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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
倫理なき資本主義のゆくえ
濱田 康行
 
 

<はじめに>

 この論考の目的は日本の資本主義社会の近未来を考えることである。1989年、あるいは1990年頃から始まった平成不況は、途中、二度の小さな改善局面を見せたものの、顕著な回復には至らず、10年を越える長期不況となった。世紀の変わり目には、いわゆるITブームがあり、関係分野の活況もみたが、日本経済全体を押し上げる推進力にはならなかった。むしろ、2000年のIT投資ブームは新たな不良債権問題を引き起こしている。21世紀に入ってからは、物価下落が顕著となり、日本型のデフレーションが観測されている(注1。こうした状況に対して、従来型の公共事業による需要対策がしばしば実施され、数度に及ぶ総合景気対策の総額は100兆円近くに達した(表1)。一方で財政危機を犠牲にしながらの需要創出にもかかわらず、全体状況の好転はみられなかったため、供給サイドの政策に再び注目が集まることになった。また、資本主義の発展段階に見られた状況の再現をめざして規制緩和やベンチャー企業の推進は政策的に展開された。歴代の内閣が主張した構造改革は現政権の旗印でもあるが、その具体像や効果については多くの疑問が出されている(注2。

 本稿では、こうした状況をふまえ、構造改革に対案を示すというような小さな枠ではなく、歴史的観点に立って何を求めることが人々の幸せにもなるのかを示したい。

<大英博物館附属図書館>

 3月に2年ぶりにロンドンに出かけた。公式の用向きは、技術経営の先導的大学であるインペリアル・カレッジの訪問であった。こちらの方は、公式の報告に譲ることにして、旅の副産物について述べよう。

 写真は大英博物館の附属図書館である。巨大な博物館の中庭に立つドーム型のこの図書館はその開設以来、ロンドンに滞在した多くの著名人が研究した場所として有名である(写真)。

 図書館の入り口近くには、著名人達の写真と彼らの図書館での勉強ぶりを記述した記念パネルが飾られている。

 1849年、ロンドンにひとりの天才がやってくる。祖国ドイツを追われ、パリを経てやってきた若き亡命者。彼はロンドンに住み、まさにこの図書館で数々の文献を読むことで独自の経済学を仕上げていった。彼の名はカール・マルクス。以後30年有余年、一度も英国を出ることなく生涯を送ることになる。

 亡命者という不自由さもあったが、彼は職に就くということもなく、ひたすら図書館通いを続けた。唯一の収入は、アメリカの新聞への寄稿であったが、当時も現在も、寄稿の報酬は高くなくかつ不安定であった。子だくさんの亡命研究者のもうひとつの経済的支えは友人からの支援であった。よく知られているようにエンゲルスは当時既にマンチェスターに工場を持つ経営者であった。最も父親から引き継いだこの仕事を彼は“奴隷の仕事”と呼んで嫌っていたが、マルクス一家にはエンゲルスの存在は大きかった。後にみるように、マルクスの資本主義への臨場感、現実感覚もエンゲルスから伝わったものが多いようだ。

 さてマルクスがこの由緒ある図書館で勉強を始めたのはロンドンに定住して一年後ぐらい後のことである。

 「この頃はいつも朝の10時から晩の7時まで図書館に座り込んでいて、産業博覧会も君がここにやってくるまでは見合わせにしている」(マルクスからエンゲルスへの手紙、1851年5月21日付)

 ここで博覧会といっているのは、世界初の万国博覧会であり、当時の世界的なビッグイベントであった。マルクスは欧州各国、特に新興のアメリカ合衆国の産業技術に強い関心があった。その興味をお預けにして図書館で勉強しているというのだ。

 この頃、何を勉強していたのか。前後の手紙から推察すると、トゥークの『物価史』。その関係でイギリスの信用制度。そしてリカードの地代論が大きなテーマであったようだ。これだけの大仕事を6〜8週間で片付けるなどと言っているからすごい。最も、図書館は避難場所でもあった。貧乏は家庭を押し潰しそうになっていた。夜は妻エレーナの涙にも対応しなければならなかった。

