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朝日新聞論説委員 薬師寺克行
北海道大学大学院法学研究科教授 山口 二郎
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はじめに
思い返せば、十年前の夏は、息をつく間のないほどの劇的な政治ドラマの連続の日々だった。自民党内の造反で宮沢内閣に対する不信任案が可決され、衆院の解散総選挙となった。それが起爆剤となって、自民党議員が相次いで集団離党し、新党さきがけ、新生党を結成した。総選挙では自民党が敗北し、非自民の細川連立政権が誕生した。三十八年に及んだ自民党単独政権時代の終わりだった。
あれから十年たったいま、日本の政治は確実に劣化を続けている。政治改革や行政改革が唱えられ、選挙制度や中央行政機構は変わった。しかし、政治や行政の中身はほとんど変わっていない。変わっていないどころか、国の基本的針路に関わる問題について、政府・与党が言葉のトリックを弄して、なし崩しに方向転換を図る様を見れば、日本の議会政治はますます形骸化しているとさえ言える。
もちろん、悔恨や絶望に浸るだけでは、何も解決しない。自民党、野党の双方が抱えている矛盾を観察し、それぞれの問題点を直視することによって、日本政治の閉塞状況を打破する鍵を見つけることが、本稿のねらいである。一見盤石の権力を支えている政党が、様々な矛盾を抱え込み、やせ細った姿をさらけ出すに至ったことは、この十年が日本政治に関して、学習と経過観察の期間として意味を持っていたということなのかもしれない。
1 自民党の変質:政権維持のための新たなる二重権力構図
自民党が初めて野党になったとき、だれもが当分、自民党が政権に復帰することはないだろうと考えた。政権交代の結果、自民党が作り上げたスキャンダルにまみれた政治文化が変わるであろうとも期待した。
残念ながらそれは実現しなかった。政治改革の意欲に燃えて自民党を飛び出した議員のうち、少なからぬ者が数年の内に復党した。野党自民党はわずか一年足らずで終わり、あっさりと政権に復帰し、他党や国民を巧みに利用して、なりふり構わず権力の座にしがみついた。政権維持を目的とする自民党政治は、以前にも増して現状維持、利益誘導に徹した。その結果、政治は明らかに十年前よりひどくなったと言わざるを得ない。
自民党はこれからも政権を維持し、第二期長期政権時代を築くのであろうか。はっきり言えることは、この十年間で自民党は明らかに衰退していることだ。それはいくつかのデータで示すことができる。
○自民党は衰退した
まず、自民党支持層が減った。朝日新聞の世論調査では、七〇年代や八〇年代の自民党支持率はしばしば40%を超えていた。しかし、最近は三〇%前後で固定している。
それは総選挙の選挙結果にも表れている。当日有権者数に占める自民党候補者の得票の割合である絶対得票率を見ると、九〇年代に入って急激に低下した。八〇年代末までは三〇%以上を維持していた。それが一気に二〇%代前半に落ち込んだ。特に小選挙区比例代表並立制での比例代表は二度とも一〇%台である。
自民党を長年にわたって支えてきたのは議員個人の後援会と各種業界団体だった。その支持団体の組織力の衰退が二〇〇一年七月の参院選で明らかになった。自民党は業界団体の集票力を活用するため、公職選挙法を改正し非拘束名簿式を導入した。個人名か政党名のいずれかを記入し、得票に応じて政党に議席配分した後、個人得票の多い順に当選者を決める仕組みだ。これだと団体が競って選挙運動を展開するだろうと見込んでのことだった。かつて、参院選の全国区で郵政、農業、建設業などの団体が推す候補者は百万票以上を獲得していた。ところがその再現はならなかった。業界団体候補は最高で約四十八万票、ほとんどが十万から二十万票止まりだった。業界団体が動けば大量の組織票が得られるという時代は終わっていたのだった。
そして今、自民党が抱えている新たな問題は新たな人材が集まらなくなったことだ。衆院に導入された小選挙区制はもともと現職が有利と言われている。二〇〇〇年六月の総選挙で、自民党の小選挙区の当選者は百七十七人だったが、うち新顔は十九人、一割にも満たなかった。しかも七人は世襲だった。
