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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
転機の戦後日本―――思考停止からの脱却を
山口 二郎
 
 

その1 アメリカとどう付き合うか

 政治を見る枠組みについて、古来理想主義と現実主義の対立が存在すると言われてきた。現実主義の見方に立てば、政治においては、力の裏づけのない正義はないということになる。また、政治家たる者、目的を達成するためには手段を選んではならないとも信じられてきた。そして、今回のイラク戦争に関しても、現実主義を自称する政治家、官僚、知識人はこぞってアメリカの軍事行動を支持した。北朝鮮の脅威に直面する日本としては、アメリカとの軍事同盟関係を守ること以外に道はないというのが、その論拠であった。

 私も、政治に関しては現実的にものを考えるべきだと思っている。しかし、私は現実主義者ではない。現実主義的と現実的とは違うからである。現実主義的とは、多様な現実から論者にとって都合のよい断面だけを取り出して、それをもとに議論を組み立てる思考法を意味する。これに対して、現実的とは、多様な現実をなるべく幅広く捉え、よりましな解決策を探すという思考法を意味する。なぜこんな言葉の使い分けにこだわるかといえば、日本政府の指導者やそれを支持する知識人が、現実主義の看板の下で思考停止状態に陥っており、そのことが日本に住む人々の安全を脅かそうとしていることに、大変な危機を感じているからである。

 イラク戦争は、イラクが保有するとされていた大量破壊兵器を取り除くために始められた。しかし、フセイン政権崩壊後も大量破壊兵器は見つかっていない。「目的のためには手段を選ばず」どころの話ではない。最初から大量破壊兵器の除去という目的は虚構であり、イラクの体制転換が目的だったということになる。要するに、世界最大の強国アメリカは、自らの欲望を遂げるためなら何でもするということが、この戦争の意味であった。

 今、このようなアメリカとどう付き合うかが問われている。現実主義者は、「ご無理ごもっとも」で、どこまでもついていくしかないと言う。要するに、現実主義者にとっての現実とは、思考停止を意味する。しかし、そうした議論や思考の放棄は、自らに大きな危険を招くことになる。今、国会で論じられている「有事」に即してそのことを考えてみよう。

 今、海を越えて日本国土に侵攻する能力を持っている国は、アメリカしかない。となると、伝統的な地上戦を想定した有事法制は無意味である。また、日本を攻めようと思うならば、大都市や原発にミサイルを撃ち込めば十分である。都市化が進んだ日本では、地上戦などできないというのが現実である。日本が攻撃を受ける事態がいかにして起こるかを現実的に想像してみれば、日米同盟を抜きにしてはありえないことが明白である。すなわち、アメリカが「ならず者国家」を先制攻撃し、その国が米軍の出撃基地になっている日本に反撃を加えるというのが、唯一の現実的なシナリオである。アメリカでは、自国を神、アメリカに逆らう国を悪魔と捉える神がかりのレトリックを大統領自らが使っているからこそ、このシナリオは可能性ゼロではない。今のアメリカは、我々の知っている寛容と合理主義のアメリカではない。現実主義者は、今のアメリカの本質を見誤っている。

 我々が政治を現実的に考えるという場合、まず権力者は権力追求を自己目的とするものであり、そのためには国民を欺くこともしばしばであるという単純な事実を思い出すことから始めなければならない。有事とは、国民に思考停止を迫るための幽霊のようなものである。日本の安全を本当に考えるのならば、我々の目の前で軍事行動を起こさないようアメリカを諫めつつ、北朝鮮の暴発を防ぐよう隣人としての対話を続けるという高度な外交に取り組まなければならない。そして、そのためにはそうした利害を共有する韓国、中国という近隣諸国との協力が不可欠である。日米安保さえあれば安全が守られるという発想は、決して現実的ではない。


その2 法を守るとはどういうことか

 前回説明したように、有事法制には日本の安全を確保する手段という意味はほとんどない。むしろ、この法案には国内政治上の意味が込められているということができる。

 有事法制は、非常事態の際に、自衛隊や行政が取る行動を合法的なものにするために作られようとしている。国民に対しては、非常時といえども政府の機関が違法、無法な行動を取るわけに行かないので、こうした法体系が必要だと説明される。

 仮に日本が不当な侵攻を受けたとき、これに反撃する自衛隊に対して国民が法律の遵守を要求するはずはない。また、自衛隊が国内法規を遵守しながら敵と戦うはずはない。ほとんど起こりえない「本土決戦」を前提に、自衛隊や行政を拘束するための法律を作るというのは、全く無意味である。

 では何のための有事立法なのだろうか。ここで、我々は法には二つの側面があることを思い起こす必要がある。一つは、我々自身が守ることで、お互いの自由と安全を実現する法である。交通法規などがその典型である。もう一つは、我々の自由と安全を守るために、政府が守るべき法である。警察、税務署など政府は強制力を持っており、それを濫用されては我々の自由は損なわれる。だからこそ、政府が守るべき法が多くの分野で整備されている。そして、憲法こそは、政府が守るべき最も根本的な法である。

 今議論されている有事法制は、非常事態において国民の側に土地の収用、物資の徴発、報道の規制などで義務や制約を課すものであり、国民が守るべき法である。政府には、非常事態の際に国民の基本的人権に配慮するなどというまどろっこしいことをするつもりはなさそうである。そのことは、いわゆる権利保護法制なるものが有事法制の添え物のように遅れて提案されたことにも現れている。

 有事法制を推進する政府の指導者は、日本は法治国家だから有事にも法体系が必要だという。法治主義の意味を取り違えられては困る。法治主義とは、国民が従順に法を守る統制のとれた国のことではなく、政府が国民に対して権力を発動するときに必ず法に従うという意味である。今までの日本の行政は、まじめに法を守ってきたとは言えない。相次いだ警察や刑務所の不祥事は、法を執行すべき行政がほしいままに権力を振るってきたことの一例である。また、こうした違法行為の横行に対して責任を取らない政府の指導者もまた、法をまじめに守っているとは言えない。そんな政府が本土決戦の時だけ法を守るといっても、説得力はない。

 憲法九条に対するシニシズムが蔓延する中で、有事法制に対する反対は決して強いものではない。専守防衛の原則のもとで、自衛隊は合憲とされてきた。しかし、今やその枠さえも取り払われ、自衛隊は米軍の支援のためにインド洋にも行ける時代となった。憲法九条は、ほとんど空文化している。このような事態に対し、国民、特に若い世代の多くは、法を無視した政府に反発するよりも、政府を縛る「たが」としての機能を失った憲法の方を侮るようになった。

 憲法の有り難みについて、今さら説教をしたいとは思わない。憲法を守れと叫んでも、空しいだけである。ただ、憲法を侮るものは、必ず近い将来、権力の暴走というしっぺ返しを受けるだろうと予言しておきたい。政府も、日本を戦争のできる国にしたいのならば、有事法制などと回りくどいことを言わないで、正面から憲法改正を提起すべきである。また、国民も日本をどのような姿の国にしたいのか、考え、選択すべきである。

 私自身は、もちろん、紛争解決の手段としての軍事力は役に立たないと宣言した憲法に賛成である。だからこそ、憲法九条をたがにして、自衛隊の役割を縮小する道を追求したい。

(東京新聞2003年5月7日・8日)