 「家ではいつもすべてが貧困状態にあって涙の川が夜通し僕をうんざりさせ……」(マルクスからエンゲルス、1951年7月31日付)

 普通の家庭の夫なら、これだけ貧乏になれば、ともかく少しお金になる仕事をしようと考えるが、マルクスは違ったようだ。貧困をあまり気にとめず、ひたすら勉強の成果をエンゲルスを始めとする友人達への手紙に書いている。偉大な人間はたいていそうだが、信じられないような長い、かつ内容のある手紙を数日おきに書いている。

 ともかく1851年からの数年間、ドイツで貯めた経済学の知識を再考し、「経済学をやり直す」のに使っている(注3。経済学で手一杯なので生活の糧である新聞寄稿までエンゲルスに頼んでいる。

 彼の言う経済学は、今日、私たちが経済学の本を読むというようなものとは少し違っていた。社会的事象のかなりの部分を包括する学問として経済学をとらえていた。いわば博物学的なのである。経済学は、まだ出来上がった学問ではなかった。だから、経済学を勉強するマルクスの読書範囲は広大で、そういう意味でも世界有数の蔵書を持つ大英博物館は最適地であった。

 「近頃は相変わらず図書館に通って、そこで主に技術学やその歴史や農学を勉強している」(マルクスからエンゲルス、1851年10月13日付)

 マルクスの勉強は「家庭内のひどいゴタゴタ」にもかかわらず“順調”に進む。宿敵プルードンの著書の徹底的な批判をし、エンゲルスに感想を求めているが、エンゲルスの方は忙しかったようで「すまない、まだ半分しか読んでない」などと言い訳をしている。

 「数日前、図書館で『信用の無償』について……プルードン君の苦心の作を読んだ」(同、11月24日付)

 マルクスの最初のまとまった経済学の著作は『経済学批判』であるが、これが出版されるのは1859年である。1850年代の始めにはこのための研究はかなり進んでいたようだ。というのは、1851年の暮れになると、マルクスは経済学の成果の出版について各方面と相談している。この際に、エンゲルスは少々“問題発言”をしている。マルクスに、原稿料を稼ぐために次のようなやや乱暴な示唆をしている。

 「余分なボーゲン数を、君にとって少しも費用のかからない引用文などで埋めればよいのだ」(同上、11月27日付)

 こんな助言までしているエンゲルスはまさにマルクスの最良の支援者だった。彼はマルクスの才能を理解していた。「君の研究、特にその歴史はロンドンでしか勉強できない」と言い、出版の交渉では「君はもっと商売人になれ」と檄を飛ばしている。

 出版社を捜しながら、マルクスは自分の経済学に磨きをかけていく。

 「その前にもう一度、数ヶ月の間ひとりで引きこもって僕の経済学を仕上げることができるようにしたいものだ」(同、1853年9月15日付)

 この頃、新聞に寄稿して稼ぐことにマルクスはかなりの嫌悪感を持つようになった。「それは僕からたくさんの時間を取り上げ、分裂させ、しかも結局は何にもならない」と述べている。

 1857年になると経済学の一応の完成が近づいてくる。

 「僕は猛烈に勉強している。たいてい朝の4時までやっている。というのは仕事は二重のものだからだ。(1)経済学の要綱の仕上げ(読者のために問題の根底にまで入っていくこと、そして僕個人としてこの悪夢から解放されること、これはどうしても必要だ)。(2)現在の恐慌。これについてはただ記録をとるだけだが、これにひどく時間がかかるのだ。」(1857年、12月18日付)

 この頃になると図書館通いはしていないようだ。昼間は、稼ぎのために原稿を書き、夜は何年もかけて作った抜き書きや、購入した本や政府が出版した報告書で勉強している。

 前の引用にあるように、当時ヨーロッパを襲った恐慌に興味を持ち、それに駆り立てられて経済学の仕上げにかかっている。マルクスは、タイプとしては書斎人だが単なる机上の人ではなかった。