中選挙区時代、政治家を志す者は党の公認が得られなくても無所属で立候補し、当選後自民党に入っていた。選挙制度が新陳代謝を可能にしていた面があった。ところが小選挙区制になると現職がなかなか引退しない。引退しても、新たな人材発掘には極めて消極的で、多くの場合世襲候補をたてる。次期総選挙に向けての動きも、この傾向は変わっていない。その結果、新たな人材は民主党に流れている。
では、支持率が低下し、支持組織が弱体化し、新たな人材が集まらない自民党が、なぜ、国会で多数の議席を占め、政権を維持し続けているのか。それは、衰えたところを公明党との選挙協力が補い、低投票率が救っているからである。
二〇〇〇年の総選挙で自民党は連立相手の公明党と初めて選挙協力を実現した。その結果、小選挙区で自民党候補が獲得した票は約二千五百万票、これに対し比例代表は千七百万票だった。約八百万票という大きな差が生まれたのは、小選挙区で公明党支持層が自民党候補に投票したためだ。この票がなければ自民党は多くの選挙区で民主党に敗れていただろう。
一方、総選挙の投票率は八〇年代までは七〇%を超えていたが、過去二回の総選挙は六〇%前後に低下した。投票率一〇%は約千万票にあたる。これだけの票が野党に回らず、森喜朗元首相が望んだように、「家で寝ていた」のであるから、自民党にとってはありがたいことだった。
○反改革政党
では、自民党がこの十年間、政策面では何をしてきたか、振り返ってみよう。
政権復帰後、最初の連立相手は社会党と新党さきがけだった。野党転落の傷の残る自民党はパートナーを尊重する謙虚な姿勢を見せた。村山富市首相の成果は、社会党が主張した被爆者援護法制定や水俣病問題の未認定患者救済問題の決着、戦前の植民地支配や侵略行為を明確に謝罪した戦後五十年の首相談話など、長年の懸案の決算が目立った。
そして、橋本龍太郎首相が誕生し、名実ともに自民党が政権に復帰すると、財政再建や中央省庁再編と言う大仕事に手を付けた。これだけみると、自民党は反省し変身したかのようだった。しかし、一九九八年の参院選で大敗すると、自民党は元の姿に戻った。
小渕恵三、森喜朗と続いた政権は、橋本の打ち出した財政再建路線を国民の支持を得られなかったとして、あっさりと放棄し、旧来型の積極的な財政出動による景気回復を目指した。国民に新たな負担を求める政策や痛みを伴う改革派は先送りし、膨大な赤字国債を発行し続けることで、国民の不満を抑えるという昔ながらの政策を続けた。その結果、九〇年代初めに三百兆円余りだった国と地方の長期累積債務は二〇〇三年度末に約七百兆円に膨れあがった。
自民党が長期的視点で国家財政を考えず、目先の利益をばらまき続ける政策を採るのは、自民党が国民全体を代表する包括的な政党であることを放棄し、特定の階層のみを相手する部分代表の政党と化したからである。自民党が目を向けるのは、衰弱したとはいえ今も強く自民党を支持する農業や建設業など特定の業界、あるいは地方を中心とする伝統的自民党支持層であり、それ以外は視野に入らない。
これらの支持層の多くは、国際競争力とは無縁の生産性の低い産業に属し、長期化する日本経済の低迷の中で最も苦しんでいる。財政や政策の両面で国家の支援がなければ維持することが困難な産業である。自民党は地方重視、弱者救済などを名目にこうした支持層を守ってきた。
自民党が衰弱しつつある党の支持層を拡大するには、本来は今の政治に飽き足らない無党派層を取り込まなければならない。しかし、自民党にそうした動きはない。無党派層はそのときのムードで投票し、安定した支持者になりにくいと見ている。そればかりか伝統的自民党支持層とこの無党派層は多くの面で利害が対立する。無党派層の多くは都市住民であり、特定産業を保護する自民党の政策に批判的だ。自民党が支持層を拡大しようとすれば、必然的に内部に矛盾や対立を抱え込むことになる。投票にいくかいかないか分からない無党派層を相手するよりは、今まで通りの政策を継続して確実な支持層をつなぎ留める方が効率的であると考えているのである。
特定の支持層だけを相手して部分代表に徹するという意味では、連立の相手である公明党も全く同じだ。八百万世帯ともいわれる創価学会は公明党にとって強固な支持組織である。自ずと学会員を強く意識した政策を追求する。自民党と公明党はその意味で極めて似た体質の政党であり、安定的な連立政権を維持できている理由もそこにあると言えよう。
