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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
総選挙で問われるもの
山口 二郎
 
 

 衆議院総選挙の選挙戦が事実上始まり、今回の選挙の意味づけをめぐる論争が華やかである。選挙制度改革後、初めて政権のあり方を本格的に問う選挙となったことは、日本の政党政治にとっての一歩前進だと評価したい。また、民主党は政権交代を起こす必要性に関して国民を説得するために、マニフェスト(政権構想)を発表し、民主党公認候補はほとんどこれに賛同するという手続きを踏んだ。政策本位の政党間競争の重要性を叫んできた者としては、これも画期的な変化だと評価しておきたい。マニフェストを配付できるようにするため、公職選挙法が改正されたことを見ても、日本の政治は確かに変わりつつあると感じる。総選挙においては、次の政権のあり方が問われるのであり、政党というものは総理候補と政策のパッケージを国民に示す義務があるという常識が、これから日本に根付いていくことを期待したい。

 その上で、各党のマニフェストについて考えてみたい。まず、民主党について見れば、選挙のあるべき姿について民主党が主張してきたことは、手続論としては正しい。しかし、手続論では国民を動かし、政権交代を起こすところまでは行かないというのが、民主党のマニフェストを読んだ時の感想である。言い換えれば、小泉政権を倒した上で、どのような日本を作るのかというメッセージが伝わってこないところに、民主党のマニフェストの弱点がある。できのよい生徒が、先生から出された課題について、目一杯いろいろな資料を調べ、論点を網羅したレポートを書いたようなものである。それもそのはず、民主党のマニフェストを書いたのは、元官僚を中心とする若手議員である。個別の政策課題に関しては、彼らには言いたいことがあり、新しい政策を作ることについては今までの政治家よりもはるかに有能である。しかし、各論をつなぐ全体像が見えてこないのが、不満である。

 小泉政権の場合、政策の各論は明確ではないし、りそな銀行の処理の時のように、普段言っていることと食い違うインチキをすることもある。しかし、公共サービスの削減、有能な人間に対するインセンティブの重視、さまざまな分野における競争原理の浸透などをつなぎ合わせれば、この政権が目指すこれからの日本社会のイメージは浮かび上がってくる。グローバル化に棹差して生き抜く能力を持つ人々がこれを支持するのは自然なことであるが、問題はそうした路線に不安を感じている人々も、他の選択肢を見つけられないままこの政権を支持している点にある。対米追随を正当化する際に小泉首相が示した「他にやりようはない」という開き直りが、国内政策についても発揮されている感がある。そうでなければ、政策に対する評価は低いのに、政権の支持率だけは高いという今の現象を説明できない。

 郵政事業と道路公団の民営化が首相の最大公約になるという現状こそ、日本の政治の貧困を物語っている。郵政事業の何が問題で、民営化がいかなる効果をもたらすかについて、首相は具体的に説明したことはない。結局、この政権は日本社会をよりよくするために一定の理念に基づいて政策を積み上げていくという発想を持っていない。だからこそ、りそな銀行を政府丸抱えで救済する一方、郵貯の民営化を主張するなどという荒唐無稽なことを平然と行う。民営化とは所詮、手段に過ぎない。手段が一人歩きし、目標を示せないところにこそ、小泉政治の貧困が現れている。

 話を民主党に戻すならば、今この党には、小泉政権と同じことをより上手にできるという規定演技型の競争をするのか、小泉政権とは異なったことに取り組むという自由演技型の競争をするのかというアイデンティティが問われている。道路公団の民営化か、高速道路の無料化かといった争点の設定は、規定演技型の競争である。高速道路を無料化するとは言っても、道路公団の債務を国民が負担することには違いないわけで、この争点は高速道路のコストを誰がどのようにかぶるかという限られた土俵の上での話である。政権をとった後の現実的な政策運営を考えれば、規定演技の面における準備が必要であることも、否定できない。世の中、一瀉千里に変えられるものではないし、前政権の遺産を引き継いで政策作りを始めなければならないのだから、バラ色の夢を振りまくことは無責任ということもできるだろう。今の民主党の若手には、政権交代の前から、政権獲得後のさまざまな実務について思いをめぐらせているという感がある。

しかし、規定演技の競争というのは見る側にとって面白いものではない。とりわけ、年金や雇用など国民の多くが不安を持っている制度や政策に関し、早急に根本的な改革が必要とされている現状においては、改革の土台となる基本的な価値観を打ち出すことこそ政党の使命である。政策の実務にいくら通じていても、その種の価値観を国民に対して説得できないような政党は、政権担当能力を持たないのである。

民主党は官僚支配からの脱却を叫んできた。しかし、この党の持論である事務次官会議の廃止や行政府における政治任用の拡大といった外形の話は、決して政治主導を実現するための決め手にはならない。政党、政治家が明確な価値観を持ち、それを政策形成の土台に据えるという意思を持たなければ、形の上で政治任用が増えても、官僚支配は続くであろう。実際、今までの日本の政策形成においては、たとえば租税・社会保険料の国民負担率が五〇%を超えるべきではないなどと、政策の前提となる価値観の部分を役所付属の審議会が、つまりそれらを実質的にコントロールする官僚が決めてきた。それこそ官僚支配の最大の悪弊である。

国民がどのような社会に暮らすのか、そのためにどのようなコストを払うのかは、国民自身が選択すべきである。ある程度負担を増やしても安心できる社会に生きるのか、公的部門を極小化して、個人個人がばらばらに生きるのかが問われている。そして、選挙こそそのような選択の機会となるべきである。

政党の務めは、それぞれが明確な価値観を持ち、国民の選択を仰ぐことである。公共的なるものを破壊することが改革であると錯覚している小泉政権に対して、民主党が差異化を図りたいのならば、とるべき位置づけははっきりしている。今後の選挙戦の中で、民主党がどこまでその価値観を国民に伝えられるか、注目したい。

(週刊東洋経済2003年10月25日号)