先月の統一地方選挙からは、政治変革の息吹は感じられなかった。新聞には無党派という言葉が踊ったが、知事選挙に関する限り無党派候補は全敗であった。神奈川や東京の知事は、既成政党の政治家の転身に過ぎない。福井や大分では、無党派候補は事前の予想よりもはるかに善戦はしたが、既成政党の壁は厚かった。三重県では、北川正恭前知事の改革に疲れた労組、政党が担ぐ相乗り候補が圧勝し、自治体改革がまだ属人的なものであることを感じさせられた。また、その北川氏は福井県で、原発の現状維持を唱える相乗り候補の支援に回り、改革派なるものの実態について、幻滅させられた。長野県では、田中康夫知事の懸命のてこ入れにもかかわらず、知事不信任を推進した古手の議員を入れ替えることができなかった。総じて、この数年続いた地方からの政治変革が、階段の踊り場にあるという印象である。
もっとも腹立たしいのは、石原慎太郎東京都知事が三百万票もの大量得票で再選されたことである。東京の結果は、無党派層の持つ危うさを物語っている。無党派層の持つ政治の現状に対する不満は、必ずしも前向きの改革につながるとは限らない。石原知事のように、外国人、女性、田舎の人々など一般都民よりも弱い者を敵に見立て、これをいじめ、罵倒することによって、人々に刹那的な憂さ晴らしを提供するようなリーダーを、無党派層は歓迎しているのである。自民党は石原を必要とするほど追い詰められてはいないが、これから小泉政権の政策が行き詰るにつれて、政治手法としての東京モデルが全国化する危険性は大きい。
地方から始まった政治変化が持続するか、腰折れするかの象徴的意味を持っているのが、目下行われている徳島県知事選挙である。この選挙は、長野県同様、県議会による知事不信任決議を受け、知事が失職したことに伴うものである。そもそも、任期切れ直前の議会が知事不信任を決議するというのは、制度の趣旨に反する卑劣な行動である。議会による長の不信任に対しては、長による議会の解散という対抗手段があり、不信任と解散は一対になって抑制均衡の仕組みを構成している。したがって、任期切れ寸前で、議会解散が意味を持たない状況で長の不信任を議決するというのは、フェアな行動ではない。先月の県議会議員選挙で、不信任を推進した自民党の議員が数名落選したのは当然の結果である。
徳島では、中央直結による開発主義の県政、公共事業を道具にした利権の政治に戻るのかどうかが問われている。大田前知事は、最初の選挙で公約した公共事業の見直しについて、初志を貫けなかった憾みはある。大田氏の政治家としての弱さも責められるべきだが、県政混乱の責任は議会の側にもある。
自民党の町村信孝総務局長は、自民党推薦候補への応援の中で、何でも反対の住民運動に県政を任せるわけには行かないという趣旨の発言をした。冗談ではない。大田前知事の提案する政策や人事に対して「何でも反対」して、県政を混乱に陥れたのは他ならぬ自民党の県議会議員たちである。吉野川可動堰の建設反対に立ち上がった市民の地域を愛する思い、公共事業に絡む汚職で逮捕された円藤元知事に対する県民の不信と怒り、大田知事誕生をもたらした徳島県民のこうした思いを、町村氏に代表される旧式の政治家はまったく理解していない。
円藤元知事の汚職、自民党長崎県連の不正献金事件など、地方政治における利権の構造はしつこく残っている。これを打破する動きは、長野などで始まったばかりである。だからこそ、自民党は、徳島を第二の長野にしたくないと、元総務官僚の候補の応援に必死になっている。まさに、徳島は古い政治と新しい政治のせめぎあいの決戦場である。ここで大田氏が破れれば、可動堰をめぐる住民投票以来築いてきた政治変革の実績が元の木阿弥に戻ることになる。ここは何としても、徳島県民の良識を期待したい。
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