その結果、出てくるのは長期政権時代以上の利益誘導政策である。小渕、森政権での政策は政権維持を目的とする懸案先送りやばらまき政策ばかりだった。ペイオフ解禁の一年延期、介護保険料徴収の半年間延期、公明党が求めた七千億円の地域振興券など、目先の評判を気にした小手先の政策が目立った。経済のグローバル化とともに、伝統的な自民支持層は打撃を被り、そのことは損失補填のための利権政治の活動領域を広げたのである。
○新たな二重権力構造
特定の支持層への利益誘導が自民党政治である限り、遠からず国民の反乱を招き党全体が否定されることは避けられない。権力維持に長けた自民党はもちろん、それに気づいている。
「改革なくして成長なし」をキャッチフレーズに登場した小泉純一郎首相は、自民党の破壊者として国民の期待を集めた。確かに、小泉首相自信が言うとおり、道路公団や郵政三事業の民営化問題、各種規制改革などは彼でなければ手が付けられなかったであろう。しかし、ここで注意しなければならないことは、本人の意図とは別に小泉首相がこれまで果たした役割と、これから果たすであろう役割が、自民党政権維持への貢献であるということだ。
小泉首相は「改革」に関する自らの実績をしばしば自画自賛する。しかし、大きな課題で現実に実現した改革はほとんどない。道路公団や郵政三事業の民営化は、まだ途中であり、明確な方向性もでていない。就任当初はしばしば口にしていた道路特定財源の一般財源化は、さっぱり言わなくなった。抵抗勢力と呼ばれる自民党内の族議員らの反対、それに連なる官僚機構の抵抗で、多くが中途半端になっている。
その典型が、首相就任以来毎年、閣議決定している「経済財政運営の基本方針」(骨太の方針)だ。
基本方針を作る経済財政諮問会議は、首相が議長を務め、毎年の政府のマクロの経済政策と次年度の予算編成に向けた方針を六月ごろに決定する。小泉は担当閣僚に経済学者の竹中平蔵氏を起用し、自民党と相談することなく、方針を決定する姿勢を打ち出した。自民党族議員や官僚から政策決定の主導権を奪うことが目的だった。
最初の年こそ、小泉首相の威勢は良かった。首相官邸から各省庁の官僚に、骨太方針に関して官僚が与党議員と接触するなという禁止令がでた。そして、不良債権処理や公共事業の削減など、自民党が反発する内容を盛り込んで閣議決定できた。
この年、小泉首相が強くでることができたのは、首相に就任したばかりで、世論の支持が高く勢いがあったためだ。また、直後に参院選を控えていたため、党側は選挙を意識すれば国民の反発を買うような行動にでにくかったという面もあった。
ところが、二年目になると空気が変わった。小泉首相は年初から「シャウプ勧告以来の大改革をやる」と、税制改正に意欲を見せていた。ところが諮問会議主導の改正に、自民党税調や財務省が強く反発したため、骨太方針には検討項目が列挙されただけで、ほとんど意味のある内容は盛り込めなかった。そして、三年目の今年は、注目された地方自治体への補助金の削減、地方交付税の見直し、税源の地方への委譲という「三位一体」の見直しは、具体的な項目の決定がすべて年末に先送りされた。自民党側は「勝負は予算編成の時」という構えだ。一年目には「党の意見を聞かないのでは、ファッショだ」「首相に人気があるからと言って、何でもトップダウンで決めていいというわけではない」など、党側の警戒感や批判が非常に強かった。三年たつと、こうした空気はなくなった。
小泉と自民党が対立する構図は、政権発足時から少しも変わっていない。しかし、その力関係は明らかに変わった。「改革を着実に実現している」といくら小泉首相が強調しても、自民党や官僚の抵抗でとても順調に進んでいるとは言えない。問題はこの構図の持つ政治的意味である。
自民党はこれまでしばしば政権を維持するため、党内での政治力はないが国民の支持を得る政治家を首相に飾り、危機を乗り越えようとしてきた。リクルートスキャンダルの時の宇野宗佑首相や海部俊樹首相らだ。首相は表の顔で、その人気で国政選挙を乗り切る。しかし、主要な人事や政策は別の実力者が握る「二重権力構図」だ。この二重権力構図では、首相が党と対立することはなく、その意に添った行動をする。
