<はじめに>
リレーションシップバンキングが金融庁によって推奨されている。それは、金融業務の推進方法を示した“ビジネスモデル”である。
「必ずしも統一的な定義は存在しないが、金融機関が顧客との間で親密な関係を長く維持することにより顧客に関する情報を蓄積し、この情報を基に貸出等の金融サービスの提供を行うこと」(金融審議会 金融分科会 第二部会 リレーションシップバンキングのあり方に関するWGの報告p.3。以下『報告』としてページのみを示す。)
本稿は、リレーションシップそのものを議論するのではなく、それを提唱した政策側の誤解を明らかにした上で、敢えてそれを推奨する政策当局の意図を探ることを目的とする。
<経過>
リレーションシップバンキングという日本では耳慣れない言葉が飛び出した経過をまず見ておこう。
日本の権力は実質的には中央官庁が握っているのだが、その中でも中心的存在はかつての大蔵省であった。ところが、この官庁が汚職事件を引き起こした。当時の新聞紙上で過剰接待などの見出しで報道された一連の事件である。接待を受けることを「ザブン」や「ドボン」の隠語で表現していたところをみると組織内では常態化していたようである。これには日本銀行も連座しており、それぞれから逮捕者が出た。
この事件の後、官庁再編が実施されたため、大蔵省は抵抗する術なく財務省と金融庁(当時は金融監督庁)に分割された。以来、金融機関の監督権限は金融庁の手にあるが、省から庁になってしまった勢力の後退は否定しがたい。
金融庁は平成11年7月に『検査マニュアル』を策定し、これをもって日本中の銀行の検査にあたるが、ここに悲劇が起きる。中小企業金融・地域金融の分野にまでこのマニュアルを機械的に適用しまったため、多くの金融機関が中小企業貸出を抑制するという現象が生じた。金融機関の悲鳴はやがて貸し渋り現象となり中小企業が悲鳴をあげることになった。いわゆる「検査官不況」が生じたのである。こうした行き過ぎがなぜ金融庁で生じたのかは行政組織研究のひとつの話題であろう。当然ながら行き過ぎは、中小企業金融機関からの反発を受け、金融庁も動揺した。そして、不況の責任をとらされてはたまらないという思惑から日本の金融政策史上、極めてめずらしい事態が生じた。それが、『検査マニュアル別冊』の誕生である(平成14年6月)。この頃から、中小企業金融の扱いは“やや別”という思考方法が主流となり、その流れは平成14年10月に発表された「金融再生プログラム」にも引き継がれた。同年の12月に、金融審議会第二部会内にWGが設置され、「中小・地域金融機関については、同プログラムが対象とした主要行とは異なる特性を有するリレーションシップバンキング」が検討されることになり、その『報告』が年が明けて平成15年3月に発表された。
<リレーションシップ情報の特徴>
日本の中小金融関係者には、リレーションシップバンキングは聞き慣れない言葉だったが、よく中身を見てみると意外な内容ではなかった。日本には言葉こそなかったが、“借り手・顧客との長いつき合いは”は当然のことであったからである。すでに実行していることを、なぜ、あらためて金融庁は推奨するのか。金融庁の意図はどこにあるのか。
長いつきあいで通常は入手しにくい情報が入って来る。それは、定量化が困難な信用情報とも表現されているが、イ.経営者の個人的な資質、ロ.技術力、ハ.事業の成長性などを示しているらしい。
はたしてイやロは長くつき合わないと得られないのであろうか、またハは長くつき合うとわかるのだろうか。つまり、リレーションシップで得られる情報の中身についての理解が常識的なものとやや違うのだが、さらに問題なのはリレーションシップとして把握されている事柄の内容である。『報告』によれば、リレーションシップはかつての大企業と大銀行の間に「産業金融」として存在していたと言う。
「このようなビジネスモデルは、わが国において戦後、メインバンク制のもとにおける産業金融として長く機能してきた」(『報告』,p.4)
しかし、産業金融と中小企業金融のリレーションシップを類似させてしまうのは問題がある。産業金融モデルは、戦前の財閥金融が近代化して展開したものである。大銀行と大企業には重役の兼任、あるいは派遣という人的結合があり、まさに長期的かつ構造的な結合構造があった。それはかつて、ドイツを研究したヒルファーディングが発見した構造である。日本では、こうした結合構造に、大蔵省・日本銀行から諸銀行への天下りという独特な関係が附加されており、その分、長期に持続可能で堅固な構造が作られたのであった。それは支配構造そのものであり制度的なものである。
しかし中小企業金融分野で築かれるリレーションシップは、はるかに原始的であり、かつ私的・非公式なものである。それは、比喩的に言えば、下町に支店のある某金融機関のセールス係が自転車に乗って得意先を訪問するような状況から生まれる。訪問は一度や二度ではなく日常的であり、その度に上がり込んでお茶を飲む。そんな個人的人間関係から生まれるものだ。原始的で私的であるからこそ、まさに定量化など不可能な情報も得られる。しかし、こうした情報はどこまでも私的であり、金融機関が組織的に保有するものではあり得ない。それはいわば“ここだけの話”なのであり、公式にしてしまえばある種の背信行為なのである。そしてそれらが融資判断の情報になるのはあくまでも水面下である。小企業を顧客とする金融機関では企業を形式合理的に判断するのが難しい。公式な情報の発信量が少なく、それを解析する能力も高くないから、こうした水面下情報が意味を持つ場合がしばしば生じるのである。この状況を外からみると、充分な審査をしないで貸出をしているように見えるときもある。
