およそ一年ぶりに沖縄を訪れている。珊瑚色にきらめく海も、頬をなでる潮風も、現在の居住地である札幌から訪れた私には何もかもが陽光を反射してきらきらとまぶしく、心地よく心をくすぐる。
沖縄は、私が1992年に大学を卒業し、ある放送局に入局してすぐに配属され報道の仕事に携わった場所であり、さらに言えば私の両親の出身地でもある。この10月に拙著『戦後アジア秩序の模索と日本 −「海のアジア」の戦後史、1957−1966』(創文社)を刊行することができてほっと一息ついたとき、なぜだか無性に沖縄に行きたいと思った。北海道でこの本の執筆や校正に明け暮れていたし、久々に南の風に吹かれたいと思ったのかもしれない。あるいは博士論文の刊行によって大学院以来の勉強がひとつの形にまとまったとき、何とはなしに越し方行く先に思いを巡らせたいという思いにかられたのかも知れない。
沖縄は、地理的に言えば日本の南西の端である。だがそれは「日本」という「陸地」の区切りの中でのことにすぎない。沖縄は、東京よりもどこよりも日本の外の世界と深く結びつけられている気配に満ちている。広大で重い米軍基地の存在に付随するあまりに生々しいアメリカの影、歴史や伝統の中にほのかに漂う中国や、東南アジアにつながる南方の香り(代表的沖縄料理、「ごーやーちゃんぷるー」などの「ちゃんぷるー」(=まぜる)は、確かにインドネシア語(camplu?)起源のようである)等々。それは沖縄に太平洋や東シナ海をわたってさまざまな風が吹き寄せることの結実であり、沖縄が海によってアジア、そして世界と結びつけられていることの証左でもある。遠く琉球王朝時代には多くの交易船が那覇の港から出帆してアジア各地を結びつけ、繁栄と栄華をもたらした。今日でもアジアの変動は、米軍基地からの出動の活発化だけではなく、さまざまな形をとって沖縄に現れる。
いま、那覇空港の国際線ターミナルは、大勢の台湾人で混雑している。沖縄観光に訪れた人ばかりではない。むしろその多くは、台湾と上海など中国本土を行き来するために沖縄で乗り継ぎをする旅客である。台湾企業の大陸進出によって経済関係をますます深めつつある台湾と中国大陸だが、その一方で、航空機や船舶の直接往来は認められていない。そのため、これまで香港を主たる経由地にしていた台湾人旅客が、華中に向かう最短ルートとして、台湾→沖縄→上海というルートを利用するようになっているのである。
船舶でいえば、沖縄本島からさらに南西の石垣島には、やはり台湾と中国大陸を往来する船舶が、石垣島で手続きを行って日本を経由した形をとるため、数多く集まっている。「クリアランス船」と呼ばれるこの種の船に私が興味を持ったのは、もう10年以上も前になるが、当時、警察の記者クラブにいて、石垣港の沖合いでクリアランス船同士が衝突事故を起こしたという海上保安部からのファックスを受け取ったのがきっかけだった。当時入局一年目の記者だった私は、この現象はおもしろいと思い提案をして、カメラマンと同期のディレクターとで石垣島まで取材に出かけることになった。
クリアランス船のほとんどは、日本に寄港したという形があればよいので、わざわざ入港することはなく、沖合いまで通関業者が出かけて手続きをする。業者の船に同乗して沖合いの大型船に近づくと、小さく見えた船は海面から垂直にそびえる鉄の巨大なビルディングである。はるか頭上の船員は、船縁からぱらぱらと縄梯子を投げると、「上がってこい」と手招きをする。途方にくれつつも波間に揺れるこちらの小船から決死の思いで縄梯子に飛びつく。ひたすら上だけを見てよじ登ったが、半ばでふと、はるか足下でうねる海面を見てしまうともうだめである。梯子にしがみついて身動きできなくなってしまった私は、こんな提案をしたことを心の底から悔やんだ。
だが、いったん甲板に上ってしまえば、ひとつひとつの船の上には、小さなひとつの世界がそれぞれに存在している。ある船は建設資材を積んで中国大陸へ向かい、ある船は中古車を積んでフィリピンへと出港していく。船上の世界には、国境や陸地の果てでさえぎられることのない伸びやかな風が吹いている。
そんな船の上に次から次へと上っていると、いつしか石垣島という「陸地」から海に浮かぶ船にやって来たのではなく、洋上のたくさんの船によって形作られる「海」の世界の側から、石垣島という「寄港地」を水平線に臨むような気分になってくるからおもしろいものである。そんな気分が膨らんでくると、やがて石垣島という「日本の南西の端に浮かぶ離島」という通常の地図のネガとポジとが入れ替わり、島は大海原によって自在につながれた「海の世界」の一寸した休憩所のひとつのようにも見えてくる。
