通常国会の終盤で、民主党と自由党の合併が発表され、秋にも予想される解散、総選挙に向けて与野党対決ムードが高まってきた。非自民の受け皿がまとまって、総選挙で国民がはっきりと政権の選択ができるようになることは、とりあえず歓迎すべきである。しかし、両党の提携が落ち目の銀行同士の合併に終わらないためには、いくつもの条件がある。政策については別の機会に論じたので、ここでは政策以前の政治姿勢、あるいは政治家の資質について考えてみたい。
もうすぐ八月一五日を迎える。日本人があの戦争から学ぶべき教訓は数多いが、とりわけ政治家にとっては次の二つのことが重要だと私は思う。第一は、政治家は常に結果を冷静に予測し、根拠のない楽観やその場の空気に流されてはならないということである。言い換えれば、政治家は結果に対して責任をとるということでもある。威勢のよい軍人やメディアに踊らされて後先を考えずに政策を決定するのは、政治家として最も恥ずべき行為である。
第二は、国家権力が国民の生命や自由を左右することに対する畏れを持つということである。日本帝国は多くの国民を動員し、死に至らしめたり、塗炭の苦しみをなめさせたりした。その根拠となった八紘一宇だの国体の精華だのといったスローガンは、すべて虚構であった。為政者が国のために国民の貢献を求めることがあり得ることを、私は否定しない。しかし、権力を使って国民に犠牲や苦難を強いることについて、政治家はどんなに慎重になっても、慎重になりすぎることはない。
その点で、小泉首相は歴史から何も学んでいない。イラク派遣新法の国会審議における彼の無責任さは、常軌を逸していた。米英軍による戦争が大義のないものであったことは明らかである。今イラクに自衛隊を派遣したら、どんな結果になるか想像するだけの知性も彼にはない。虚構のスローガンに踊らされることは、政治指導者にとって最大の悪徳である。また彼は、自衛隊は安全な場所にしか派遣しないといっていたが、どこが危険でどこが安全かは分からないと言い放った。小泉首相は、戦争末期に犠牲となった特攻隊員に深い思い入れを持っているそうである。しかし、彼自身も、無益な戦をずるずると続けて多くの若者を玉砕攻撃によって死地に追いやった愚かな指導者のように、今まさになろうとしていることを自覚すべきである。
野党の結集により、総選挙において国民が小泉政権の是非を問う選択の機会を持つことは有意義である。問題は、小泉政治を否定する側が、政治家としての見識、人間としての良識において小泉政治を否定できるかどうかである。民主党の菅直人代表が小泉首相よりも指導者として信頼できるというイメージを国民に与えることも必要だが、それだけで民主党が勝てるわけではない。それぞれの選挙区で支持を訴える民主党の候補者が、信頼できる賢明な政治家かどうかを有権者は注視している。そこで必要になるのが、政党による政治家の品質管理である。
通常国会の後半では、レイプ発言、創氏改名の正当化など、閣僚や自民党の幹部による放言、暴言が相次いだ。しかし、彼らは世間を騒がせた不適切さをわびただけで、発言そのものについて謝罪、撤回したわけではない。まさに、自民党は愚者の楽園となった感がある。気がかりなのは、民主党、自由党の中にもこの種の暴言に同調する政治家がいるのではないかという点である。
菅代表は、政策に関して民主党の結束を図ると叫んでいる。しかし、政策以前に、歴史に対する反省、人間の尊厳に対する敬意など、政治家として最も基本的な価値観に関して、政党は最低限の結束を図らなければならない。価値観を共有しない者は、同じ政党にいることを許さないという強いリーダーシップが必要である。この点で、賢明さや品格を失った自民党に対して民主党が差異を打ち出せることを期待している。
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