 マルクスが大英博物館で抜き書きを作成した文献は1500冊に及ぶ。当時図書館にしか所蔵されていなかった政府の出版した報告書などが主なものだが、その中でも『資本論』にしばしば引用されることになったのが「工場監督報告書」である。そして、この『報告書』が生かされて執筆されたのが第1巻の13章「機械と大工業」の章である。この章は『資本論』の中でも特に長く、かつ実証的な章として知られている。また、価値論などにみられる弁証法を駆使した理論家マルクスとは別の一面が示されている部分として注目されている。

 エンゲルスからの様々な助言と示唆と並んで「報告書」はマルクスにとって、イギリス資本主義をみる窓であったと思われる。逆に言えば、亡命者であり生活に困窮していた彼には、自らフィールド調査をすることはできず、文献から資本主義をみるという制約が課されていたのである。

 マルクスが「報告書」の中で特に注目したのは、当時、勃興しつつあった綿工業における婦人・児童労働の実態であった。そこで、「機械の導入という本来なら人々を楽にすることが逆に人々の状況を悪くする」のは何故かという問題に立ち向かう。

 マルクスが青春時代を過ごした「故郷」ドイツは当時、プロイセンの支配下にあり決して先進国ではなかった。そこから追放されて、ロンドンに辿り着いたのだが、そこは亡命者を受け入れてくれる開明的な国であったし、また資本主義が最も進んだ進歩的な国であった。だから、マルクスがイギリスの資本主義に最初から批判的であったとは考えにくい。では何故、マルクスは資本主義に限界を感じたのか。これ程、資本主義を徹底的に研究した彼が、何故、この体制に歴史的限界をみたのであろうか。

 上の問いにはいくつかの答えが用意されるだろう。ひとつはマルクスの反体制的思考である。彼は、学生生活を終えると同時に、体制批判的なジャーナリストとして活動する(ライン新聞の主筆)。そして何より当時としては最も革新的なヘーゲル左派に所属、反動的なプロイセン政府への反逆者であった。こうした彼の生涯前半の活動は、思想的な著作としての『ドイツイデオロギー』や、ロンドンに来る直前に刊行された『共産党宣言』に結実している。しかし、それらはイギリス資本主義を知る前に書かれている。

 工場監督官の記述したイギリス資本主義の実像がマルクスの倫理観に著しく抵触したのではあるまいか。彼はユダヤ系の家系に生まれ、父親は厳格なラビであったから、家族のあるべき姿をしっかりと持っていたと思われる。ところが、イギリスでは婦人労働が一般化したために、家庭から主婦が引き離されるというファミリー崩壊現象が進行していた。また、さらに進んで児童労働の利用が進み、これが子どもの教育を妨げ人間性の劣化が進んでいた。マルクスは、親が収入の欲しさに子どもを工場に売る状況、主婦不在で放置された子どもがどうなるかなどに注目している。これらは、労働者および彼らの家庭の無知を進め、やがては人間性の崩壊を導くと考えたのである。

 資本主義社会における機械の導入と大工場の成立が、人々のためにならないことの原因を、マルクスは機械が利潤原理に基づいて導入されることに求めた。利潤原理はやがて暴走し非人間的状況を造り出すとみたのである。こうした資本主義観は、エンゲルスが1844年に書いた『イギリスにおける労働者階級の状態』にも大いに影響されていた。

 マルクスが注目したものが大工場に働く機械労働者であったことは、彼の資本主義への過小評価に帰結した。『資本論』などでは、資本家・工場経営者の創意工夫に言及する部分もあるが、あまり大きな扱いではない。資本の文明化作用は、所詮利潤追求の大枠の中の出来事であった。

 しかし、資本主義の下での事業経営上の創意工夫は、この体制が延命したことの源である。今日でも資本主義の開明的作用は自営業・中小企業分野に多くみられるのだが、綿工場に着目したマルクスの視野にそれらはなかったようだ。エンゲルスはマルクスにとっておそらく唯一の中小企業経営者であったはずだが、彼は極めて特異な経営者であった。彼が父親から受け継いだ仕事を嫌悪して「イヌの仕事」と呼んでいたことは有名である。マルクスは、創造的で、日々創意工夫をしながら経営をしていく中小企業主の像から遠いところにいたのである。

