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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
つぎはぎだらけの国 日本
山口 二郎
 
 

 国会会期が延長され、イラク新法が最大の争点となった。イラクに平和を回復し、戦争の被害を受けた人々を救うためには日本も協力する必要があると言われれば、お人好しの日本人は金も人も出そうという反応をするのかも知れない。しかし、事はそう単純ではない。私はあえて、政府が唱えるイラク支援には反対したい。

 そもそも米英両国によるイラク討伐戦争は、不正なものであった。大量破壊兵器の除去という大義名分が捏造されたことは、もはや明らかであろう。イギリスでは、大量破壊兵器の脅威を誇張し、開戦を正当化したブレア首相の政治生命が危うくなっている。さすがのアメリカでも、ブッシュ政権のやり方に対する懐疑が広がっている。むしろ我々は、権力というものは自らの行動を正当化するために情報操作をするものだという教訓を読みとるべきである。

 イラクの民主化という根拠も、全くの虚構である。カント的な平和を志向する「古い」ヨーロッパに対して、アメリカは力による正義を志向するホッブズ主義者だと言われることがある。しかし、これはホッブズの誤読に基づく議論である。ホッブズが絶対的権力を正当化したのは、それが人間の生存にとって必要な秩序をもたらすが故であった。しかるに、アメリカが、それ以前のイラクで最低限の秩序を確保していたフセイン政権を破壊し、ホッブズの言う自然状態(万人がは万人に対して狼となる)を作り出してしまった。つまり、アメリカはホッブズの言う専制君主の域にさえ達していないのである。イラク人は、戦争で痛めつけられた上に、戦後の無秩序によって苦しむという二重の不幸に見舞われている。民主化など、はるか遠くのゴールである。

 イラクの自然状態を平定するために、日本も協力せよとアメリカに言われた。しかし、イラクの戦災は、地震や洪水のような天災ではなく、あくまでアメリカが作り出した人災である。イラク人に対する補償の責任は、まずアメリカが負うべきである。イラクの体制移行に日本が何らかの協力をすることを私も否定はしないが、それはアメリカが自らまいた種である自然状態を克服してからの話である。もちろん、アメリカは自らの誤りを認めることはなく、秩序構築というやっかいな仕事が手に余るために日本を引き込もうとしているのであるから、現状において日本はアメリカによるイラク統治に協力などする必要はない。

 イラク新法は、イラク支援に名を借りた実質的な憲法改正である。日本の自衛隊は軍事的組織ではあるが、もっぱら自国を防衛するためにあるということで、憲法九条に適合すると政府は説明し、国民も納得してきた。国連による平和維持活動への参加は、あくまで国際社会の合意に沿ったものである。政府が進めようとしているイラクへの自衛隊派遣は、そのどちらでもない。危ないところへは行かないという政府の説明が虚構であることは、明白である。イラクにおけるゲリラの頻発が示すように、一見安全な場所でも武力衝突は起こりうる。また、後方支援とはいっても、自衛隊は米軍と事実上一体であり、アメリカに恨みを持つイラク人から見れば、自衛隊も復讐の対象になる。派遣される自衛隊員にとっては、自分の身を守るために十分な武器と、それを臨機応変に使用する自由を得なければ、イラクでの任務はロシアン・ルーレットをするようなものである。自衛隊員の人権を守るためにも、このような杜撰な新法を通してはならない。

 結局、イラク新法を推進する政府および自民党防衛族の狙いは、ブッシュ政権に徹底した忠誠を示すことと、自衛隊を外国で武力行使できる普通の軍隊にすることだとしか思えない。しかし、憲法九条を実質的に変更するような重大な問題を、一カ月あまりの延長国会で決めてよいのだろうか。

 イラク新法は、冷戦構造崩壊以後、自らの座標軸を欠いたまま漂流してきた日本が行き着いた終着点である。この過程は、論理の破壊と特例・暫定措置の積み重ねという二つの特徴を持つ。

 安保再定義以後の日本の安全保障政策は、ルールを無視した詭弁の積み重ねによって動かされてきた。いわゆるガイドライン法で規定された「周辺事態」は地理的概念ではないと説明され、米軍に対する日本の支援は空間的にも無際限に拡張された。また、テロ特措法では、米軍への後方支援が直接の武力行使ではないとして正当化された。そして、今回のイラク新法では、日本政府がイラク国土に安全地域と危険地域という境界線を勝手に引くことになった。この手の説明は日本国内でしか通用しない、独りよがりの非常識である。憲法九条の制約を形式的に守るためにあらゆる詭弁、ごまかしが動員され、実質的には九条は無意味化している。また、法律の名前が示すとおり、特別な暫定措置が繰り返され、日本という国がポスト冷戦時代の安全保障にどう対処するかという問いに対して、何の理念や原則も持っていないことが反映されている。暫定措置の積み重ねによっても、九条は無意味化している。

 国会では、民主党がイラク新法にどう対応するかが焦点となっている。民主党が立憲主義、法治主義を尊重するならば、こんな杜撰な法案には反対を貫き、廃案に追い込むべきである。そこには、およそ修正の余地などないはずである。

 おりしも、若手の国会議員が専守防衛を見直すべきだと声を上げた。もはや、事は国会議員だけに任せるにはあまりに重大過ぎる。政府、自民党はこの際、憲法九条をどうするかについて、改正案を提示し、国民の判断を仰ぐべきである。

 憲法改正にはリスクが伴う。政府・与党が改憲を提起し、国民投票で敗れたならば、それは国民による内閣不信任を意味するからである。したがって、政府・与党にとっては憲法改正を政治的玩具としながら、立法によって憲法の中身を実質的に作り替えることが最も好ましい状態となる。しかし、そんな状態が恒常化すれば、日本は立憲国家ではなくなる。日ごろ日本人の誇りにうるさい政治家は、日本という国が理念や哲学を欠き、つぎはぎだらけのみっともない姿をさらすことをどうして許せるのだろうか。口先だけで改憲を唱え、つぎはぎの法律によって憲法を掘り崩すというのは、姑息で卑怯なやり方である。

(週刊東洋経済2003年7月5日)