ある土曜日の午後、銀行マンになった卒業生がひょっこりと研究室を訪ねてきた。彼は社会人二年生、この春からようやく融資の仕事をさせてもらえるようになった。やりがいを感じて仕事ができるようになったようだが、早くも挫折も味わったという。先輩について融資先をまわり、企業を見る目を養いつつ彼なりに情報を集め、ようやくひとつの融資案件を発掘した。初仕事だから、それなりに気合も心も込めて融資会議に供する資料をつくった。ところが、 「見事」に否決されたという。
対象の会社は、数年業績が低迷していたがこの春頃から回復し始め、これまで我慢してきた設備の更新を計画している。この会社には、彼の銀行(政府系)の他にもいくつかの金融機関が注目し始めている。 「リーダーシップを取りたかった。様々に苦しんできた中小製造業を率先して支援するのはウチの使命だから」と彼は考えた。ところが答えは却下。
彼の目には支店の首脳陣が消極的だし、臆病にも見える。その原因は、この春にあった金融庁の検査にもあると分析する。どこの金融機関でもみられることだが、書類上しか見ない検査官と生きた企業と接触している銀行マンとは認識のズレがある。検査の締日(例えば今年の3月末)と現時点では企業の状況は変化している。景気の回復過程では良くなっているのが普通だがそれは評価されない。しかし、3か月前の体温と血圧で患者を診断する医者がいたらどうだろう。
「少し前よりよくなっています」が認められず、数か月前の結果で融資先がランク付けされ、それが低いと引当金の割増しが要求される。もし、これが監督当局の対応だとしたら、多くの金融機関は「前向き」の融資を断念することになる。
金融機関が単なる金貸しと違うのは創造性を持つことである。そして創造性は、企業が決断したところですぐ支援するからこそ保たれる。景気が良くなってからなら、いくらでも資金調達はできる。 「今だから、あなたの銀行にしか頼めない」から頼んでいる。もちろん、決断に成功の確率をどのくらい見るかの検討は必要だ。しかし、その検討もしないで「待った」を繰り返しているとすれば、どこにも創造性は見出せない。
莫大な額の不良債権は確かに問題だが、視線を未来に向けたとき不良債権はあまり問題ではない。それを生み出さないようにという口実で創造性を自ら放棄してしまっている金融界の姿勢の方が問題なのである。
監督官庁の検査への対応のために、銀行マンは企業訪問をやめて過去の整理のための書類づくりに忙殺される。支店長はいつ本店に呼び出されるかと浮き足立つ。本店の首脳陣は役所の方を向いてしまう。
絶対に不良債権を生じさせないとなれば優良企業と呼ばれる企業、ずいぶん前に不況を脱し業績が安定した企業に目がいくのは当然である。かくして「晴天に傘」の現象がおきる。 「銀行は雨が降ると傘を取り上げ、晴天になると傘を貸してくれる」という例えだ。晴天下の優良企業には銀行が群がるから、競争の結果、低い金利が成立する。拝み倒されて必要もない資金を手にした企業はどうするのだろう。薄い利鞘でもよければ市場で値下がりした国債を買うのもひとつの手だが、これでは銀行が国に金を貸しているのと同じことだ。もう少しマシな利殖をと考えれば、株式、外国債、そして不動産ということになるが、これはいつか来た道だ。
認識すべきは、金融を含めて資本主義世界の経済機能は不完全だということだ。だから、中小企業分野や農業分野には、政府系金融機関や協同組織金融機関が存在する。これらの機関に共通しているのは、「「利潤よりも公共性」である。民間金融機関が、やや問題のある金融行政もあって、国民経済への貢献を充分に果たせない今こそ、「非利潤原理組」の出番であろう。
協同組織金融機関に限っていえば、それが大きな内面的な問題を抱えていることは否定できない。信用組合の数がこの数年で半数になってしまったことが、その象徴だろう。巨額な不良債権、一部にみられた放漫経営への世間の目は厳しく、協同組織不要論も耳にする。こういう状況の中でいかに存在意義を主張するかが協同組織金融機関に求められているが、そのためには自らの健全性を示すこと、そして創造的な機能を持つことを示すことである。かつての私の勤務先でもあった農業協同組合が手本を示してくれることを期待している。
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