 もうひとつ、マルクスが軽視したといえる。それは、資本主義に内在している自制の論理である。資本主義の行動規範は利潤原理であり、それは人々の欲望を刺激し大きなエネルギーを生み出す。時として、それは暴走するのであるが、資本主義にはそれを止める機構も内在している。いわば、人体に交感神経に対して副交感神経があるようなものである。内在と書いたが、副交感神経の方は内在ではなく、資本主義以前の社会に内在し、資本主義が継承したのかもしれない。資本主義が展開するには人々が存在し、まず社会を構成していかなければならないが、社会であれば秩序があり社会的な自制がある。西欧社会では人々に自制を促すものはキリスト教であり、中国や日本では儒教的道徳である。別の言葉にすれば、恥を感じる精神であり、悔い改める行為である。恥ずかしい事をしてはいけない!それは、儒教的には人々が見ているからであり、キリスト教的には神が見ているからである。人々にshameという感覚を身につけさせたのは宗教の最大の功罪である。イギリスでも、無節操な搾取が展開した後ではあるが、工場法が成立し労働時間の制限がなされるのである。最も様々な社会政策上の措置が資本の妥協(対労働運動)であるか、自らの選択した延命策であるかについては論争がある(注4。

 マルクスは1848年のドイツ革命に参加し、それに敗北してからは(特にロンドンに移ってからは)亡命した書斎人であった。彼の資本主義の観察は、新聞と図書館とそして友人のエンゲルスに頼るところが大きかった。また、フランス語が達者だったマルクスも英語はさほど得意でなかった。ニューヨークの新聞への寄稿の翻訳は他の人々に頼っていた。

 資本主義の副交感神経を重視しなかったのは彼が唯物論に立っていたことにも関係がある。いわば精神世界の作用を従属的な地位に置いたのだが、これはウェーバー的な様々な反論を生み出す下地になった。仕事はBerufであり、すなわち転職である。人々は必ずしも欲得ずくだけで働いているのではない。明らかに労働者を搾取している資本家にも恥という制御装置がある。金銭的欲望が達成されると様々な世俗的欲望が人をとらえるが、皆が皆、快楽主義に落ちるわけではない。なぜなら人々には恥の観念が植えつけられているからである。その総和が社会の副交感神経になる。

 しかし、資本主義の利潤原理はこうした制御機構を振り払って暴走することがある。それが大恐慌や世界戦争を導くとすれば、資本主義は歴史的体制として廃絶されねばならない。資本主義が平和を守れるかどうかはこの体制が延命できるかどうかのひとつの試金石である。しかし、この問題には本稿では触れない。

 ここで述べなければならないのは、現代の資本主義、特に日本資本主義の制御系統が弱まっているという事実、少なくともそれを示す兆候があるという事である。もともと、日本は敗戦によって、伝統を持たない資本主義として再出発した。儒教道徳を中心とした宗教的束縛は社会の後景に退き、人々はその分自由になった。この自由が、そして戦後の経済的状況・焼け跡状況が成長経済の原生的エネルギーを生み出した。日本資本主義の神聖なるものは“はい上がること”であり、そのために勤勉になることだった。外から見れば、日本は精神のない資本主義にしばしば見えたが、実はそうではなかった。特定の宗教や歴史的伝統に拘束されないことが日本人により多くの自由を与えた。しかし、副交感神経も目立たなかったが存在していた。勤勉であることは禁欲的であることを必要とし、その分、快楽主義ははびこらなかった。

 日本の場合、変化は文化的状況から生じた。高度成長は物的繁栄を日本にもたらし、大量消費社会がやってきた。戦後の欠乏から大量消費までの変化のスピードはどの国よりも早かった。それと共に抑制のない快楽主義が人々を支配するようになった。その度合いは、抑制とか勤勉がビルトインされていない若い世代、特に団塊第二世代以降に強く現れた。抑制のない快楽主義は経済的にはイノベーションの停滞をもたらし、政治的には大衆の無関心を作り出した。後者によって、政治は人々の生活感覚から遊離した疎外物となり、社会から隔絶した存在となり、その分二世政治家が誕生しやすくなった。