では、小泉政権はどうか。首相と党は対立関係にある。議院内閣制では想定していない状態だ。本来なら、小泉首相は党を飛び出して同志とともに新党を作り解散・総選挙に打って出るべきであろう。また、自民党の多数が総裁の方針を気に入らないというのなら、総裁選挙で対立候補を出して交代させるべきだ。ところが、この対立は双方にメリットがある。首相は利益誘導政治を追求する自民党と対決しているのだという印象を、国民が持てば持つほど、首相の支持率が上がる。支持率が上がれば、ますます声高に改革を強調できる。
一方、自民党は実を取る。首相と対立して軌道修正させる。改革の実施を先送りさせる。骨抜きにする。こんなことを繰り返していれば、国民の批判をあびることは間違いない。ところが、彼らの強固な支持基盤には「首相がいくら改革、改革といっても、実現しない」と、逆に安心感を与える。
小泉政権というのは、本来、一体であるべき首相と与党が対立している、頭と胴体が別な生き物なのだ。そして、国民はそれぞれ自分たちにとって都合のいい方を見ている。首相の改革に期待を寄せる人は、その足元で改革をつぶしている自民党の力を小さくみる。逆に自民党のばらまき政治を期待する人は、高らかに改革を叫ぶ首相が弱体であり抵抗勢力が押し切るだろうとみている。結果として、多くの国民が「政府・自民党」のいずれかを支持することになりかねない。この新たな二重権力構図こそ、自民党の生み出した政権延命装置にほかならない。
○改革の偽装に気づく必要
自民党は秋に総裁選を迎える。そして、遅くとも来年夏までに総選挙がある。小泉首相に代わる延命装置が見いだせない限り自民党は総裁に小泉首相を再び総裁に選び、総選挙に臨むであろう。小泉首相は引き続き「改革」を叫び続けるだろう。それにどれだけ実体が伴うかはこれからが正念場だ。一方、自民党は小泉首相を党の「顔」として利用しながら、抵抗を続けるだろう。そうしなければ彼らの支持者らは確実に離れていく。同じ構図は二〇〇一年の参院選でもあった。当選者の多くが小泉改革に批判的な抵抗勢力であるにもかかわらず、自民党は圧勝した。今、自民党は同じ事を次の総選挙でも狙っている。
自民党単独政権崩壊から十年、自民党の体質は何ら変わるところなく、むしろ、以前に増して政権に執着し、選挙に勝つため、目先の利益をばらまくようになった。野党暮らしの教訓は、「いかなる手を使ってもいい。とにかく二度と政権を失ってはならない」というものであった。その結果生み出したのが「新たな二重権力構図」という巧妙な手口だ。
大きく変わる国際情勢や、厳しさが続く経済環境を前に、時代の変化に目をつむり、国政を担うことについての責任感も乏しいまま、政権維持に没頭する自民党。歴史は自民党に野党転落という教育の場を与えたにもかかわらず、結果的に自民党はその経験を生かせず、かつて以上に堕落したとしか言いようがない。
2 野党はなぜ無力なままか
この十年を、日本政治にとっての失われた十年と呼ぶならば、その喪失感の最大の理由は、自民党に取って代われる対抗政党が形成されていないことにある。以下、本論では、潜在的な政権政党を対抗政党と呼び、単なる少数党を野党と呼ぶ。政府・与党に対する抵抗力、追及能力という点では、五五年体制時代の万年野党、社会党の方がはるかに存在感をもっていた。政権交代可能な政党システムの構築は、九〇年代の政治改革の大きな目標であったにもかかわらず、なぜ野党は対抗政党へ育たなかったのであろうか。
○五五年体制下の野党
まず、五五年体制下における野党の特徴について、簡単にまとめておきたい。五五年体制時代の与野党間の対立は、基本的に冷戦構造を下敷きにしていた。保守と革新の対立は、最後には護憲対改憲、資本主義対社会主義という体制選択に行き着いた。自民党政権にも何度か危機はあったが、自民党は体制選択論を持ち出すことによって政権交代を防ぐことができた。経済・社会政策という日常的課題をめぐって、異なる政党が競争するという仕組みは、この時代にはまだ形成されていなかった。
このように、五五年体制は自民党による一党支配を前提としたものであり、その中における野党の役割は、政府・与党に対する抵抗とチェックに求められた。野党が自らにとっての最大の任務と考えた憲法改正の阻止のためには、国会で三分の一の議席を確保すれば足りた。別の面から見れば、野党はつねに少数であることを前提として、政府・与党に対して批判を加えることで自足していたということでもある。特に憲法、安全保障問題に関して野党はかなりの国民の支持を集めることができ、院外での運動を組織することもできた。こうした野党の力が、政府・与党に一定の緊張感を与えたことも事実である。
