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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
法科大学院と法曹教育への危惧
山口 二郎
 
 

1 ロースクール設置をめぐる混乱  理念の不明確な制度設計

 目下、来年春からの法科大学院の開校に向けて、多くの大学で準備が進められている。新しい制度を始める際の過渡期には、さまざまな混乱がつき物ではある。しかし、現在の法科大学院をめぐる混乱は、自然発生的な摩擦というよりも、制度設計段階における失敗に起因するものではないかという危惧を感じざるを得ない。法科大学院は、単に法学分野のみならず日本の大学(院)における専門教育の先行モデルとして大きな意味をもというとしている。したがって、その制度設計に関わる問題点を今の段階で検証することは、実践志向的大学院教育にとって、重要な意味を持っている。

 また筆者は一九九〇年代に日本で起こった政治改革や行政改革の過程について、観察、分析してきた。それらの改革との関連において司法制度改革についても関心を持っているつもりである。そして残念なことに、華々しい掛け声とは裏腹の理念なき制度変更という、九〇年代の政治、行政改革で起こったことが、司法制度改革、少なくとも法曹教育の改革においても繰り返されつつあるという憂慮を抱く。実りある改革のためには、制度変更の結果を常にフィードバックして、常に制度を改良するという姿勢が必要である。その意味で、来年から新しい制度が始まるというこの時期に、法曹教育のあるべき姿を論じることは決して無意味ではないと思う。

 そもそも司法制度改革は、日本の経済社会における官僚による事前規制を排し、司法機関による透明で公正な事後的紛争解決を強化するという理念を重要な柱にしていたはずである。だとすれば、法科大学院の設立過程においても、この理念は尊重されるべきである。しかし、法科大学院に対する文部科学省の設置審議会による審査は、旧態依然たるものであった。設置審議会の審査でも特に混乱を招いたのは、教員の資格審査であった。多くの大学院に関して、研究者としての業績のない者は不適格と判定され、法科大学院での教育を担当することができなくなった。この時期に教員構成の変更を迫られることの混乱は、想像に余りある。

 もちろん、大学院の粗製濫造を防ぎ、一定の教育水準を確保するためには、事前のチェックは必要である。問題は、新しい法科大学院という制度の中でどのような教員が必要とされるのかという基準の定立と、その公開に関して、文部科学省が説明責任を果たしていたかどうかである。この点で、文部科学省は、自らの手中に大きな裁量を確保し、大学に対する影響力を振るうという従来の姿勢を継続したように思える。今回の教員資格審査の基準が、結果の公表の後に公開されたことは、その端的な現れである。この点は、『Causa』9号において阪本昌成教授が指摘していることに、筆者も賛成である。

 官僚制による行政が法の支配の理念を実現するためには、官僚制による政策執行が予測可能性を確保することがきわめて重要である。逆に言えば、官僚制が伝統的な支配力を維持するためには、権力の行使に関して予測不可能な状態を持続することが重要な意味を持つ。官僚制がどのように権力を行使し、どのような結果をもたらすかが不明であれば、利害関係者は官僚制の意向を忖度し、自主規制を行ったり、官僚制に取り入ってインフォーマルに予測の材料を得ようとしたりすることになる。これこそ、法の支配の対極にある官僚による恣意的支配である。透明で公正な法の支配を実現するための法曹教育改革において、こうした官僚支配の姿が露呈したのは皮肉である。

 話を法曹教育に戻すならば、新しい法曹養成において、従来のアカデミックな法学者と実務家とがどのような連携を行うべきか、実務家にはどのような能力、技量が必要とされるのかという根本の議論がどこまで行われたのであろうか。法科大学院における実務家による教育のために必要な資質、能力と、実務家の研究能力との間にどのような関係があるのだろうか。法科大学院における法曹教育の理念を再確認するためにも、今回の設置審による教員審査の過程を検証することが必要である。