 利潤原理一辺倒への抑制遺伝子の働きが弱まっていることの経済面への影響は、バブル経済の発生によって示されている。短期的な利潤をめざして、一億国民総投機の状況が生まれた。多くの企業が本業を措いて様々な部面での投機に走った。以前にも、このような抑制のはずれ状況はあったが、それは部分突出にとどまっていた。しかし、バブルの時期は異なっていた。まさに日本資本主義は恥を忘れたのである。それは副交感神経が働かない倫理なき資本主義が露出した様相である。

 バブル崩壊後の復興が遅れているのは、文化の中に社会の復興の精神が見つからないからである。むしろ、文化的状況はより退廃的になっている。

 経済学者の多くは、経済的危機こそ社会の危機だと信じているが、他の社会科学分野から見れば、それは思い上がりである。アメリカの社会学者ダニエル・ベルは、経済から自立した文化を強調する。文化、政治、経済は相互に影響を与えるが、それ自体自律して運動する。今日の問題は、大量消費社会という経済的条件に支えられた快楽主義の文化が、抑制のない状態に至っていることだ。教育の世界が精神的支柱としている自制あるいは他者への思いやりなどが快楽主義に飲み込まれている。

 知識人は与えられた知識を使って社会のために貢献するという原点を忘れ、知識を権力と金に換えることに熱心となり、まさに精神なき専門家になる。

 少しまとめて言えば、次のようになる。マルクスは資本主義の創造的な面や倫理的抑制的な面を過小評価したが、現代ではこの面が明らかに後退し、資本主義は暴力を伴って暴走しつつある。マルクスが当時のイギリスで見たような状況になっている。この暴走を止めるには、ひとつは外生的に社会主義が勝利してしまうことだが、それは当分の間は望めない。社会主義の再建は資本主義の再建と同様に難しい課題である。おそらく、設計図の書き直しが必要だが、まだ未達成である。もうひとつは、抑制遺伝子の活性化を計ることだが、それは精神に頼るよりない。それを育てることになるが、これもまた問題である。いわゆる健全な精神は、教育の荒廃によって育まれていないし、かつ多くの家庭では教育は放棄されている。日本の場合、再生の精神は大きな外生ショックか文化的な輸入に頼らざるを得ない。

 再生の道をめざすという点では、現在の日本の政府も同じようなスローガンを掲げているように見える。しかし、それは単なる復古主義である。経済政策的には、現代の資本主義の歴史的状況を認識できないために、ただいたずらに市場主義を唱える。考えてみれば、市場原理だけが資本主義が独自に生み出したもので長持ちした原理である。市場に頼れば上手くいくという信仰は今日では、社会の大方の絶望の中で新興宗教が勢力を得るように、大方の支持を集めている。しかし、市場は暴力でもあるから多くの敗者とその周辺に弱者を生み出すが、それらの人々は今は自己責任でそうなった者と見られてしまう。

 教育がこうした状況を救わねばならないという認識は現政権にもある。しかし、彼らがここで持ち出すのは、軍国主義の頃に使い古された道徳観である。結局、国のために闘った(これは各個人については事実)人々の英霊の前に祈るのみである。優秀な、かつ精神を持っていた教育者は、現場から去り始めている。教師としての資質を持った人々は、もはや現状に絶望して、教師の道を選ばない。姿と形の良い現政権を国民が支持するうちに、日本の混乱は経済から文化へと進んでいる。文化が傷ついてしまえば、経済を立て直す精神が育まれることはない。

 日本には今、多くのアジア人の留学生が来ている。彼らの多くは、戦後の日本の経済的繁栄の理由を知ろうとしてやってくる。しかし、彼らがみるものは享楽にふける日本人であり、創造性を失ったビジネスマンであり、何のために研究しているのか分からない研究者なのである。あと10年すれば、彼らが日本に学ぶものは、幸いなことに世界の最先端であり続ける一部のテクノロジーと、いかに楽しく人生を送るかという、しかし計画性のない行き当たりばったりの快楽主義の哲学である。それでもルネッサンスや文化文政のように快楽主義が新たな文化を伴っていれば救いはあるが。


K.資本主義崩壊の論理

 資本主義という生産体制が歴史的であること、すなわち限界があり有限であることを資本主義の研究から明らかにした主張にはいくつかある。主要な人物で見れば、マルクス、レーニン、シュムペーター、そしてダニエル・ベルである。

