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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
一億一心の気味悪さ
山口 二郎
 
 

 冬休みに沖縄に旅行し、初めて「平和の礎」を見た。黒い石に刻まれた何万という犠牲者の名前を見て、改めて戦争とは普通の人間を大量に殺すことだと感じさせられた。正直なことをいえば、私はこの十年ほど、社民党ふうの「護憲・平和」という言説にはいささかうんざりしていて、憲法を擁護する側が政権を取ったときの安全保障政策についてイノベーションを起こしたいと考えてきた。しかし、北朝鮮による拉致事件を契機とするジンゴイズム(排外的自国中心主義)の高揚、アメリカによる対イラク戦争を所与の前提とした政策論議を目の当たりにして、憲法九条の価値をかみしめることの意味を再認識している。安全保障政策のイノベーションと言う前に、今のヒステリックな思考停止状態に終止符を打たなければならないと思う。

 戦争という言葉を使う者は、戦争の中に生きる普通の人間がどんな目に遭うかを具体的に想起してからこの言葉を使うべきである。有事になれば軍隊は住民を守らないということは、沖縄戦、そして数多くの地上戦が教える現実である。有事法制が必要だという政治家、官僚は、まず何よりも自衛隊や米軍がかつての日本軍とどう違うのかを説明する挙証責任を負う。有事という言葉も、戦争と同様、あくまで具体的に議論しなければならない。有事なる状態がいかにして日本に起こるかを現実的に論じていけば、結局日米安保体制が日本に有事をもたらすことが明らかとなる。だからこそ、政府はイラク戦争に備えて有事法制をなるべく早く成立させようとあわてているのである。

 残念ながら日本のマスメディアでは、こうした基本的な議論がほとんど行われていない。拉致事件報道によって新たな「一億一心」状況が作り出され、メディアが萎縮していることがその最大の理由であろう。拉致被害者の挙動が事細かく報道され、視聴者も自らを被害者の立場に置く。そして、日本も武力の裏づけを持って強硬な対外姿勢をとるべきだという世論が形成される。日本人が二〇世紀に朝鮮半島の人々に対して何をしたかを問う議論はかき消される。たとえば、昨年秋、札幌市内の寺から北海道で強制労働に従事させられていたと思われる朝鮮の人々の骨が大量に見つかったという出来事があったが、全国レベルのマスメディアでは報じられなかった。

朝鮮総連系の金融機関の乱脈や、北朝鮮からの密輸などに対して法を厳格に適用することについては、誰しも異論はないであろう。しかし、国民すべてが拉致事件の被害者になったかのような国民感情によって、外交や安全保障に関する議論が規定されるということはあってはならない。古来、政治家にとっては、外に敵を想定して国民の恐怖や被害者意識をあおり、国内政治における求心力を高めるというのが権力永続のための常套手段であった。

 今我々に必要なことは、それぞれの場で「一億一心」を打ち破ることである。イラク戦争に反対することでもよいし、日本と朝鮮半島との関係について公正な議論を求めることでもよい。マスメディアが当てにならない今、市民の集会やインターネットの掲示板など、小さなメディアを通して同時多発的に、異論を唱えることが重要である。

一億一心は、権力者にとっては都合のよい状況である。しかし、それは同時に政策に関する思考停止と同義である。歴史を顧みれば、国民が一心になり、熱狂した政策はほとんどつねに誤ったものであり、他ならぬ国民自身がそれによって大きな被害を受けるものである。我々はつい最近、小泉構造改革という空虚な熱狂を見たばかりではないか。

 今年は、統一地方選挙があり、衆議院の解散総選挙も予想されている。一億一心状況のまま、そうした選択の場を迎えれば、日本の政治は引き返しようのない泥沼に入るかも知れない。今年はそのような意味での転機となるであろう。

(週刊金曜日2003年1月17日)