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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
政治危機の二〇〇三年
山口 二郎
 
 

 今年は四月に統一地方選挙があり、衆議院の解散、総選挙も予想されている。それだけ選挙があれば、リーダーシップの転換の契機となりそうなものだが、今の日本にはそうした期待は存在しない。むしろ、今年は日本の民主政治にとって大きな危機の年となるように思える。そうした悲観的な予想をする理由には、政治主体の問題と政治を取り巻く環境の二種類がある。

まず、環境要因から見れば、二〇〇三年には戦争と恐慌という二つの難問に政治が取り組まなければならない。

 戦争とはいうまでもなく、アメリカが起こすかも知れない対イラク戦争にどう対応するかという問題である。もちろん、イラクへの攻撃には何の大義名分もない。対イラク戦争は、いわばブッシュ政権の私闘である。イラクは協力的ではないにしろ、大量破壊兵器に関する国際査察を受け入れているのであり、いわば国際的な監視下にある。「あの国は気に入らないから、先に攻撃することも自衛権の行使だ」というブッシュ政権の主張は、一七世紀のウェストファリア条約以来確立された国際法秩序を根本から覆すものである。その意味では、他ならぬアメリカこそが「ならず者国家」になろうとしているのである。

 イギリスを除く世界中の国は、こうしたアメリカの暴走をいかにして押しとどめるかについて、知恵を絞っているところである。イギリスでさえ、政府与党内に対米協力反対論が強い。この点で、日本の対応が問われている。昨年末、日本は自衛隊のイージス艦をインド洋に派遣した。西アジアにおけるアメリカの軍事行動を支援する体制は一層強化された。政府内部では、イラク攻撃を支援するための新法の検討が進んでいるという新聞報道もあった。政府首脳はブッシュ政権の意を迎えることにしか関心がないようである。

ブッシュの私闘に荷担することが日本の国益か?

 仮に日本がブッシュ政権の戦争に荷担するならば、それは憲法九条を破棄することを意味する。前線と後方支援の区別など、日本の官僚や政治家が気休めのために考え出した言葉の遊びである。対イラク戦争でアメリカを支援するということは、日本も参戦するということであり、同時にイスラム世界を敵に回すということである。

政治指導者が今なすべきことは、日本国民の利益という観点から日本のとるべき方針を選択し、国民を説得することである。もし、ブッシュ政権の私闘に荷担することが日本人の利益になると信じるのならば、政治家はそれに伴う利害得失を明らかにした上で国民に覚悟を迫るべきである。憲法九条はその際の障害になるのだから、あわせて憲法改正も提起すべきである。それだけの心構えもなく、アメリカのご機嫌をとりたい一心で裏口から戦争に参加するというのは、もっとも卑怯なやり方である。

 政府与党の一部には、憲法九条があるから日本は一人前の国家になれない。はっきりと軍隊を持ち、集団的自衛権を行使することを通して、日本も一人前の国家になるべきだと考える政治家がいる。しかし、軍事力を行使することと、国が一人前になることとは何の関係もない。アメリカに忠誠を尽くすためにより危険な役目を引き受けるというのは、危ない目にあえばあうほど親分に気に入られるだろうと考えるやくざの三下の発想である。一人前の国家とは、国民の利益を冷静に見据え、果敢に行動する国のことである。ブッシュ政権の私闘から距離を置くためには、憲法九条は使いでのある道具となりうる。九条があるからこそ、日本は一人前の国家になれるのである。

勝者総取り経済の危険

 政治にとってのもう一つの難題、経済再建も困難の度を増す一方である。小泉首相はルイヴィトンの売り場に大勢の客が集まっているから不況はそれほど深刻ではないと言っている。こんな能天気な首相を持つ日本人は不幸である。地方経済の疲弊はとどまるところを知らず、若年者の雇用は危機的状態である。現政権が信奉するネオリベラルの経済政策は、「勝者総取り」をもたらす。しかし、この路線を徹底し、敗者を素寒貧のまま放置するならば、勝者自身も生きていけない社会ができてしまう。消費の低迷という当面の問題は、勝者総取りによっては解決されない。日本にとってより根本的な脅威は、普通の日本人に対して職業生活を通して自己実現を図るという生き方が閉ざされることによる社会の荒廃である。「平等」といえば目の敵にされる昨今だが、普通の人が人間らしい生活ができるような環境を保持しなければ、治安の悪化、活力の低下など国全体の衰退につながることは目に見えている。若年層における正規雇用の喪失によって社会保険制度が崩壊し、その上に現在比較的余裕のある前期高齢者の本格的な高齢化が重なれば、日本社会は地獄の様相を呈するに違いない。

 今政治がなすべきことは、「痛みに耐えろ」という説教を国民にすることではなく、国民に仕事を与えることである。まじめに働く意欲のある人間が生活に困らないようにすることは、政治の責任である。いまさら公共事業の垂れ流しに戻れとは言わない。高齢化への対応、子育て環境の改善など、新たなフロンティアを見つけることは難しいことではないはずである。

 我々が直面している政治の課題は、かくも困難なものばかりである。そして、それに取り組むべき政治主体の力量は低下する一方である。小泉政権と自民党抵抗勢力との間で見せかけの喧嘩を行って国民の耳目を集めるという政治芝居のばかばかしさは、そろそろ国民の知るところとなった。しかし、政府与党は外交分野で次のスペクタクルを演出している。北朝鮮の国家犯罪や恫喝的な外交手法は、いくら非難しても飽き足りないと思うのが国民感情である。しかし、政治指導者までもが国民感情に安易に便乗して、北朝鮮の非難の戦列に加わるということは、政治における思考停止状態を長引かせるだけで、指導者としての責任放棄である。エリートのエリートたるゆえんは、国民感情から離れて、国のあり方について冷静な思考を行う地点に身を置くことにある。落着点を考えずにナショナリズムを鼓吹することは、政治家にとって麻薬のようなものである。

 野党では次の総選挙に向けた協力の議論が始まったが、何のために政権交代を起こすのかが国民にはまったく見えていない。自民党政権のどこを否定するかが見えてこないから、野党の協力が単なる数合わせと見られるのである。

 政党政治には、日本が直面している大きな岐路について、価値の座標軸を立てたうえで論理的に議論するという作業こそが求められている。小泉政権の失政が明らかになっている今、野党こそがその役割を果たさなければならない。民主党から、次の選挙の不安ゆえに離党する政治家が相次いでいる。しかし、それは本来の政党政治の筋道にとってはよいことである。党の求心力だの、選挙協力だのといった話は、政治の針路を明確にしなければできないはずである。野党が議論を放棄するならば、現在の思考停止状態がさらに続くことになる。そして、二〇〇三年は日本の政党政治にとって、「終わりの始まり」の年になるであろう。

(週刊ダイヤモンド1月25日号)