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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
イラクの平和のために日本ができること
山口 二郎
 
 

1 アメリカ世論の変化とスペインの政権交代

 イラク戦争が開始されて一年がたち、この戦争が何の大義名分もない誤ったものであったことは、もはや明らかである。戦争の口実となった大量破壊兵器はそもそもイラクに存在しないことは、査察を担当した国連関係者の証言からも明らかである。また、米英両国の政府が開戦を正当化するために、大量破壊兵器の脅威を捏造し、情報操作を行っていたことも指摘されている。ブッシュ政権の元高官の一部は、ブッシュ大統領とその取り巻きが自らの欲求や利権のために戦争を始めたことを指摘している。そして、この愚かな戦争をイギリスのブレア首相、日本の小泉首相がそれを盲目的に指示しているというのが現時点における真相である。

 他方、イラク・ボディ・カウント(http://www.iraqbodycount.net/bodycount.htm)によれば開戦以来イラクでは一万人を越える人々が殺された。イラクはテロリストの国際競技場のような様相を呈し、連日ゲリラやテロによって米軍の兵士が殺害され、またテロリストによって罪のないイラク人も殺されている。イラクの解放、民主化というスローガンにブッシュ大統領はまだ執着しているが、一万人以上の犠牲者を出したアメリカの行動がどうして解放と言えるのだろうか。

 こうした当然の疑問は、アメリカにおいても広まりつつある。私は三月八日から一週間、アメリカ東部の大学を訪れ、現地の学者や学生と話をした。また、書店に並ぶ本やテレビ、新聞を通して世論を探ってみた。アメリカ訪問は二〇〇二年一一月の中間選挙の時以来およそ一年半ぶりであったが、その間の世論の変化に驚かされた。二〇〇二年の秋は、まだ九一一のショックを引きずったままで、中間選挙でブッシュ大統領、共和党を批判することは、ほとんど国に対する反逆という雰囲気であった。テロ対策に名を借りた人権侵害、イラクへ戦線を拡大することの是非など、重要な争点は存在したが、民主党は戦う姿勢になっていなかった。

 これに対して、今のアメリカでは、イラク戦争の失敗を目の当たりにして、ようやく九一一の呪縛が解けてきたという印象であった。ブッシュが戦争終結を宣言したあとも、連日のようにイラクではゲリラによる抵抗やテロが続き、アメリカ人の犠牲者も増え続けている。書店には、イラク戦争に反対し、情報操作や戦後復興をめぐるブッシュ政権高官の荒稼ぎを糾弾する書物や、ブッシュ政権が進める経済政策が普通のアメリカ人に途方もない犠牲をもたらしていることを批判する本が並んでいた。ブッシュ政権の内政、外交政策を批判することは、決してアメリカ国民の利益に反する行動ではないという当たり前の事実を、ようやく国民は思いだしたのである。私の滞在中の世論調査では、民主党の大統領候補者に事実上決まったケリー上院議員が現職のブッシュ大統領を支持率でリードしていた。九一一からイラク戦争を再選のための道具に使うというブッシュ大統領の戦術は、挫折している。大統領選挙の行方は予断を許さないが、ブッシュの再選には黄信号が灯っている。

 そして、三月一四日のスペインの総選挙では、イラクからの撤兵を主張する社会労働党が勝利し、政権交代が起こった。スペインのアスナール首相は、昨年の開戦前に、スペイン領アゾレス諸島にブッシュとブレアを招き、イラク征伐の正当性を訴えた人物である。この首相が選挙に負けたということは、スペイン国民がイラク戦争の正当性を否定したことを意味する。これからイラク状況が泥沼化すればするほど、アメリカを支えてきた有志連合の結束は弱くなるに違いない。

2 テロに屈しないとはどういうことか

 ここでイラク戦争を支えた「テロとの戦い」という理屈について改めて考えてみたい。ブッシュは、三月中旬に開始した大統領選挙向けのテレビCM(競争相手のケリーを誹謗中傷するネガティブ・キャンペーンといわれるもの)の中で、ケリーがイラク戦争開戦のためには国連決議が行われるのが望ましいと発言したことを捉えて、「ケリーは国連決議を待つことによってアメリカの安全を脅かした」と非難した。また、スペインの政権交代に対して、スペイン国民は選挙直前に起こった鉄道爆破テロの脅威に屈したという論評も、ブッシュを支持する側から浴びせられている。