こうした私的・非公式情報には『報告』が気づいていない特徴がある。それは、@情報を得るためのコストが計算されえないこと、Aそして情報は企業から金融機関への一方向ではなく双方向であるいうことの二点である。『報告』は、リレーションシップで生産される情報のコストを分担せよと主張するが、“勝手に上がり込んで、とりとめもなくおしゃべりした”ことのコストを相手に請求できる訳がない。Aについても、見落とせない。金融機関の内部の非公式な情報はこの原始的なレベルで企業側に伝わるのである。
日本では、特に中小企業分野ではビジネス情報は非公式な場で交換される事が多い。夜の飲み会も、週末のゴルフコンペも非公式である。それを非合理的と批判する前に、なぜ、そうなるかを研究した方がよい。それは日本の企業文化の研究である。
大銀行は支店長以下幹部が2年程で転勤してしまう。だから、彼らには上記の原始的・私的・非公式の関係は築けない。それでも中小企業という顧客が彼らの下に集まるのは、なんと言ってもブランド力があるからである。
ともかく、『報告』は私的・非公式なものを公式に取り上げてしまった。その上で見当違いのリレーションシップバンキング論が展開されている。
<アメリカのリレーションシップバンキング>
リレーションシップバンキングという言葉はアメリカのコミュニティバンクの世界にずっと前からある。この事情については由里宗之氏がタイムリーな本を書いているので注1、そちらに譲る。『報告』は言葉を輸入しただけだ。アメリカでリレーションシップバンキングと呼ばれているものは、日本のそれよりは公式である。どうして、そうなるかといえば、アメリカにはコミュニティと呼びうるものが存在しているからである。日本のコミュニティは既に崩壊している。もちろんそれを再建しようとする運動はあるにはあるが。
<ベンチャー創業支援>
日本に創業支援が必要なのは、ある立場に立てば当然である。ある立場とは、資本主義でやりなおそうという立場である注2。日本政府の立場はまさにそうであるから、それはそれでよいのだが、『報告』がここで創業支援を推進するのは根拠がない。リレーションシップは長くつき合ってはじめてできるものなのに、創業ということは相手はまだ存在しないか、生まれたばかりという事である。リレーションシップバンキングで創業企業を支援しようというのは矛盾している。最近、“流行”の「第二創業」を支援せよと言うならまだわかるが、『報告』はそうは読めない。
ついでに言えば、ベンチャー企業や創業企業に金融機関が融資という型で支援するのには限界がある。このことは、ベンチャー企業の資金調達に関する多くの研究が示していることである。また、創業した企業が成長するかどうかを事前に予測することはできない。
過去の例から推定するよりないが、それも確率は高くないし、判断の信頼性も高くない。創業された企業が新分野であればなおさらである。だから、多くの金融機関は子会社としてベンチャーキャピタルを持ち、本体とは別の運営をしているのである。また『報告』が提唱しているような金融機関のベンチャーファンドの参加は既に広く行われている。
おそらく『報告』は、金融機関が末長く企業の面倒をみるという観点から、いわば“揺りカゴ”からという発想で創業支援を主張したのだろう。しかし、創業に係る局面ではリレーションシップ以前の工夫がいる。だから、『報告』の言う、産業クラスター運動や公共関係の創業支援運動に参加している金融機関は少なくないのだ。おそらく、2003年の8月末までに金融機関に提出させるアクションプランには“既にやっています”という答が多く書かれるだろう。しかし、主要な業務として創業ファイナンスを位置づけているかが問題であり、これへの答はノーである。少なくとも全貸出の極く一部がそのような使い方をされているのにすぎないし、融資を本業とする金融機関にはそれが限界なのである。
創業支援の対局にありながらこれと並列して推奨されているのがDIPファイナンスに代表される早期事業再生である。ここでは、リレーションシップが生きるだろうと『報告』は言う。しかし、日本のリレーションシップは前述のように私的・非公式であるから、企業の運命を決めるような局面ではそこから得られた情報はむしろ使えない。
創業支援でも早期再生でも主張されている事に政府系金融機関との協力がある。しかしここにも論理の方向喪失がある。現政府の看板のひとつである経済財政諮問会議は既に「政府系金融8機関の貸出残高について、将来的に対GDP比率で半減する」ことを決めている。つまり『報告』は縮小しなければならない機関を利用しなさいと主張している。しかも、その際、政府系金融機関の先駆的・先導的役割(その多くは証券化などの新しい役割)に期待しているである。これは舞台から去るというシナリオになっている役者の手を引いているようなものだ。