2 法曹教育への危惧   新たな受験体制の強化

 法科大学院の準備作業を隣接領域から見ていると、今後の法曹教育については不安の種が尽きない。それをひとことで言えば、法学者たちが司法試験予備校の教育に没頭させられるということである。そもそも法曹教育の改革は、従来の司法試験があまりに知識偏重主義になり、予備校による受験教育が隆盛を極めたという批判から始まったものであった。そして、視野の広い優秀な人材を、プロセスとしての法曹教育によって養成するというのが、新しい法科大学院のうたい文句である。

 しかし、実際に起ころうとしていることは、法科大学院の準備で忙殺されている実定法学者には非礼な言い方であるが、大学院の予備校化と言ってもよい。これはもちろん、実定法学者の志が低いからではない。(もっとも、個人的には、法学部における人的、物的資源配分に関して、司法試験準備教育を優先する余り、他分野の研究、教育に対する低次元の攻撃を行う一部の主張によって、知的共同体としての法学部が荒廃していることを憂うる気持ちが強い。学問に対する敬意を失った者に立派な法曹教育ができるのかと疑念を呈したいところだが、そのことにはこれ以上立ち入らないこととする。)制度設計の出発点において、当初追求していた法曹養成の理念とは矛盾するような仕組みが導入されたことこそが、最大の問題である。

 同僚の吉田邦彦氏が、『Causa』9号において、アメリカのロースクールについて次のように書いている。

「Bar Exam の準備は、学生各自が試験前にやるべき知識の整理であって、ロースクールの教官がするほどの学問的なことではないとされるのが、こちらの常識であり、そのためのハウツーものとの役割分担が厳然とできている。そうでないと、そのトレードオフとして、ロースクール教官の本来の職分たる研究活動がおろそかになり、それこそロースクールの存立基盤を掘り崩してしまうという了解が暗黙の前提としてあるわけである。」

 法科大学院の実務で心身共にすり減っている教員がこれを読めば、何ときれい事を言っているのだと反発するであろう。しかし、吉田氏のこの指摘がきれい事で終わるということは、今回の司法試験改革が失敗しているということと同義である。司法試験を苛烈な競争試験ではなく、アメリカのバー・イグザミネーションのような法律学の基盤的知識を問うものにすることによって、法律家に必要な知識や見識を養うと同時に、プロセスとしての法曹養成を可能にしようというのが、そもそもの改革のねらいだったのではないのか。

 このまま法科大学院が発足すれば、最悪の場合大学一年生から法科大学院三年生まで、七プラスアルファ年間、司法試験のための受験教育が展開されることになる。筆者のように、実定法以外の科目を担当している者は、せめて大学一,二年段階で、論理的な思考能力や外国語の能力を鍛えるための基礎教育に力を入れようと思うのだが、筆者の所属する大学の場合、法科大学院発足後の法学部教育における基礎、教養の教育については明確な理念は示されていない。むしろ、早い段階から優秀な学生を、司法試験受験者予備軍に囲い込むという雰囲気すらある。

 こうした問題が発生しているのは、1.従来の法学部教育をそのままにして、大学院レベルで同じような実定法教育を上乗せし、学部と大学院との教育についての役割分担を明確にしなかったこと、2.多数の法科大学院の設置を認め、司法試験定員と法科大学院の学生定員との間に大きな差を設け、結局司法試験に競争試験としての性格を残したことという二つの理由による。言うまでもなく、アメリカの場合学部レベルでは人文社会科学を学んだ上で、ロースクールに進み、実定法教育を受ける。その意味で、学部と大学院とはそれぞれ明確な理念を持ち、独自の教育機能を担っている。また、先に引用した吉田氏のレポートにあるように、バー・イグザミネーションには競争試験という性格がなく、法曹資格者は実務の世界において激しい競争の中で評価、淘汰されていく。アメリカの仕組みとの比較において、日本の新司法試験制度はいかにも中途半端である。法科大学院に進学しながら、司法試験に合格できないまま大学院に滞留し、いずれ脱落する学生層のことを考えると、寒気がする。

