Globalization & Governance
Globalization & Governance to English Version Toppage
トップページ
HP開設の言葉
学術創成研究の概要
研究組織班編成
メンバープロフィール
シンポジウム・研究会情報
プロジェクトニュース
ライブラリ
研究成果・刊行物
公開資料
著作物
Proceedings
Working Papers
関連論考
アクセス
リンク
ヨーロッパ統合史
史料総覧

「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
小さな政府の大きな権力
山口 二郎
 
 

 五月一一日の朝日新聞にこんな記事が載っていた。九・一一テロに対する復讐としてアメリカがアフガニスタンのタリバン政権を征伐したとき、多くのアフガン人をタリバンの残党としてアメリカが拘束し、キューバにある米軍のグアンタナモ基地に一年以上にわたって抑留してきた。そのアフガン人がようやく解放され始め、アフガニスタンに帰還したとのこと。アメリカは彼らに対して、何の謝罪も補償もしていない。かのアフガン人たちが、テロ事件に連座する容疑者ならば、彼らは刑事法によって裁かれるべきである。その際には、国内法に従って刑事被告人としての処遇を受けることになる。また、彼らが戦争における捕虜ならば、国際法に従って捕虜としての待遇を受けなければならない。しかし、そのどちらでもなかった。当然である。彼らが九・一一のテロに関与した証拠はまったくないし、アメリカによるアフガン征伐は、戦争ですらなかったからである。

 「戦争ですら」という意味は、アフガン征伐は国際法で言う自衛戦争ではなく、大国による単なる暴力の行使でしかなかったということである(参照、加藤尚武『戦争倫理学』ちくま新書)。そこには、一切法による縛りは存在しない。自由と民主主義の旗頭を自ら任ずるアメリカも、この点に関しては無法国家である。

 こんな話を紹介したのは、他ならぬ有事法制に疑問を呈するためである。有事法制が必要な理由は、日本で軍事紛争が起こったときに、自衛隊その他行政機関が違法行為を働くわけには行かないという点にあると説明されている。しかし、冒頭に紹介したエピソードを考えれば、有事の際に軍隊は法など無視して行動することがよく分かる。民主党が主張した人権尊重の規定など、「桑原、桑原」の呪文のようなものである。いまどき、陸軍による地上戦を想定した有事法制を作る意味は、いったいどこにあるのだろうか。海を渡って日本の国土に侵攻する軍事力を持っている国は、アメリカしかない。アメリカは日本の同盟国だから、有事の対象ではないのだろう。また、先のイラク戦争を見れば分かるように、他国を征服しようとすれば、攻める側はまずミサイルや空襲によって国土を焦土にしてから、地上軍を投入する。陸上自衛隊が民間の土地や家屋を接収するという、新聞で書かれていた有事の「シミュレーション」なるものは、まったくの空論である。有事法制が国民の生命や権利を守るというのは、まったくの虚構である。

 もちろん、日本の安全を脅かすテロ、麻薬の密輸など、現代的脅威に対する行政の対応には万全を期すべきである。しかし、それは、警察、海上保安庁などの行政機関の今までの対応を点検し、不備を補うという着実な議論を通して進めるべき作業である。

 有事法制には、国内政治的な意味が込められている。一つは、民主党を牽制するためである。民主党が安全保障に関しては常に内部対立を抱えていることは、はっきりしている。経済無策ゆえに支持率急落の危険を抱える小泉政権としては、民主党のイメージを損なうような争点をぶつけることが有利となる。

 もっとも、民主党に嫌がらせをするのは、この法案の副産物でしかない。より大きな狙いは、政府の権力を強化する法制度の仕上げという意味である。まさに、有事法制は「小さな政府と大きな権力」という小泉政権の構造改革の本質を物語るものである。小泉政権は、二〇年遅れのサッチャリズムを目指すといってもよい。

 この国会では個人情報保護法の成立も確実となり、住基ネットの運用と合わせて、政府が市民社会をコントロールする手段が着々と整備されている。また、有事法制は国民の権利を守ることよりも、緊急時において国民が政府に協力する義務を規定することに主眼が置かれている。また、全国の多くの自治体では、公立小学校の通知票において児童の愛国心の度合いについて評価が行われるようになった。国民のプライバシーや心の内面に政府の権力が平然と踏み込んできているのである。その意味で、政府は肥大化する一方である。


 他方で、小泉改革は小さな政府の実現に関して、成果を挙げつつある。構造改革の最初の成果として、医療保険改革による患者自己負担の引き上げが実現された。特殊法人改革の一環として、日本育英会の廃止が決定され、これに伴い無利子の奨学金がなくなることは確実である。さらに、補助金削減という美名の下で、義務教育に関する国庫負担金を廃止し、一般財源に組み込むという動きが進んでいる。仮にこれが拡大されれば、財政難に苦しむ地方自治体が教育費を削減するは必至である。同時に、義務教育レベルでも学校選択制の導入が始まり、小中学校でも飴と鞭による改革が行われようとしている。特殊法人の廃止も、補助金削減も、抽象的な政策目標としては結構な話である。しかし、それを具体化する時には、教育や社会保障など国民生活に密接に関連する分野から削減が始まる。羊頭狗肉とはこのことである。まさに、社会保障や教育に関して、小泉改革は小さな政府を作りつつある。大学に身を置く者としては、小泉首相が就任当初唱えた「米百俵」の精神はどこへ行ったのかと抗議したくなるが、世間は構造改革の中身に関して無関心である。(「米百俵」の美談の要点は、米を売った代金で次代を担う人材を養成する学校を作った点にある。念のため)


 社会経済政策に関する小さな政府が、市民的自由に対しては大きな権力を持つという矛盾について、世論は鈍感である。先日の東京都知事選挙の結果に現れたように、一般市民は、少数者や弱者を排斥する強いリーダーを歓迎している。この時代、普通の市民がいつ失業や倒産で弱者の側に回るか分からないはずだが、安全、安心を求める人々は強いリーダーを支持するようである。しかし、そこに落とし穴がある。生活の安全、安心をもたらすのは、社会保障や教育の分野における的確、有効な政策である。市民的自由に対する強い権力は、決して安心できる生活をもたらすわけではない。


 今ほど、小泉改革に対する対抗ビジョン、小泉政権に対する対抗勢力が求められているときはない。民主党と自由党との合流が仮に実現しても、小泉改革に対する対抗ビジョンを具体的に持てないのならば、それは銀行の合併と同じような意味しか持たないだろう。野党不在の状況に、日本政治の病理を見る。

(週刊東洋経済2003年5月31日)