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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
イラク派兵と政治の劣化
山口 二郎
 
 

 本稿執筆時点で、自衛隊のイラク派遣承認が衆議院において与党の単独採決により可決され、国会は空転している。派兵そのものに対する反対論は筆者も別のメディアで述べたので、ここで繰り返すことはしない。しかし、派兵に関する議論の仕方から見える日本政治の堕落については、ここで批判しておきたい。

 イラク特措法の審議以来、この問題に関する小泉首相以下の政府指導者の態度からは、論理に対する蔑視と、国会に対する蔑視の二つが読み取れる。言うまでもなく、日本を含む近代民主主義国家には、法の支配という原理が貫徹しているはずである。法とは論理であり、政府の活動は一定の決まりに基づいてその目的、理由が明らかになっていなければならない。また、そのような理屈を説明する最も重要な場が、議会である。議会の答弁で嘘やごまかしをすることは、権力者の政治生命を奪う重大事のはずである。そうでなければ形の上での民主主義国家といっても、権力者は、気まぐれで軍を動かした昔の専制君主と同じになる。

 ところが、日本では最高権力者が論理を無視し、議会における答弁責任を放棄して恥じない。「イラクのどこが安全か分かるはずはない」という珍答弁は、イラク特措法自体の欠陥を証明するものであり、普通の国であればこのような無責任な答弁をした首相は世論の反発の前に政治生命を失うはずである。また、通常国会における質疑でも、首相はイラク攻撃の正当性に関する質問を受けても答弁していない。先遣隊からの現地情勢に関する報告は、最初に結論ありきのいい加減なものでしかないことは、共産党の指摘からも明らかであろう。小泉政権のもとでの国会運営では、答弁拒否や議論のすり替えが以前の政権よりも頻繁に見られるようになった。

 こうした傾向は、野党の追及が昔よりも緩くなったからかもしれない。今の民主党の若手議員は野党として政府を追及するよりも、政権構想を論じるほうが好きである。しかし、与野党の議席差が大きいとき、野党のできることには限界がある。野党には、政府答弁の杜撰さを国民に向けてアピールすることしかできない。問題は、これだけすり替えやごまかしをしていても首相を支持してしまう国民とメディアの側にある。

 イラクで任務に就く自衛隊員については、無事を祈るしかない。ただし、政治の問題としては不幸にして自衛隊員に犠牲者が出た時、逆に自衛隊員が他国民を殺傷した時の対応を考えておかなければならない。昨年十二月の外交官殺害事件の際の世論を顧みるならば、今最も憂慮すべきは、犠牲者の出現を奇貨として、安全保障政策のいっそうの転換を推進する便乗論の横行である。犠牲者を前に国民世論がパニックに陥ったとき、「テロに屈するな。屍を乗り越えて自衛隊が任務を全うするためには、自衛隊に軍隊としての力と権限を与えるべきだ。そのために憲法九条を改正せよ」という声が出てくることは容易に予想できる。実際、満州事変以後の侵略戦争の拡大の過程では、犠牲者を口実に対外強硬論が正当化された。

 しかし、こうした議論には何の正当性もない。今回の派遣はイラク特措法の枠組みの中で行われることを確認する必要がある。小泉首相の論理を借りるならば、今回の自衛隊は戦争をしに行くのではなく、イラク人の望む復興や民主化を支援するために行くはずである。イラク特措法に基づくならば、自衛隊は安全な場所において、人道支援活動をするはずである。不幸にして犠牲者が出たならば、それは危険の予想される場所に自衛隊を派遣した小泉首相および派遣を承認した国会にある。現地の状況がイラク特措法で予定している戦争状態の終結と認められないのならば、自衛隊を撤収することこそ最高権力者の取るべき選択である。民生面での救援活動に安全、円滑の従事できないからといって、自衛隊に軍隊としての権能を持たせるべきだと主張するのは、筋違いの議論である。

 日本が、法の支配の下の文明国であるためには、既成事実を積み上げてなし崩しにルールを変えるという道を取るべきではない。一つのルールの枠組みの中で何ができるか、できないかを考え、ルールで処理しできない現実に直面したときには、一度ルールの枠内に戻って次の対処方針を考えるべきである。

 今回の事例について言えば、イラクが安全でないことが明らかになれば一度自衛隊を撤収し、冷静になった上で、従来どおり戦争状態が一応終結し、ある程度の秩序が確保された状況で自衛隊を人道支援活動に従事させるのか、戦争状態が事実上続く中にあえて入り込み、武力行使の可能性を含みつつ、騒乱の平定に従事させるのかという選択を考えるべきである。前者の道を取るのであれば、イラク特措法は結局絵に描いた餅に過ぎないということになり、自衛隊をイラクに派遣すべきではないという結論になる。後者の道を取るというのであれば、憲法九条をきちんと改正し、普通の軍隊としての自衛隊をアメリカ軍中心の軍事作戦に従事させるということになるだろう。いうまでもなく、私は前者を取るべきだと考える。こうした議論は、まさに日本の国運を左右するものであり、熟慮が必要である。

 このように、自衛隊のイラク派遣問題は、憲法改正論議に直結する。国会では各党入り乱れて憲法論議が盛んである。しかし、私はむなしさを感じる。九条の限界をあげつらい、憲法改正を求める政治家は、日常の政治においてどれだけ法の支配の理念を尊重しているのだろうか。権力の行使はすべて論理に基づかなければならないという民主政治の原理をどれだけわきまえているのだろうか。小泉首相の議論のすり替えや答弁拒否を怪しまない政治家が、憲法論議のときだけ突然、法の支配の原理に目覚め、九条と実態の乖離を埋める議論だけを熱心に論じるというのは、戯画でしかない。今の国会に憲法改正を論じる能力があるのならば、まずイラク問題をめぐる国会論議において論理を尊重し、詭弁やごまかしを許さないという実行によって、その能力を示すべきである。

 二月一日、イラクに向かう迷彩服姿の自衛隊員に小泉首相が訓示する姿を見て、もはや戦後は終わったと実感させられた。しかし、そこで無力感に陥ってはならない。戦後の枠組みをどう変えるかの議論はこれからが本番である。

(週刊東洋経済2004年02月14日)