 マルクスは『資本論』の多くの箇所で、資本主義の限界を論じているが、その論点が多岐にわたるため後世の論争点にもなった。

 マルクスの主要な論点は不均衡論である。資本主義は資本家階級による労働者階級からの搾取を本質とする。そのため、富は一方的に蓄積され、労働者階級は窮乏化する。他方で資本の生産力は利潤をめざす競争、特に特別剰余価値をめざす投資競争によって高まるが、それを消費する側の所得が伴わない。いわゆる過剰生産と過少消費との不均衡が生じる。こうした不均衡を信用制度は一時的に隠蔽するが、それにも限界がある。それどころか、信用制度は自律的に拡大していく傾向にあり、実物生産の規模から遊離し、それ自体が不安定要因を抱えるものとなる(信用恐慌)。

 早い話が、資本主義は自ら生産したものが売れないという矛盾  に陥る。それは、元来資本主義が無計画な経済だから生じると考えれば、アンチテーゼは計画経済である。しかし、それだけでは問題は解決しないことも明らかである。購買力のない労働者が存在するのだから計画にも限界がある。計画経済に加えて大衆の豊かさを実現するべきである。

 資本主義社会における恒常的な需要不足を補うために国家を登場させる、これがケインズ主義である。しかし、国家は租税で成り立っているから、支払う側が窮乏してしまえば財政赤字は必然である。階級国家を前提にすれば、資本家階級が租税を払い、それで過剰生産物を買っているのだから、それは“タコの足”の論理でしかない。当然の帰結として大衆課税が出現する。それは課税最低所得の引き上げであったり、消費税であったりするが、要は重税国家である。それは人々を窮乏化させるのだから実は解決にはならない。この場合の唯一の解決策は財政赤字の恒常化とその放置である。

 他のひとつの解決策は、輸出、すなわち他の国の資本家と労働者に購買してもらうことだが、この点はここでは触れない。ただ、同じような状況の国々がこの方策を採れば輸出競争となり、いうところの貿易摩擦は必然となる。

 マルクスは、資本主義の不均衡を『資本論』の第2巻で(再生産表式論)展開し、それをローザ・ルクセンブルグが発展させた(注5。

 資本主義が持つ、というより階級社会が持つ特性である“寄生性”に着目して、資本主義の限界を説いたのはレーニンである。

 資本主義の富の源泉は搾取である。国内では搾取は様々な面でまた時代と共に高度化して展開する。資本家が労働者という古典的な図式に加えて、都市と農村、同じ事だが第二次産業と第一次産業、大企業と大儲け中小企業、製造業と銀行などの収奪関係が展開する。要は、それ自体が価値を生み出さない主体が価値を生み出す主体に寄生する。ひとつの、利潤率の高い企業や組織の周辺に、多くの不生産的部門が吸着する。官僚達への賄賂も、天下りもこうした寄生的吸着のひとつの現象である。資本と労働との間の関係が、社会化し制度化していく。資本主義には創造的な主体が存在するが、またそうした光の部分を恒常的に生み出す機構も持ち合わせているが、同時にそれらを取り巻く寄生的存在もまた発達する。この関係がついに世界市場をめぐって展開するというのがレーニンの主張である。具体的には、寄主国と植民地の関係、先進国と途上国との関係として展開する。植民地をめぐる先進国の競争はついに二度に渡る世界戦争を引き起こし、人々に甚大なる不幸をもたらした。これこそ、資本主義の限界である。

 寄生性は、世界戦争という破滅をもたらすが、そうならなくても長くは保つことができない内在的破滅必然性を持つ。それは、寄生する側が膨張していき、寄生される側が痩せてしまえばもたないという簡単な論理である。寄生主が弱って死んでしまえば寄生虫も死ぬよりないというアナロジーを理解すればよい。寄生される側が痩せてしまうのは、この部分の創造性が衰えているからであり、寄生する側が太ってしまうのはそれが制度的に保護されるからである。寄生するものが資本主義制度の頂点に立ってしまうことの象徴をレーニンはヒルファーディングに学んで金融寡頭性に見出した。それは寄生する側が支配することを意味し、長くはもたない構造であるから、“死滅しつつある資本主義”という最終規定を与えたのである。

