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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
イラク戦争に荷担するな
山口 二郎
 
 

 日本のメディアを通して世界の動きを見ていると、しばしば分からないことが多くて当惑する。その原因をたどってみると、日本語において動詞の意味上の主語が曖昧であることに行き着く。たとえば、テレビのニュースでは、「イラク情勢が緊迫化する」とか「北朝鮮との交渉が膠着化する」といった言い方がしばしばなされる。これらの文には主語と述語があり、もちろん文法的に間違いではない。物理的現象を主語とする文でも、台風が接近するとか、火山が噴火するといった場合ならば、別に違和感はない。ということは、イラク情勢や日朝関係を台風や火山などの物理的現象と同列に扱っていることが、私にとっての違和感の原因ということになる。

 実際、イラク情勢や日朝関係は台風と同じではない。台風は人間の意志とは無関係に襲来するのに対し、国家間の関係は人間が作り出すものである。「情勢の緊迫化」も「交渉の膠着化」も人間の意志の所産である。現実に迫った的確な表現をするためには、誰のいかなる行動によってそのような事態が出現したかを考え、人あるいはそれに準ずる行為主体を主語にして文を作るべきである。イラクの例で言えば、常に外敵に対する武力行使をしていなければ人気を保てないアメリカ大統領と、石油利権に目がくらんだその側近がイラク情勢を緊迫させているという表現の方が事態の本質を衝いている。

 メディアが抱えるもう一つの問題は、ある時期大騒ぎした問題をしばらく後にはきれいに忘却することである。これは日本のメディアに限らない。また、忘れるというよりも、意図的にある問題を人々の視界の外に追いやるということもあるだろう。

その最大の事例は、アメリカによるアフガニスタン征伐であり、この経験はイラク問題の今後を考える上でも不可欠の教材である。アメリカ軍がアフガニスタンのタリバン政権を打倒したとき、各国のメディアは、一般市民が歌舞音曲を楽しむ様子や女性が自由を回復した模様を報道し、タリバン政権の崩壊を解放、民主化の成功物語として意味づけていた。アメリカの石油ビジネスで活躍した人物を暫定政権の首長にした後、その政権の下で何が起こっているか、テレビや新聞はパッタリと伝えなくなった。実際は、軍閥が割拠し、役人の腐敗は横行し、タリバン政権時代よりも治安は悪化した。アメリカによるアフガニスタンの「解放」が成功したものではないことを広く世界に知られることは、同じようにフセイン政権を打倒しようとしているブッシュ政権にとって不都合である。アフガニスタンの現状についてきちんと報道しないマスメディアは、そうしたブッシュ政権の行動を支持していることになるのである。

政策遂行のコストと便益を冷静に計算すべき

 解放や民主化を実現するために独裁政権を武力で倒しさえすればよいという考えは、単純であまりにも楽観的であることは、アフガニスタンの事例からも明らかである。私はもちろん、独裁者が人権を抑圧することには反対である。また、どこの国であれ民主化することはよいことだと思っている。しかし、先進国が遅れた国を民主化するために自分の戦略を押し付け、結果として専制時代よりも大きな無秩序や暴力をもたらすことには反対である。民主化とは、それぞれの国の市民自身が内発的に進めるのでなければ、うまくいくはずはない。

非西欧圏における民主化の成功例としては、南アフリカや韓国の事例がある。かつての南アフリカにおけるアパルトヘイト政策は、人道や民主主義の理念に反するものであった。しかし、そのときに人種平等と民主主義を訴える国が軍事干渉し、少数派に過ぎない白人を追い払おうとしたら何が起こっていただろうか。泥沼のような内戦が起こり、仮に民主主義を叫ぶ勢力が権力を握っても、武力で勝ち取った権力を守るために新たな独裁政治が生まれていたに違いない。アパルトヘイト政策のもとで平等を主張する運動家が投獄されたのを見るのは忍びないことであった。しかし、そうした苦難の道を通り抜けたからこそ、持続可能な民主的秩序が生まれた。

 私は独裁者の圧制を傍観せよといっているのではない。直接的な武力行使は民主主義という大義を実現する手段にならないということを言いたいのである。アメリカの軍事力をもってすればフセインを追放することは簡単であろうが、その後はフセイン時代以上の無秩序が出現することは明らかである。イラクは常に外国軍隊の駐留がなければ治安を維持できない失敗国家(failed state)になるであろう。

 大量破壊兵器に対する抑制についても同じ問題がある。イラクが生物・化学兵器を持つことは好ましくないと誰しも思う。しかし、それが世界全体にとっての脅威になると言われても、すぐには理解できない。イラクは核兵器を持っていないが、インド、パキスタン、イスラエルなどは核兵器も持っており、地域紛争における武力行使の中では大量破壊兵器を使う危険性を秘めている。世界にとっての脅威と言うなら、これらの国々にも厳しい査察を行なうべきである。イラクの大量破壊兵器を壊すために軍事侵攻すれば、イスラム過激派のテロリストの報復を招くことは必至である。強硬手段で大量破壊兵器を取り除くことがかえって世界の危険を高めることになる。

憲法九条の現実性

 政治の世界では、ある理想を実現するために何かの手段を実行したとき、その手段がもたらす副作用によってかえって理想から遠ざかるということがしばしば起こる。エドマンド・バーク以来の保守主義者の革命に対する懐疑は、その矛盾を衝いたものであった。今の世界では、ブッシュ率いるアメリカの保守派が向こう見ずな革命家の役割を演じ、それに冷水を浴びせる懐疑主義者がいなくなってしまった。

 このような状況で私は憲法九条に新たな意味を見出す。日本では、九条は素朴で幼稚な理想主義の表明だと批判されてきた。日本帝国が瓦解したとき、人々が九条を歓迎したのは高邁な理想に共鳴したからだろうか。その日を生きるのに懸命だった人間が高邁な理想に共鳴するはずはない。むしろ九条は、戦争という手段に訴え、おびただしい犠牲者を出してまで追求するに価するようなものがこの世にあるのだろうかという懐疑の念の現れとして理解すべきである。紛争処理の手段として軍事力には限界があることを主張する点で、憲法九条は現実を射抜いている。

 タカ派の政治家は九条のもとで日本人は平和ボケしたという。しかし、九条に愛着を持つ人は、戦を恐れ、無辜の民が犠牲になることを心配する点で、正気を保っている。逆に、常に自らを安全地帯に置き、強者の背中から戦を見、自分も何かしたいといきがる連中の方が、よほど平和ボケしている。

 アメリカがイラク攻撃を開始したとき、日本人の生き方も問われることになる。日本人としての誇りを持ちたいならば、向こう見ずな革命家の後ろを恐る恐るついて行くことではなく、超大国の暴走に冷水を浴びせるところに日本の役割を見出すべきではないか。

(週刊ダイヤモンド2月22日号)