 司法試験合格者数(合格率)が法科大学院の評価を決定する以上、教員が背に腹は代えられないとばかり、受験指導に精を出すことを誰も責めることはできない。責められるべきは、こうした理念不在の制度を構築した人々である。

筆者は、苛烈な競争試験または競争メカニズムなしに人材育成の仕組みを作れなどという夢想論を主張しているのではない。大学入試や公務員試験など、ポストやサービスの供給に上限が存在し、それをはるかに上回る希望者が存在すれば、必ず競争試験は必要になる。問題は、どのレベルで苛烈な競争試験を設定し、どのレベルでは試験の重圧から自由な、その意味で真に知的な発展を図る教育を行うかという制度設計にある。その点で、現在の制度設計においては、法科大学院の入試と司法試験という二つの試験が何の脈絡もないまま二段重ねになっており、さらに適性試験なるものまである。学生はその都度、試験勉強や競争を強いられる。競争試験の回数を増やした意図はどこにあるのだろうか。司法試験が競争試験である限り、法科大学院における教育が試験対策に傾斜することは誰にも止められない。

 もう1つは、競争から脱落する人に対して別の道を示すというケアの必要性である。大学入試であれば、大学の選択肢は多数存在し、第1希望でない大学に入っても本人の努力次第で次の機会を捉えられる。学部レベルでの司法試験、公務員試験であれば、試験に見切りをつけて別の職業に就くという機会がかなり開かれている。しかし、法科大学院の場合、これに進学しながら司法試験に合格しないということは、その学生にとってスティグマ(負の刻印)となり、法科大学院に進学したがゆえに、進学しないよりもかえって困難な状況に追い込まれる。人生の選択肢を限定した人間集団を対象に、競争試験を課すという発想はどこからくるのであろうか。

3 法曹教育と政策的発想

 理念不在の司法政権制度は、様々な弊害を露呈することが必至であり、今からその改革について論議をしても早すぎることはない。筆者の専門との関連で1つ提案しておきたいのは、裁判の政策形成という機能に着目した専門能力の育成である。近年、行政機関(まれに立法機関)の政策の不当性や、政策的不作為を争う裁判が注目を集めている。議会を通した働きかけや行政過程そのものへの住民参加と並んで、裁判は市民が政策形成をチェックしたり、政策課題を行政機関に対して提起したりするための重要な手段である。そして、ハンセン病訴訟、国立市のマンション訴訟、熊本県の川辺川ダムに関連した灌漑事業の無効訴訟など、最近の裁判所は市民的常識に照らして共感できる判決をしばしば下すようになった。行政訴訟において政府側に有利な判決ばかり出していた一時の裁判所とは、様変わりである。官僚制による行政の硬直化、腐敗など、多くの問題が九〇年代中頃に噴出したことを受けて、裁判所が行政に対するチェック機能を自覚したということができるのだろう。そして、今後も裁判所に対して、政策に関する判断を求める事例が増えてくることが予想される。そのような事例に対しては、従来の実定法の知識だけで妥当な解決を導き出すことが困難であることは、明らかである。

 だとすると、法曹養成にとって政策的発想の育成は重要な意味を持つはずである。もちろん、行政機関における政策形成と、裁判における政策形成とでは、その発想や過程が異なるのは当然である。しかし、将来の法曹を目指す学生が、世の中の権力状況の中で、誰が政策的な庇護を受けていて、誰が政策を必要としながら庇護を受けられないかということを一通り見ておくということは、大きな意味を持つはずである。

 今後の法曹教育において、複雑化、多様化する裁判の争点に関する実体的な知識の提供と、思考訓練を行う必要がある。司法試験というたこつぼに入り込むことを防ぐための議論が求められている。

(法律時報2003年11月号)