 罪のない市民を犠牲にする暴力は絶対に許されない。スペインで鉄道を爆破したテロリストは絶対に許されない。しかし、理不尽な暴力というならば、イラクに劣化ウラン弾やクラスター爆弾の雨を降らせて、一万人以上のイラク国民を殺した米英両国の軍隊も、現地人から見ればテロリストである。テロとの戦いといいながら、米英両国は罪のないイラク国民を大量に殺害したことによって、テロリストと同じ次元に立っているのである。同じ次元に立って相手の暴力を非難する者同士の間には、無限の暴力の連鎖しかない。テロとの戦いを呼号する者こそ、相手側の憎悪の炎に常に油を注ぐことで、テロリストを次々と生み出しているということさえできる。ブッシュによる宣伝に言葉を返すならば、ブッシュは何の正当性もない戦争を一方的に始めることによって、アメリカの安全を大きく脅かしているということになる。

 この構図は、イスラエルとパレスチナ人との間にも見られる。イスラエルがハマスの指導者ヤシン氏を殺害した時、さすがにイギリスも非難の声明を出した。常識的に考えれば、この種の憎悪に基づく暴力の行使は、相手方により大きな憎悪を生み、反作用としての暴力をもたらすことはすぐに分かる。イギリスとアメリカはイラクでイスラエルと同じことをしていることに気づかないのであろうか。

 戦争に反対することは、テロに対して宥和的姿勢を取ることを意味するのではない。私は、テロリストを見つけだし、制裁を加える過程で軍事力を行使する必要があることも否定しない。しかし、安易な軍事力の行使はテロの否定という目的に逆行することを強調したいのである。イラク戦争開戦の際、武力行使に積極的なアメリカをホッブズに、これに懐疑的な「古い」ヨーロッパをカントにたとえる議論があった。話し合いによる平和は無力な理想論であり、アメリカはホッブズの議論にしたがって、力によって秩序を確立するという意味である。しかし、アメリカはホッブズの教えと正反対のことをしている。アメリカはフセインという独裁者を倒すことによって、この独裁がかろうじて保っていた秩序までも倒してしまった。アメリカは周到な準備や戦後構想もなしに軍事力を使うことによって、ホッブズの言う自然状態(人が人に対して狼である!)をイラクで作り出してしまったのである。思慮のない者が武器を振り回すことほど危険なことはない。

 スペインでの事態に関して、研究者グループ「公共哲学ネットワーク」のメーリングリストを通して、J.マシア神父のメッセージを読むことができた。スペイン人は、テロリストと同じ次元に立ち、暴力に暴力で報いるのではなく、暴力を否定するために政権交代を選んだことがよく分かる。神父は、惨劇を前に「犯人を出せ」と怒る鉄道職員に対して息子を失った父親が語った言葉を紹介している。

 「一部分しか残らなかった殺された子どもの遺体を前に、立っていたお父さんは、その職員を抱きながら言った。「おちついて下さい。私たちは復讐を求めない。戦争と憎しみはもうたくさんだ。平和、平和を…殺された息子の死が無駄にならないよう … 私も怒っているけれど、暴力を止めましょう。黙って祈ったほうがよい…」。(マシア神父から山脇直司東京大学教授に宛てたメッセージより)

 このようなスペイン市民の勇敢さは、テロリストと同じ次元に立って暴力の連鎖を続けているブッシュやブレアと著しい対照をなしている。

 軍事力で世界中のテロリストを殲滅することなど不可能であり、我々が自由な社会に生きる限り、テロリストの破壊活動をすべて抑止することは不可能である。だから、テロとの戦いには終わりはない。また、だからこそ権力者は「テロとの戦い」というスローガンを愛用する。テロと戦っている限り、いつまでも国民の支持を得ることができ、反対する者にテロに屈するという誹謗を加えることができるからである。テロとの戦いが新たなテロリストを生み、そのような暴力の循環の中で権力者は自らを正当化する。これが今のアメリカやイスラエルで起こっている現象である。

