国連では、イラク問題をめぐる各国のせめぎ合いが続いている。この文章が読者の目に触れるころには、戦端が開かれているかもしれない。今我々は、二一世紀を殺戮と憎悪の世紀にするのか、人類共存の世紀にするのかという大きな岐路に立っている。
二一世紀は、「九一一」の悲惨なテロとともに始まった。その後アメリカは世界最強の軍事力を持ってアフガニスタンに対して復讐戦争を行い、タリバン政権を粉砕した。さらに今回は、大量破壊兵器を保持し、テロリストを支援するかも知れないという理由でイラクを攻撃しようとしている。しかし、この戦争には何の大義名分もない。テロリストを支援してアメリカの安全を脅かすおそれがあるというだけでは、自衛権の発動の理由にはならない。武力行使は自衛の場合に限るべきという、一七世紀以来人間が幾多の戦乱と殺戮の中からかろうじて学んできた国際法の原則を踏みにじるという点で、アメリカのイラク攻撃は反文明的ですらある。
九一一テロ事件によってアメリカ国民が受けた精神的な傷の大きさは、想像に余りある。テロを許さないことについて、我々はすべて同じ意見である。テロリストには同情の余地はない。しかし、だからといってテロの被害を受けた国が、テロと直接の関係を持たない国を攻撃し、無辜の民を多数殺傷することが許されるということにはならない。
イラク攻撃は非人道的であるだけではない。大義名分のない戦争は、攻撃された側にアメリカやその同盟国に対する憎悪を生み、復讐を誘発する。アラブ過激派が復讐のテロを行えば、アメリカはさらにようちょう膺懲(ようちょう)の剣を振り回さざるを得ない。かくして、世界全体がパレスチナのような民族・宗教対立の修羅場と化す。二一世紀の世界をパレスチナ化してよいのか、あるいは国際法誕生の契機となった一七世紀の三〇年戦争の時代に戻してよいのかが問われているのである。
日本の取るべき道は簡明である。この戦争はアメリカのためにも、世界のためにもならないことを説得することである。日米同盟は日本外交の基本だから、アメリカの言うことは支持すべきだという議論もあるが、これは単なる思考停止の弁明でしかない。今回、フランス、ドイツ、トルコなどアメリカの同盟国がそれぞれの理由、方法で戦争に反対している。戦争に反対することは、同盟関係を否定することと同じではない。基本的な友好関係を前提としながら、アメリカとの間でどの程度不一致を残すかは、それぞれの国が主体的に考え、決めることである。日本としては、アジアの秩序のためにアメリカの存在が大きいことは認めつつ、イラク攻撃が中東のみならずアジア一帯の秩序を不安定化させることを説得するしかない。
平和や人道を実現するためには、侵略や抑圧を意に介しない無法な権力者に対して力を振るうことが必要な場面もあるという主張に対しては、私は理論としては同意する。しかし、力を用いて目的を達成するためには、よほどの思慮、叡智が必要とされる。知恵のないものが力ずくで事に当たれば、ますます大きな混乱と悲惨を生み出すだけというのが、歴史の教えるところである。ブッシュ大統領をはじめとする戦争推進派の人々からは、そうした慎重さ、聡明さが感じられない。
ブッシュ、小泉をはじめとして、自らを絶対安全の場所に置き、軍事力をもてあそぼうとする政治家こそが、平和ボケの極致である。戦争に反対する大多数の国民は、罪のない人間が犠牲になることを恐れる正気を持っているからこそ、反対しているのである。小泉首相は、世論に従って政治をしては間違うこともあると発言したが、仮に首相が世論を間違ったものと考えているならば、自らの信念を全力で訴えてから世論を批判すべきである。対米追随という呪縛から逃れられない臆病な首相にそんなことはできないに違いない。
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