 もっとも、前述したように、資本主義が創造性をもつことも明らかである。特に注意を要するのが、搾取する側と思われがちな主体にも創造性はあり、また逆に、搾取される側にも寄生性は見られるということである。あらゆる主体が両面をもっており、創造性の配列が形成された際には社会全体として創造性が発揮され前進するのであり、逆の場合は逆となる。レーニンが観察した時代の資本主義はいわば負の配列であり、それ故にレーニンはこの体制が長くはもつまいと考えた。戦争か革命か、それしか選択肢はなかったのである。

 資本主義が創造性を保てれば、資本主義は存続できる。そう考えたのはシュムペーターである。くしくも、彼はマルクスの死んだ年に生まれた(1883年)。彼は、「資本主義のエトスは企業家の技術革新による動態的な発展過程である」と考えていた。革新を起こすのは労働者ではなく、企業家であると考えたのだ。階級の存在を考えなければ、これは当然にもみえる。マルクスが資本主義の内在的矛盾により発展ができなくなり死滅すると考えたのに対し、シュムペーターは資本主義の老衰を主張した。

 マルクスが唯物論の立場に立って経済法則の優位性を説いたのに対し、文化、政治、経済はそれぞれ干渉しながらも自律的に運動していると主張したのはアメリカの社会学者ダニエル・ベルである。ベルは資本主義を危うくするのはむしろ文化的危機であることを強調した。資本主義が発達すると、快楽主義が横行し、「聖なるもの」が何もない社会がやってくる。人々は「方向喪失」に陥る。そうなると組み立てられたものとしての社会は崩壊するより他ない。

 こうして様々な崩壊論を検討してみると、マルクス主義のそれに一段抜きん出たものがあることが分かる。それは、崩壊の必然性を論理的に示すだけでなく、崩壊に導く行動する主体を示したからである。その主体とは言うまでもなく労働者階級であるが、現代のように中産階級が成長し(特に先進国)労働者階級の存在が明示的でなくなった状況では、マルクス主義の優位性は一挙に失われる。日本を例に言えば、働く人々の5人に1人しか労働組合員でないのである。働く人々に、もはや労働者階級であるという自覚はないし、社会変革の担い手であるという意識もないのである。労働者階級の政党が衰退を余儀なくされ、保守二大政党の時代になることは避けられない。こうして、マルクス主義は具現性のない崩壊論となった。

 しかし、強調しておくべき事は、崩壊論のそれぞれに誰がどうやって資本主義を崩壊させるという具体性がなくても、現代資本主義が衰退しつつあることは否定できないということだ。次の展開(マルクス主義なら社会主義)がない衰退はまさにカオス(混乱)である。こうした状況は文化的な面に、具体的に言えば人々の心の持ち方によく現れる。ダニエル・ベルは文化的退廃への対応策として「公共家族」を提示するが、内容がはっきりしないし“誰がどうやって”という行動論がないので政治的運動には展開しえない。

 今のところ、経済的に停滞しても、あるいは文化的に退廃しても、破局的事態にはない。自殺者の増加、教育の混乱、若者犯罪の増加、社会的無関心、公共心の欠如等、問題をあげればキリはないのだが、破局に至らないのは過去の経済的繁栄が築いた経済的蓄積による。   しかし、蓄積を食い潰し経済的安定が不安定に変わった時、もはや処方の描けない破局がやってくる。要するに、私達にあまり時間はないのである。早く、希望の持てる社会をデザインしなければならない。日本には特に時間がない。  

<日本経済>

 社会主義的社会の再構想ができていない現在、人々のために資本主義の延命に関与することは革新的段階の行動としても理にかなっている。というのは、保守勢力に任せた延命は往々にして大方の人々にとって苦しみを増加させる方向、暴力的な方向に進みがちだからである。人々のためにとは延命に伴いがちな暴力性を除く、あるいは緩和する努力である。また、延命は、ただ延命するだけでなく、その後の展望を築き上げる過程でなければならない。