念のために言えば、政府系金融機関を市場原理の敵のように言うのは一方的である。資本主義は金融も含めて多くの局面で不完全あり、民営企業だけで足りるものではない。“GDP比半減”がそもそも早すぎた判断なのである。日本の資本主義はそれ程完成していない。
<不良債権処理と規制強化>
報告の後半はもっぱら監督の強化を主張している。竹中大臣は記者会見でこの点をつかれてやや困っている。
問) |
ずいぶん細かいことまで指摘をされていると思うのですけれど、規制とは違うと思うのですが、規制緩和等の流れの中でこれだけいろいろなことを中小金融機関に課すということは、その流れに逆行することになるのではないかというのが一点と、これだけたくさんのことをいきなり小さい信用組合とかにやれということについて、それは可能なのか、その辺はどのようにお考えかをお願いします。
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答) |
今回求めているのは基本的には経営方針をしっかり作ってくださいということと、必要な情報を開示してくださいということですから、規制緩和の方針に逆行するかということになりますけれども、規制をもとめているということは基本的にはないというふうに思うのですね。これは正に、これだけ中小の機関で対応出来るかということですけれども、これはやはり対応してもらわなければ困るのだと思います。これが正にガバナンスの強化なのだと思っています。一つの、いろいろな形でリレーションシップの機能を果たすためにチェックして頂きたい項目を我々は挙げているわけで、こうしたことに答えることによって地域の金融機関それぞれのガバナンスが強化されて行くということを我々は期待しているわけです。これは規制強化では全くないというふうに思っています。
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まさに“箸の上げ下ろし”の時代に戻るのである。大臣は『報告』が「中小企業金融の再生に向けた取組み」と「健全性の確保・収益性の向上に向けた取組み」の二本柱といっているが、実は第三の隠れた(実は見えているが)柱があることは『報告』を注意して読めば明らかである。当事者が馴れ合うから「監督当局による規律づけの必要性も大きい」(『報告』p.24)とか、「行政上の予防的・総合的な措置を講ずる」(同p.25)とかの本音が漏れるのである。第三の柱、それは金融庁の権力の拡大である。
前段でリレーションシップを主張し、後段では実はまったく関係のない規制強化を言うためには、敢えて様々な曲解を取り入れて論理を都合のよい方向にネジ曲げる必要がある。ネジ曲げの装置のひとつは、リレーションシップバンキングが不十分(おそらくアメリカ等との比較)という理屈である。
「わが国中小・地域金融機関が展開しているバンキングの実態は、本来のリレーションシップバンキングの姿から乖離している面がある」(『報告』p.11)
なぜかといえば、収益力が低下し財務体力の低下が著しいからだと主張し、それを克服するには不良債権の一層の処理が必要だという金融庁の金科玉条の論理に結びつける。
不良債権処理がすべての明るい展望を開くというのは現政権の主要論理である。不良債権処理は“構造改革”の一環ということになっているから、“構造改革なくして景気回復なし”などという妙な胸の張りかたをするのだが、経済学的には不良債権処理が景気回復につながる保証はまったくない。このことは以前、別の論文で主張したので繰り返さないが注3、ひとつだけ言っておけば、日本の銀行は現在、巨額の遊休資金を抱えており、貸し出し先がなくて困っている状況である。不良債権にはまって資金が還流しないので新規に貸し出しが出来ないという理屈はどうみても成り立たない。
4%とか8%とかいう自己資本比率の目安も日本の銀行・金融機関の実態的研究から出て来た安全基準ではない。BISという国際機関(それを支配しているのはアメリカとヨーロッパの主要国)が日本の事情を考慮しないで押しつけているのである。これを真に受け、いたずらに自国の金融機関をたたいて弱体化させているのが現在の金融当局であるが、一見不思議なことにそれに金融界が抵抗できないのである。公的資金の注入を受けてしまったからだというのが普通の理解だが、事の真相はまだわからない。
もうひとつ、金融機関自身にまかしておけないという『報告』が主張するのがガバナンスとディスクロージャーである。
「情報開示等による規律」(『報告』,p.22)
「非上場銀行や協同組織金融機関については市場による経営のチェックが行われにくく、ガバナンスが相対的に弱い」(同,p.22)
そこでコーポレートガバナンスが強化されねばならないが、そこで次のような結論が待っている。
「このような観点から、まず、中小・地域金融機関におけるディスクロージャーの一層の充実とともに、監査機能の強化などが課題となる」(同,p22)