○再編成の課題に応えられなかった野党
五五年体制という固定化された政党システムは、一九九〇年代に入って、急速に動揺した。一九八九年から九〇年にかけての社会党躍進に示されたように、九〇年前後野党は大きな好機を迎えたのである。では、なぜそのような好機を生かせなかったのであろうか。もちろん、九四年の細川政権崩壊後の自社連立に象徴されるような政局のレベルでの戦術的失敗もあった。しかし、仮に野党の中に政界での離合集散を泳ぎ切る策士がいたとしても、政党の形が多少変わっただけで、政党自体の統治能力の喪失という病状はさほど変わっていなかったのではなかろうか。より重要な問題は、九〇年代の日本が直面した内外の課題に対して、野党がなぜ明確な理念と具体的な政策を持ち得なかったのかという点である。
第1は、バブル崩壊以後の経済構造の変化に対する不適応である。この点は、戦後の自民党政権が構築した日本的疑似社会民主主義をいかに克服するかという問いと言い換えることもできる。市場メカニズムを重視するエコノミストや財界人は、しばしば日本の社会経済体制を成功した社会民主主義と称する。その種の議論においては、戦後の日本が地域間格差の是正や相対的に平等な所得分配を実現したこと、あるいは一時期国民の九割が自らを中流と考える平準化された社会を実現したことを指して、社会民主主義という言葉が使われる。地方重視の公共事業、地方交付税や補助金など財源の再配分、企業による従業員へのさまざまな福祉事業などがこうした平準化をもたらした。そして、九〇年代に入って、バブル崩壊以後の財政の悪化、経済のグローバル化と競争原理の浸透、それに伴う日本的経営の崩壊など、日本的平等を支えた条件が急速に崩れていった。行政による利益配分や利害調整がルールに基づかない不透明なものであったことが、政治や官僚制の腐敗をもたらしたことも、旧来のシステムに対する批判を招いた。
九〇年代の政策課題は、そうした環境変化に対応して、日本の社会経済システムをどのように変えるかという点にあった。一つの処方箋は、現在の小泉政権が象徴しているように、市場原理の徹底によって構造改革を進めるというものである。もちろん、こうした選択肢が政党間の競争の中で国民に提示されることは、よいことである。しかし、問題は新自由主義的アプローチが唯一の構造改革と自明視され、他の選択肢を提示する政党が存在しないことである。
日本的平等は所詮、疑似社会民主主義の所産でしかない。何より、日本では経済規模との対比における社会保障支出は西欧諸国よりもはるかに低い。また、官僚による不透明な利益配分は、社会民主主義とは無縁である。行き詰った日本の社会経済システムを改革するというとき、疑似社会民主主義を公平で透明な真の社会民主主義に転換するというアプローチがあってもよいはずである。もちろん、その作業は単に税金と福祉支出を増やすという大きな政府の路線であってはならない。市民社会の活力を引き出しながら効率的な福祉国家を実現することは、雇用や老後の生活不安におびえる多くの働く日本人が求めているはずである。この点で、野党の政策的怠慢は深刻である。
第二は、冷戦構造の崩壊への不適応である。冷戦時代の野党は、憲法擁護を唱え、日本がアメリカの軍事戦略にコミットすることを批判するだけでよかった。しかし、冷戦終焉後は、新たに発生した地域紛争やテロにいかに対処し、平和に貢献するか、さらに唯一の超大国となったアメリカの世界戦略にどう対応するかという難問に直面した。とくに、明白な侵略や殺戮などの紛争においては、権力犯罪を認定できる場合がある。この点は、アメリカもソ連もどっちもどっちという相対主義的な立場を取れた冷戦時代と異なっている。その場合、侵略や殺戮を止めるために話し合いは無力で、軍事力を行使することを国際社会が是認することもある。平和憲法を掲げる日本がこうした事態にどう対処するかということは、未経験の課題である。
アメリカはテロとの戦い、大量破壊兵器開発の抑止など一見普遍的なシンボルを掲げながら、自国の権益を追求している。そして、日本政府はアメリカに追随するばかりで、日米安保体制は日本を防衛するための仕組みから、アメリカの世界戦略を支えるための土台へと変質している。その中で、自衛隊はアメリカの軍事行動の構成要素に組み込まれ、憲法九条は実質的に無視されている。国民の選択の機会がないまま、対米軍事協力がパッチワークのように拡大されていき、日本の平和主義が放棄されているのである。
