し、ある意味では国民を脅し、税金を投入して失敗した経営者を救うことに他ならない。公的資金投入は世紀の境目に現れた素朴な国家独占資本主義である。
注1) 歴史的には国営事業が出現するのは次の4つの場合である。
@ 戦争などの国家的危機に際して公共性の高い分野を国営にする。戦争・危機という混乱に乗じて私的企業が法外な利益をあげ国民生活を圧迫することを防ぐためである。
A 資本の不足で民間ではやれないが、国民生活に必要である事業を国営で行う。この場合は、民間に資本力がついてきた段階での民営化が考えられる。
B 民営が経営危機になり、その消滅が国民経済に著しい障害をもたらす時に、時限を持った国営化が行われる(戦後のイタリアの国営事業とか、日本長期信用銀行の一時国有化の例)。
C 利潤原理では実施できないが国民生活に必要な分野。これは、利用者から料金を取らない行政事業として行われる場合と、料金を徴収する国営事業になる場合がある。
注2) 北海道拓殖銀行の破綻が北海道経済に与えた影響については次を参照されたい。
「北海道拓殖銀行の経営破綻と北海道経済」、
『地方財務』2000年12月号、高橋 功氏との共著
注3) 濱田康行『金融の原理』1991年、北大図書刊行会
注4) 地方銀行である北海道銀行も1999年に取引先2000社と自治体が538億円を出資し経営を支えた。多くは、預金の振り替えであった。その後、同行に公的資金が導入された。こうした事例の源流は1930年代のアメリカの銀行救済にある。詳しくは、小林真之「銀行再編と公的資金(上)」『北海学園大学経済論集』2001年6月、49巻1号
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