そんな空想に耽っていたせいだろうか。出来上がったレポートは、いま考えてみても構成や内容等々で「いまひとつ」の出来だったように思う。だが何が幸いするかは分からない。このとき得たいくつかの取材源が鍵となって、それからしばらくしてこの石垣島を舞台に発生した中国人の集団密航事件の取材で、密航を手配した「蛇頭(スネークヘッド)」の男を香港まで追跡し、インタビューにまでこぎつけることができた。それは貿易や物流といった合法的な世界だけではなく、密航や密輸など、「非合法」に分類されるような側面も含めて、「海」によってつながれた世界が、アジア、そして世界へと深く大きく広がっていることを一層強く思い知らされる過程であった。
陸から船上へというように、立つ場所を変えると景色が異なって見えてくるというのは、日常生活でもあることだし、おそらくは国際政治の世界でもあることだろう。海と陸という地図のネガとポジとを反転させてみたとき、戦後日本という存在は果たしてどう見えるだろうか。
私が今回の拙著で最も考えてみたいと思ったことは、アジアの戦後において、日本とはどのような存在だったのかということであった。戦後日本外交、あるいは戦後日本そのものの評価をめぐっては、往々にして全面否定か、あるいはそれへの反論を主眼とした、ときに戦前・戦中時も含んだ全面肯定論のいずれかに傾きがちな傾向が少なくなかったように思われる。だがそれらの多くは端的に言ってしまえば、往年の「国内冷戦」の「遺恨」を引きずって、その主張自体が自己目的化した「日本国内における日本国内のための」議論であることが少なくなかったようにも見える。
戦後日本の歴史的意味を、そのような「国内論争」から解き放ち、戦後国際政治、とりわけ戦後アジア国際政治の文脈で考察してみたい。それも二国間外交史ではなく、戦後アジアを鳥瞰図のように、多国間のさまざまな関係が織り成す国際関係史として眺め、その中のひとつとして戦後日本を位置づけたとき、果たしてどのような構図が見えてくるだろうか。それが私が拙著で試みたいと思ったテーマであった。
戦後日本が多くの場合、上述のような「国内論争」、あるいは試みに換言すれば「一国史観」とでもいうべきものとして語られてきた背後には、戦後日本におけるイデオロギー対立の強固さに加え、何よりも戦後日本を、国際政治とはどこか断絶したものとして捉える感覚があったように思われる。そうであればこそ、具体的な国際政治の動向との連関をそれほど意識せず、二項対立的、あるいは規範的に論じることが可能だったのであろう。朝鮮戦争、ベトナム戦争と、冷戦下のアジア国際政治の主要な出来事を想起してみると、日本はこれらの事態に隣接はしても、やはりどこか焦点の局外にあった観は否めないように見える。
だが、戦後アジアの国際政治には朝鮮半島やインドシナ半島など、アジアの大陸部・半島部を舞台に、アメリカと中国との対立関係を中心とした「アジア冷戦」というべき軸とは別の、もうひとつの流れがあったように思えるのである。それは、日本からアジア大陸の東の縁に沿うように東シナ海、南シナ海を経てインドネシアを中心とする島嶼部東南アジアに至る、海でつながれた、「海のアジア」ともいうべき地域を覆った国際政治である。ここではアメリカ、東南アジアに広がる華人との結びつきを中心とした中国に加え、シンガポールに軍事拠点をおき、海域東南アジアに確固たる影響力を及ぼしたイギリスが主要なアクターとして浮上し、そして日本が欠くことのできない存在として位置づけられる。
日本において「東南アジア」とは、1950年代にはインド・パキスタンなど、今日の「南アジア」をも含む地域概念であったといわれる。それはロンドンから地中海、スエズ運河を経てインド、シンガポール、そしてオーストラリア、ニュージーランドに至る大英帝国の広がりを濃厚に反映した観点であった。戦後アジアにおけるナショナリズムの勃興と脱植民地化の潮流に苦慮するイギリスは、事あるごとにオーストラリア、ニュージーランド、そしてアメリカの四カ国に公式、そして時には秘密裏に協議と協力を求め、事態に対応しようとした。だが、イギリスの力の衰退は覆い隠すべくもなく、アメリカは時に戦争賠償などを契機にこの地域への浸透を深めつつある日本を、この種の協議に加えることを検討するが、イギリスにとってこの地域を「仕切る」のは、あくまで英語圏の四カ国で結ばれたラインであった。