安全保障に関しても、アメリカへの一体化以外の選択肢を提示する政党は存在しない。安保・外交政策に関して野党ができることはほとんどない。その意味で選択肢の提示は、当面議論のレベルで終わるものでしかない。しかし、日本の進路は開かれたものであり、議論の積み重ねによって現実の選択の幅は広がるはずである。いまイラク戦争とその後の同地域の不安定に示されるように、アメリカによる一極主義的行動が国際正義に反し、国際秩序を不安定にさせている。一方で伝統的な護憲論を抜け出し、自衛隊を使いこなしながら国際平和に貢献するという方策を描き、他方で独善的なアメリカと距離を置くという高度な戦略の構築が、対抗政党の課題である。
非自民勢力がこのような意味での選択肢を提起できないのは、自民−非自民の両方が背中合わせの構造になっていることに原因がある。かつての新進党も、現在の民主党も同じ失敗を犯している。どちらの政党も、「自民党ではない」という否定形のアイデンティティしか共有していない。どちらの党にも、新自由主義と社会民主主義、対米追随と自主外交の路線が混在しており、政党が全体として、具体的な政策のパッケージを追求するというイメージを持ちえていない。
自民党が政策に関してきわめていい加減な雑居政党である以上、これに対抗する政党も難題に直面する。政策本位の政党政治を実現するためには、自民党を野党に追い込み、解体することが出発点となる。そのためには、非自民が結集して多数をとることが必要となる。新進党も民主党もこの論理に基づいて、質よりも量を追求した。しかし、最大野党において常に党内融和が最大の課題になってきたことに示されたように、野党として量を追求しても、政権交代の現実感は生み出せない。野党はいかにしてこの隘路を打開し、大綱政党へと発展していけばよいのであろうか。
○対抗政党のビジョン
対抗政党の戦い方を考える際、まずこれからの政党政治のイメージを整理しておきたい。政党政治のイメージとして、妥協合意型と権力信託型の二つが考えられる。妥協合意型とは、与野党が妥協しながら政策形成を行い、合意に基づいて政権を運営するというスタイルである。五五年体制下の社会党は、内政の多くの政策に関して、このスタイルで政治を運営していた。この場合、野党の役割は、既存の政治を転換するというよりも、政府・与党に自らの主張を最大限反映させる点に求められる。権力信託型とは、総選挙において国民がある政党(または政党連合)に多数を与えることで権力を預け、その政党が政権を構成して、選挙の際に国民に約束した政策を最大限実現するというスタイルである。最近注目を集めているマニフェストは、そのような国民に対して公約された政策体系である。この場合、対抗政党の役割は、政府・与党から妥協を引き出すことではなく、政府・与党を批判し、次の総選挙に向けて政府の問題点と自党の比較優位を国民に訴えることである。
この二つのモデルは、どちらが正しいという性格のものではない。政党政治のおかれた環境、国民の志向に応じて選ばれるべきである。そして、今の日本の閉塞を打開するためには、国民が選挙において一つの政策体系を選び、政府・与党がそれを果敢に実行するというモデルが必要とされている。マニフェストに対する国民の期待も、そうした理由によるものであろう。
だとすれば、民主党その他の野党が対抗政党になるための道筋は、明らかであろう。対抗政党にとっての政権担当能力とは、政府・与党の政策に対して「建設的」な対案をぶつけたり、自らの主張を政府の政策に反映させたりすることではない。自分たちが政権をとったときに、日本の針路をどのように修正し、社会経済システムをどのように転換するかを具体的に論じ、大きな枠組みを示すことこそ、対抗政党が持つべき政権担当能力である。そして、日々の国会論戦を通じて、政府・与党の政策の矛盾や欠陥を追及し続けることが求められる。
自民党に対抗するには数が必要である。しかし、自民党と同じような烏合の衆では、政権交代は起こせない。価値観から始めて政策の体系に関して確固とした合意を作り、政党のイメージが政策のイメージと結びつくようにすることこそ、野党が対抗政党に発展するための条件である。
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