 マシア神父の言葉を借りれば、「テロから市民を守り、暴力から解放する」ためには、多くの国の政府と市民の息の長い努力が必要である。そうした努力は、国籍や宗教を問わず人間の命を尊重する精神と、自由や民主主義への帰依によって支えられなければならない。言い換えれば、道義の面でテロリストよりも優位に立つことによって、テロを根本から断つための努力は効果を持つ。

 大量破壊兵器をめぐる情報が捏造であったことが明白になると、戦争を支持した人々は「開戦の大義名分は今さら関係ない、イラクの戦後復興が問題だ」などと言いだした。偽りによって戦争を始め、多くの市民を殺した軍隊が占領しているような地域で、どうして安定した秩序が確立できるのだろうか。大義のない占領は、これに対して抵抗する側に正当性を与える。戦後復興を進めるためにこそ、大義の有無を明らかにする必要がある。米英両国が、大義名分のない戦いについて謝罪することからしかイラクにおける秩序再建は進まないのである。

3 イラク戦争に日本はどう対応すべきか

 日本では、自衛隊の派兵が既成事実となるにしたがって、国民も徐々にこの事実を受け入れつつある。世論調査でも、派兵反対論は減少しつつある。NHKのニュースなどを見れば、自衛隊が現地で様々な善行を施していることが紹介されている。

 しかし、米英両国が始めたイラク戦争という大きな現実を見失ってはならない。日本政府はアメリカの要請にしたがって、戦争による荒廃を収拾するために自衛隊を派遣したのである。自衛隊員の小さな親切は、戦争という大きな悪を帳消しにすることはできない。現地の人々から見れば、日本はアメリカの属国であり、自衛隊は米軍の従卒である。自衛隊の本質は、誤った戦争に荷担する軍隊である。小さな親切で日本もイラクの役に立っているという自己満足を得るだけでは、問題解決に向けた行動は生まれてこない。

 イラク派兵をめぐる議論においては、日頃国家の尊厳を強調し、愛国心を唱えるナショナリストがいとも簡単にアメリカの戦争を支持したことが特徴的であった。(ナショナリストの中には、西部邁氏のようにイラク戦争は侵略であると批判する人もいたが、それは少数派でしかなかった。)本来、ナショナリズムとは自国の国益を最大限に追求する考え方のはずである。しかし、現在の日本のナショナリストは、「アメリカについて行くことこそが日本の国益」という公式を無邪気なまでに信じこんでいる。ブッシュが勝手に始めた戦争に付き合うことが、日本の利益になるのかどうかという現実的な計算など、まったくない。思考停止こそが日本の利益だとナショナリストは公言しているようなものである。思考停止の日本がイラクですることとしては、自衛隊員の小さな親切が似合っている。

 彼らのナショナリズムは、「アメリカは常に合理的に行動するのであり、同時に日本の利益を図るために最大限協力してくれる」という夢想の上に成り立っている。しかし、まさに今回の戦争が物語るように、アメリカはいつも合理的に振る舞うわけではない。石油利権を確保するという意味では戦争の動機に合理的なものがあったのかもしれないが、ブッシュ個人は私怨を晴らすために戦争を始めた。また、ブッシュの背後には自らを神の側に置き、敵対する者を悪魔の側に置くキリスト教原理主義者が控え、この戦争を正当化している。ブッシュ政権は合理性とは対極の狂信、迷妄によって支えられている。

 今回の戦争は、第二次大戦後の世界でアメリカが保持してきた自由と民主主義の旗手という道義的な優位性を損ない、財政的な負担も増やしたという両面で、アメリカにとっては大きな痛手になることが確実である。ブッシュは、その二つのアメリカの財産を蕩尽した放蕩息子である。

