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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
日本における法の支配
山口 二郎
 
 

 このところ、政界、官界において公職にある人々の遵法感覚を疑わせるような事件が相次いで露見している。北海道では、北海道警察本部の元幹部が、警察における裏金作りの実態について体験に基づく告発を行って、注目を集めている。捜査における情報収集のための報償費を操作し、裏金を作って、警察署幹部の接待や餞別などに使っていたというのである。しかも、この悪習は長年にわたって北海道の警察全体で続いてきたとされる。これまで断片的に、警察における裏金の存在を告発する報道はあったが、警察幹部だった人物が自分の体験をもとに証言するのは初めてであり、警察には大きな衝撃が走っている。また、裏金作りの話は北海道に限ったものではなく、全国の警察に対する影響も予想される。

 これらの事件を見るにつけ、日本社会における法の支配の意味について考えさせられる。日本には近代的な法の支配の理念が定着しているはずである。法の支配とは、国民がおとなしく法に従うということよりも、権力者が法に縛られるということを意味する。違法状態があれば権力はこれをすべて公平に取り締まるとともに、法を拡大解釈して市民の活動を恣意的に抑圧してはならないというのが法の支配の意味である。ところが、日本においては「守ることが不可能な、あるいは守る必要のない法律」を作る一方、「作った法律を必ずしも守らない状態が常識化する」という現象が見られる。この点は、「作った法律は必ず守る」、「守る必要のない法律は作らない」という欧米諸国と対照的である。

 たとえばイギリスでは、一般道路における速度制限は、運転者の生理と自動車の性能を踏まえ、最高で時速五五マイル(八八km)に設定されている一方、レーダーによるスピード違反に対する取締りを厳格に行っている。また、駐車違反の取り締まりは民間に委託しており、実にスピーディである。違法な路上駐車はほとんどない。日本では、道路の実情を無視した時速六〇kmが上限である一方、スピード違反は日常化している。

 それだけではない。労働基準法に違反したサービス残業の放置、貨物トラックの過積載、公共事業の談合など経済活動が違法行為を前提として成り立ってきたとさえ言える。問題は、取り締まり権限を持った行政機関までもが法と現実との乖離を常識と考え、厳格、公平に法を執行するという意欲を持っていないことである。

 皆が違法行為を行うのが常識化している状態は、行政の権力を強めることとなる。違法行為はあくまで違法であり、露見した時に「みんなやっている」という言い訳で正当化できない。行政が違法状態を摘発する際には大きな裁量を持っているのであり、誰しも叩けば埃が出る以上、常に監督官庁のご機嫌を気にしなければならない。誰に対してルールを厳格に適用するかを役人が自由に決められるという状態こそ、官僚権力の源泉である。かくして、監督官庁と業界との不透明なもたれあいが強まる。

 他方で、守る必要のない法律やルールの執行に官庁がこだわるのも日本の特徴である。現在各地で規制緩和に関する特区の実験が行われており、政府はその成果を宣伝している。しかし、特区がうまくいくということは、逆に今までいかに無意味な規制が市民社会を縛っていたかということの現れである。地方における自由な政策展開のためになくしたほうがよい国の縛りはたくさんあるが、国の官庁は社会変化に対応してルールを変えることについては常に消極的である。一つだけ具体例を挙げたい。イラクに派遣される自衛隊の装備をロシアの輸送機で運ぶご時世に、北海道の新千歳空港へのロシア、中国等の旧共産圏諸国からの乗り入れは週に三日、特定の時間に限定されている。そのことが、地域の国際化を妨げている。

 このようにゆがんだ法の支配の中で、法を執行すべき役人たちは、ルールから逸脱した状態を公平に是正するという使命感や、権限を行使する自らも法によって縛られるという緊張感を失っていく。仮に、硬直的な会計制度の中で本来の職務に関連した支出に予算措置がないため、裏金で充当せざるを得ないというのであれば、仕組みを変えるほうが先である。

 法の執行の問題は、民主主義と密接に関わっている。最近市民の政治的自由を脅かすような警察・検察の行動が目立つようになった。イラク派兵反対を訴えるビラを自衛隊員の宿舎の郵便受けに入れた人が住居侵入で逮捕される、公衆便所に反戦という落書きを書いた人が器物損壊で逮捕・起訴され有罪判決を受けたといった事例が相次いでいる。いずれも、法解釈としてはあまりに強引過ぎる立件である。警察・検察に政治的な意図があり、裁判所はそれに対するチェック機能を果たしていない。こうした恣意的な取り締まりは、警察が自らの政治的意図を優先するあまり法の支配を無視していることの表れということができる。人々が警察の腐敗に目を奪われている間に、自由な市民社会の土台を掘り崩すような警察の暴走が始まっているのである。

 政界では、憲法九条というルールが実態にあっていないから改正しようという声が高まっている。この種の議論をする政治家は、今の日本における法の支配がどれだけゆがんだものであるか知っているのだろうか。さまざまな分野において不必要なルールを改めること、存在するルールを公平に適用するよう役人を監視すること、この二つこそが政治家の仕事のはずである。憲法と実態との乖離を放置できないというのならば、政治家はその遵法意識をあらゆる分野に発揮して、法の目指す理想が実現するよう努力すべきである。とりわけ、市民の政治活動に対する警察の介入は、民主主義にとっての脅威であり、民主主義を信奉する政治家たるもの、党派を超えて危機感を持つべきである。

 これからは国民の司法参加が必要になるであろう。かつて原敬は大正デモクラシー期の日本で普通選挙制を導入した際に、同時に陪審制も導入した。原の慧眼が物語るように、法の運用を警察・検察に任せきりにするのはあまりに危険である。今回の裏金問題が、法執行に関する情報公開と国民によるチェックを広げる端緒となることを望む。

(週刊東洋経済2004年03月20日)