 当面の課題は、横行する市場原理主義を抑制することである。資本主義は民営部門だけではうまく機能しないことは何度も証明されている。官営の機関が堕落し、機能不全に陥っている場合も多いが、それは市場原理主義を支持することにはならない。公的分野を適正に運営しているシステムが充分でないからである。資本主義社会における公的分野の存在理由と存在すべき領域について再確認し、それらが資本主義的不均衡の是正にどう貢献するかを検討する必要がある(注6。

 資本主義が失いつつある創造性を取り戻す運動は既に展開している。いわゆるベンチャー企業運動と呼ばれるものであるが、こうした運動には今のところ限界がある。その一つは、ベンチャー企業と呼ばれているものが企業全体のごくわずかだということだ。いかなる変革も少数より生ずるし、大きな体制の周辺から生じるから期待がないわけではない。しかし、新しい企業を生み出す努力と共に既存部分の革新を進めることは不可欠である(注7。但し、その革新が単純なリストラ、労働者の整理に終わってはならない。生産・流通システムからの無駄の排除や、組織間の寄生的関係の見直しが必要である。

 創造性復活運動のもうひとつの限界は、運動の主体である。現在、日本などで特に主体の欠如が著しいのは、社会のあり方とそれを是認し保守化した教育のためである。つまりサラリーマン社会とその教育である。そして大きな背景として、ここにも文化的な創造性の欠如がある。利用する文化が隆盛となり、利用するモノを作る文化は衰退している。おそらく、経済的創造性を取り戻す運動は文化的領域での運動に発展しなければ成功しないだろう。必要なのはルネッサンス的状況だ。誰が創造的な運動をするのかというのは、いつも緊急問題である。具体的には、技術も資金も揃っているが人がいないというケースは多い。大学発ベンチャーなどのケースでは特にそうである。そこで課題は教育の世界に戻されるが、ここにも問題はある。一般的に言えば、創造性を育むことは教育の使命である。しかし、企業家を育てることが同様に使命なのかは疑わしい。社長になってもおかしくない人間を育てることは課題だが、社長になるかどうかは個人の判断である。教育は個人の運命に指示をしてはならない。軍人になることを強制した戦前の軍国主義教育が誤りであるのは明らかである。

 教育の世界が荒廃しているのを良いことに起業家教育を押しつけてしまうという努力もある。初等教育にまで企業家教育を持ち込もうという確信犯的な動きもある。しかし、それがノウ・ハウの伝授に限られていればよいが、教育を受ける人々の方向にまで関与するのは逸脱である。

 日本のような帝国の形成に失敗した国は食い潰す資産がない。この種の国(韓国も同様)では、危機に陥ると対策として再生がスローガンとなる。日本流にいえば“日はまた昇る”という具合だ。ベンチャー運動とか新産業の育成というのはこうした路線の典型である。既存産業の革新を鼓舞するキャンペーンの典型は「プロジェクトX」であろう。

 しかし、資本主義の長い歴史をもち、それなりに蓄財した国(金銭的な財だけでなく、精神的文化的な財も含めて)では別の路線も採用されている。いわば、長い年後とトワイライトを楽しむ路線である。こういう方向性も大人の国の知恵として学ぶべき時であろう。

(注1. 日本は単なるデフレではないという論調もある。つまり、デフレーションという貨幣収縮に伴う物価下落ではないというのだが、これはその通りである。
(注2. 私のホームページにある「小泉改革の光と陰」を参照
(注3. 経済学の研究は1940年代から始められており、初期の成果は1844年「経済学・哲学草稿」に始まり『ドイツ・イデオロギー』(1845-6年)、『哲学の貧困』(1847年)、『共産党宣言』(1848年)、『貨労働と資本』(1849年)と続く。
(注4. 社会政策論争という。
(注5. 『資本蓄積論』については別に論ずる
(注6. 私の論文「金融機関の公共性」を参照。(太田進一編著『企業と政策』の第7章、ミネルヴァ書房、2003年)
(注7. ベンチャー企業運動と既存中小企業の革新運動がどう結びつくかは、結びつく、つかないも含めて論争的である。この点の私の考えは次の論文に示した。「協同組合としての信用組合」『信用組合』2003年1月号。

(2003年09月08日ホームページ掲載)