しかし過度なディスクロージャーや監査は金融機関の負担になる。そして考えてみなければならないのは、預金者という利用者にとっていかなるディスクロージャーが必要なのかということである。果たして冊子になったものが必要なのか。金融の知識、会計の知識なくして理解できないような詳細なものが必要なのか冷静に考えてみるべきだ。政府は“国民の要求”を勝手につくりあげ、それを脅しの材料に使って金融機関を支配しようとしていると言えまいか。見えてくるのは、とにかく中小の金融機関も支配下におきたいという支配欲である。考えてみれば、大手行だけでは数も少なく、支配は日本全国に拡がらない。
はっきり言えば、半期開示など必要ない。預金者にとって必要なのはせいぜい信頼ある格付け機関による安全度の表示である。中小企業にとっては、まさにリレーションシップのルートから入って来る非公式の情報がある。印刷された報告書などより、そちらの方が信頼感も臨場感もあるだろう。同様に、過度な監査も監査法人の仕事と報酬を増やすだけである。現在でこそ、まともな監査意見を述べるようになったが、ひと昔前までは、社長に指示されて自動的に“無限定適正”を宣言していたのが日本の監査法人である。
<協同組織金融機関について>
『報告』は中小企業世界への無理解を随所に露呈しているが、同じく協同組織金融機関という存在にもほとんど理解が及んでいないようである。注4
協同組合のディスクロージャーはまず組合員になされるべきである。信用組合については、これで問題ない。預金者を組合員に限定していない信用金庫では一般的に預金者への開示が必要であるが、それはすぐ前で述べた程度で充分である。
監査についても、組合組織では内部監査が主要なものであるべきである。過去にそれがいい加減になされていた事実は認めなくてはならないが、だからと言って、小さな組合にとって大きな負担となる監査法人の監査が必要だということにはならない。
監査機能を協同組織の中央組織にやらせようという意図も『報告』にはある。しかし、日本の協同組織がやらなければならないのは、組織のスリム化である。単位組合があり、県組織があり、全国組織があるという三段階の構造は20世紀の遺物である、よくみてみれば、県組織には県の役人が、全国組織には旧大蔵省が天下っているのではないか。だから、中央組織の機能を強化するといっているのは天下り体制強化の別の表現にすぎない。
最後に『報告』の欺瞞性を象徴する一文を引用しよう。
「本報告書は、中小・地域金融機関の融資機能を積極的に活用して地域経済の活性化を目指していくべきであるとの認識に立ってリレーションシップバンキングの機能強化を求めた。あわせて、担い手である中小・地域金融機関が預金者、利用者から信頼される存在となるよう、その健全性、効率性の向上に向けて行政当局の監督を充実させる必要性等を指摘した。」
「行政当局の監督を充実」させる必要のために、リレーションシップバンキングを思いついたにすぎない。単に利用しただけだから、そのものへの理解が浅いのは当然だろう。
出来の悪い報告書に迷惑しているのは、8月末までにアクションプログラムという宿題を提出しなければならない各金融機関の担当者であろう。そして、それをチェックしなければならない地方財務局の役人も大変だ。おそらく彼らにはどちらにも夏休みはないのだろう。
『報告』は、日本の知識人を集めた7回もの会合と地方懇談会を経て書かれている。それに要した人々の時間、そしてこの『報告』の後に生じるであろう人々の時間的支出を考えると、日本はなんと無駄なことをしているのだろうと思わざるを得ない。
注1 |
由里宗之『リレーションシップバンキング入門』(金融財政事情研究会,2003年)
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注2 |
社会主義という体制を選択することが当面、不可能になったので、資本主義を修正しながら人類の体制として使っていくという考え方である。過去にもこのような思想的潮流はあったが、最近のものは、資本主義の初期に見られた旺盛な企業家精神を取り戻そうとする志向を持つところに特徴がある。詳しくは次の小論を参照。
『旬刊 経営速報』(タナベ経営,1200〜1315号)に書いた「やりなおしほんしゅぎ」の各論稿。
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注3 |
次の論文を参照されたい。「日本の危機と協同組合の役割」(『信用組合』,2002年7月号)
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注4 |
福岡県商工信用組合の理事長である須佐喜夫氏が次のように言っている。
「信用組合金融は非効率から真実を見つけ出す。」
「協同組織金融機関は銀行と同じ自己資本比率制度にはなじまない。」(『信用組合』,2003年4月号)
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(『中小商工業研究』2003年秋季号掲載予定
2003年09月04日ホームページ掲載)
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