やがて60年代近辺を境として、日本における「東南アジア」が、インドやパキスタンを含まない、今日のASEANと重なる領域へと固まっていったのは、ロンドンからスエズ、シンガポール、オーストラリアへというかつての大英帝国に沿った「西から」の軸が徐々に実体を喪失し、アメリカ、日本から東南アジアへという「東から」の軸が圧倒的な意味を持つようになったことを如実に反映していたのだといえよう。
それはまた、戦後の東南アジアにおいて長らく焦点であった脱植民地化が実質的完遂に至り、「開発」が次なる国家目標として多くの国々で掲げられ、インドネシアのスハルトはじめ、その推進を自らの正当性とする体制の出現を裏腹にしたものであった。
この脱植民地化から開発へという、「海のアジア」を覆った潮流は、米中「アジア冷戦」の文脈をしのぎ、実のところ戦後アジアの国際政治を特色づける主軸いうべきものであったように思える。今日ではしごく当たり前のことにすら思えるが、戦後アジアで最も巨大な変容は、第二次世界大戦終結時にはそのほぼ全面が植民地やそれに準じる状態にあったアジアが、半世紀を経て独立国で覆われるに至った事実だというべきであろう。新たに独立を果たした国々が国家建設の方途を模索する過程で左右のイデオロギーと体制モデルが提示され、その選択が冷戦というヨーロッパにはじまった現象がアジアに波及する契機となった。
だが脱植民地化と、それを最重要課題とする政治は、植民地支配という現実が存在して初めて意味を持つ。60年代までに領域支配という本来の意味での植民地支配が多くの地域で姿を消すと、インドネシアのスカルノはじめ、建国を担った独立以来の政治家は、後に「開発独裁」体制とも言われるような、開発をその存立の求心力とする指導者へと取って代わられることになるのである。その流れは「アジア冷戦」の一方の主役であった中国をも巻き込み、アジア全域を覆う潮流として今日に至っている。経済成長、経済大国に自らのアイデンティティを求め、経済優先、開発優先でアジアへの関与を模索しつづけた戦後日本が、この構図の中で占める意味は重い。
日本は当然ながら、島国である。戦後日本の「一国史観」には、戦後日本を、アメリカによって囲われ、そのことによって中国大陸とは分断され、朝鮮戦争やベトナム戦争を「対岸の火事」としてかなたに見やる島国の観点が濃厚に漂っているように思われる。それは冷戦下における日本の実態の一面を的確に反映している。また、自国を焦土とし、近隣諸国に惨禍をもたらした第二次世界大戦のあまりに苦く生々しい記憶から、荒々しい国際政治の現実と距離をおきたいという戦後日本の国民感情にもなじむものであったろう。
だが海は、かつての元寇のときのように、外敵から国土を守る障壁であるばかりではない。海は遠く隔たった土地と人々を結びつける強力な媒介でもある。島国・日本は、海によってアジアから隔てられているのではなく、海によってアジア、そして世界と深く結びつけられているのである。後者の観点に立つとき、戦後日本は海によって海域アジア、そしてその命運と深く結びつけられ、アジアの戦後史において少なからぬ意味を有する存在として立ち現れる。
そもそも、沖縄を離れ、やがて大学院に進むことがかなったとき、私は国際政治の研究を通して、ささやかではあっても何らかの意味で沖縄とその未来に資するようなものにたどり着ければと思っていた。結局、大学院での勉学と自らの興味関心の模索、それに少なくない偶然とが重なって、結果として私がたどり着いたのは「「海のアジア」の戦後史」と称する今回刊行する拙著に至るテーマであった。
いま拙著を刊行にこぎつけ、こうして沖縄に戻ってみたとき、「沖縄に資する」などというのはひたすらおこがましいことだったのだろうと感じる。国際政治への興味関心も、「海」によってつながれた世界への関心も、そして勉学を志すことに賭けてみようという思いも、それはただただ沖縄の懐に抱かれることで育まれたものであったということを、いま、遅まきながら悟らされている。そして同時に、不思議な安らぎの感情に身を委ねている。
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