 イラクにいかにして平和を取り戻すか、アメリカが誤った時に日本の国益をどう確保するかという二重の課題について、我々は現実的な思考を進めなければならない。解決の出発点は、暴力の連鎖を断つということである。自然状態とかしたイラクの秩序回復は、道義を欠いたアメリカの手に余る課題である。実際、大統領選挙に向けてブッシュ政権は早期に占領体制を終結させ、イラク人に政権を移譲する動きを示している。イラク占領であまり犠牲を出すと選挙に悪影響を及ぼすから、「我が亡き後に洪水は来たれ」とばかりに手を引く構えである。その後始末をお人好しの日本が引き受けるというのは、もっとも国益に反するシナリオである。

 今のイラクに必要なのは、権威の交代である。アメリカが身勝手に事態を放り出せば、イラクの混沌はさらに深まるに違いない。開戦から今日までの事実を検証し直し、米英両国がイラク人の犠牲者に対して謝罪することが大前提となる。その上で、国連を中心とした国際的な協力の枠組みによってイラクの統治体制を再構築することが、権威の交代の現実的なシナリオである。日本もそうしたシナリオの実現に向けて、まず自衛隊を引き上げて、有志連合を事実上分解に追い込むべきである。そして、新たな権威の構築に向けて、ヨーロッパ各国との協力、連携を始めるべきである。アメリカからあてがわれた小さな親切に没頭していては、事態は決して解決しないのである。

4 イラク派兵を政治の大きな争点に

 本来、日本国内で今後の進路をめぐって活発な議論が戦わされるべきであるが、現状は正反対である。国会における小泉首相の開き直りを追及しきれない野党の無力さには不満が募る。もっと憂慮すべき事態は、イラク戦争を契機に、市民の自由な言論活動や政治活動に対して権力の抑圧、干渉が強まっており、民主主義の土台が脅かされている点である。イラク派兵反対を訴えるビラを自衛隊員の宿舎の郵便受けに投げ込んだだけで、住居侵入で逮捕される。公衆トイレに反戦という落書きをしただけで、建造物損壊で逮捕・起訴され、有罪判決を受ける。こうした言論弾圧が今の日本で行われるようになった。他人の家の郵便受けにビラを投げ込むことが住居侵入になるのならば、日本中のセールスマンは犯罪者となる。落書きを処罰するなら軽犯罪法が適当な根拠規定なのに、建造物損壊という罪をわざわざ当てはめる。警察・検察のこうした行動は、市民の自由な活動を萎縮させるために行われているとしか思えない。

 メディアの萎縮も目立つ。今年の一月、札幌雪まつりの作業開始式で、雪像を作る自衛隊の幹部が雪まつり会場で市民の抗議活動があれば、雪まつりからの撤退もあり得ると発言した。これは、雪まつりを人質に取った自衛隊による、派兵反対活動をするなという恫喝である。地元の『北海道新聞』はこれを大きく取り上げたが、他のメディアはほとんど何も触れなかった。新聞もイラク現地での取材の便宜を考えれば、自衛隊を正面から批判しにくいということであろうか。

 九一一のあとのアメリカで野党が沈黙し、論壇が一次元化したことは、無理からぬ結果だったということもできよう。しかし、テロに襲われたわけでもなく、自由な言論が保障されているはずの日本で、なぜここまで政府の政策や警察の弾圧に対する批判が出てこないのであろうか。

 今年の七月には参議院選挙が予定されている。この選挙で自民党がまずまずの結果を残せば、小泉政権はさらに続くことになる。ことによっては以後三年間、国政選挙はない。ということは、この参議院選挙は小泉政権によるイラク派兵、対米追随の是非を問う最初で最後の機会になる。(最初でと言ったのは、昨年一一月の総選挙で本来ならば派兵の是非を争点にすべきであったにもかかわらず、自民党は選挙への悪影響を恐れてイラク問題については沈黙したからである。)アメリカによる誤った戦争を支持する小泉首相を許すのかどうか、テロとの戦いという口実で罪のないイラク人を一万人以上も殺した戦争を支持するのかどうか、日本人の見識が問われるのである。

 アメリカで強まっているブッシュ批判の動きを見るならば、我々は何も臆する必要はない。市民も野党も、誤った戦争を推進している政府と対決することに、もっと自信を持つべきである。

(世界5月号2004年4月8日)