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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
日米関係という呪縛をいかに脱するか
山口 二郎
 
 

 世界の関心がイラクに集まっている。本稿執筆の時点(三月三日)では、アメリカが国際世論の支持がないまま、いつ攻撃を開始するかに焦点が移ったようである。アメリカのこうした単独主義的な好戦姿勢に日本がどう対応するかが問われている。

 国内の世論も、世界と同様、イラクに対する武力行使には反対である。しかし、政府は国会における十分な議論もないままに、アメリカ支持の姿勢を明確にしている。状況追随は、日本における政策決定の特徴ではあるが、とりわけ今回の政府の姿勢からは、国の方針を動かす「意志」というものが感じられない。小泉首相は、主権国家の指導者というより、属州の代官という方が適切である。

日本政府の指導者や外務省の官僚に対してこの種の非難を浴びせることは簡単である。ただし、日本のとりうる選択肢が無限に広がっているわけではない以上、戦争に荷担することに反対する側も、それなりの戦略を構想する必要がある。

 日本におけるイラク征伐を支持する主張には、大きく二種類があるように思える。第一は、大量破壊兵器を持つイラクは世界の安全にとっての脅威なので、これを除去するためには軍事力も必要だというものである。この議論は、アメリカによる軍事行動を正戦として捉えている。ならず者が盤踞する世界で平和や民主主義を実現するためには、憲法九条という念仏を唱えるだけではすまないというのが、この種の論者の言いたいことである。政府は正面からこの主張を展開しているわけではないが、公明党を含め与党にはこのタイプの論者がかなりいる。第二は、アメリカが正しかろうが間違っていようが、日本は常にアメリカについていくしか生きる道はないというものである。所詮日本はアメリカの属国だという卑下や自嘲とそれに関する開き直りがこの種の主張の根本にある。この種の議論は、外務省や親米派知識人の本音であろう。

 第一の議論に対する反論は容易である。この議論が成立するためには、@イラクが大量破壊兵器とそれを使用する意図を持っていることが証明され、Aアメリカ軍による攻撃がこの脅威を除去することに有益であるという二つの条件が必要である。査察の結果、@は証明されていない。Aはもっと不確かである。アメリカの軍事力を以ってすれば、フセイン政権を打倒することはできる。しかし、それで秩序や安全が確立できるわけではない。アメリカ、さらには西洋文明に恨みを持つアラブ人は復讐を繰り広げるであろうし、イラク地域に持続的な秩序を確立することがそう簡単にできるはずはない。

 第一の議論では、保守派の政治家や知識人が無邪気な革命家の役割を演じるという転倒が見られる。イラクの民主化が善なる目的だとしても、その目的を武力行使という手段で性急に求めるならば、途方もない災厄が起こるというのが、保守主義者が本来持つべき懐疑心というものである。フセインさえ倒せば後はうまくいくというのは、出来損ないの革命家が唱える無責任なプロパガンダである。戦争という手段は、犠牲と憎悪を生み、経済の疲弊をもたらすという点で、決して平和を実現するものではない。

 第二の議論は、とりあえず思考の手間を省くという点で政治家や官僚にとっては好ましいものかもしれないが、この機会に思考を怠れば、そのつけは後に何倍にもなって回ってくるに違いない。アメリカがどれだけ常軌を逸し、身勝手な行動をとっても、日本はそれについていくことが国益なのだというのなら、外交など成立しない。

 まず不思議なことは、日ごろ「日本人としての誇り」を持つことに熱心なナショナリストたちが、この問題については政府の卑屈な態度に異論を唱えていない点である。現在の日本のナショナリズムはアメリカという巨大な庇護者に寄生した、まがいもののナショナリズムである。

 より大きな問題は、戦争に反対することによる日米関係の悪化が、具体的にどのような害悪を日本にもたらすかについて、現実的な議論がまったく存在しないことである。ドイツやフランス、さらには米軍の駐留を拒否したトルコは、それぞれ対米関係の断絶を主張しているわけではない。アメリカと友好関係を持つ国を見渡せば、各国の対米関係には全面的な従属から時には異論をぶつける関係まで、ある程度の幅があることが分かる。どのような対米関係を作るかは、まさにそれぞれの国の意志の問題である。

 かつて冷戦時代には、日米安保条約が日本をソ連から守る盾の役割を果たしてきた。しかし、冷戦終焉後、日米安保は日本自身の安全を守るというよりも、アメリカの世界戦略を支える土台へと変質した。そして、日本はアメリカの軍事的展開を支えるために膨大なコストを支払っている。政府には、日本は北朝鮮の脅威に直面しているので、アメリカのご機嫌を損ねてはならないという配慮もあるだろう。しかし、日本がイラク戦争に反対したとしても、アメリカは韓国に軍を置いており、北朝鮮問題を放置するということはありえない。安保破棄という逆の極端に振れるのではなく、日米安保の大枠の中で日本として自立性を発揮する可能性をもっと真剣に考えるべきである。

 反戦、平和を唱える側も、こうした戦略については十分論じてはいない。特に、今日の国際社会において憲法九条の理念を実現するとは具体的に何を意味するか、議論は深められていない。九条という念仏を唱えるだけでは、平和は実現されない。人道や人権を確保するためには、秩序を担保するための国際的な警察力と、人道を蹂躙したものに対する国際的な裁判の仕組みを整備することが必要である。もちろんこれはアメリカによる恣意的な軍事介入とはまったく別物である。日本がそうした国際的な秩序維持のために、人的貢献を含めて何をなすべきか、議論が必要である。正義や人道を実現するためには時として力も必要だということは、否定できない現実である。だとすれば、その力が特定の国の権益のために恣意的に使われることのないように、また達成すべき正義や人道が本物かどうかを検証するために、国際的な枠組みが必要である。

 二一世紀の世界秩序をどのように作っていくか、今問われている。日本も、対米追随という思考停止状態を脱して、国際的議論に参加すべきである。

(週刊東洋経済2003年3月8日)