イラクでの人質事件は、個人と国家の関係について「主権在民」を定めた憲法を作って六十年近くたった今でも、国民の中に合意が存在しないことを改めて浮き彫りにした。憲法改正論議が高まっている今、これからの憲法や民主主義のあり方を考える上で、両者の関係は根本的な問題である。
いわゆる「自己責任論」を唱えて人質やその家族を非難した人々の言い分はこのようなものであった。人質とされた人々は政府の警告を無視してイラクに入り、事件に遭遇した。それによりお上の手を煩わせた不届きな連中だ。しかし、この考えは国民主権の国における個人と国家の関係に関する見方と相容れない。国民主権の国においては、国民は自らの安全を確保し、利益を増進するために、自分たちの持っている権力を政府に預ける。政治家や役人は預かった権力を用いて公共の安全や利益を図る。国民が危険に遭遇した時にこれを救うのは政府の当然の責務である。国民は政府の言いつけを守り、面倒を起こさないようにすべきだというのは、国民を国家の僕と考える発想である。
ここで国民が先か、国家が先かという二者択一を持ち出すことには意味がない。国民が死滅しても国家は生き残るという「国体護持」の思想が誤りであることは明らかである。同時に、各地の難民の姿を見れば国家を失った人間は人間らしい生活を享受できないという現実も明らかであろう。国家とは、国民が自らの利益のために作った手段であるという性格を確認しておきたい。
民主主義とは、国民から権力を預かった政治家や役人が、国家という道具を公共の利益のために適切に使うよう、国民自身で監督する仕組みである。ところが、政治家や役人は、自分の権力は国民からの預かりものだということを忘れ、自分の都合のよいように使おうとする性癖を持つ。「国益」の名の下に行われた戦争が実は一握りの権力者を利するものでしかなかったという事例は、歴史上いくらでも見出せる。そして、今回の人質事件は、イラク戦争をめぐる「公共の利益」をどのように定義するかという問いをめぐる、国民と政府との衝突という性格を持っているのである。
日本政府は、イラク戦争を支持し、自衛隊をイラクに派遣することが国益だと主張してきた。しかし、政府の選択が本当に日本国民の利益に合致するものであるかどうかには、大いに議論の余地がある。残念ながら、普通の日本人はマスメディアの伝える情報をもとにした議論しかできない。ところが、三人の若い日本人が、自らの手によって公共の利益を発見、実現するために、イラクに入った。戦闘の実態や劣化ウラン弾の害毒を知ることは戦争を支持した政府方針が国益にかなうかどうかを判断するための重要な材料である。また、イラクの孤児を支援することは政府によらず日本人自身で公共の利益を実現することが可能であることを証明する。軽率さは否定できないにせよ、その能動性において、彼らは例外的な日本人であった。
日本の政治においては、国民が自ら公共の利益を定義することを政治家や役人はことのほか忌避してきた。だからこそ、官邸が主導して「自作自演説」や「自己責任論」を流し、人質を孤立させたのである。一連の情報操作は、国益の定義について国民に邪魔されたくないという政府の意思の表れであった。
ここでもう一度、国民の果たすべき自己責任とは何かを考えておきたい。民主主義における国民の責任とは、自分の住む社会にとっての公共の利益とは何かを自分の頭で考え、それを選挙その他の手段で表現することに他ならない。官邸発、マスメディア経由で流された「自己責任論」に、自分でものを考えることを放棄した人々が付和雷同するという光景、そして大きな争点がありながら三分の一の有権者しか投票に行かなかった衆院補選埼玉八区(四月二十五日投開票)の状況こそ、国民としての責任を果たそうとする人が少数でしかないことを物語る。我々が国民としての責任を果たすためには、三人の被害者を迫害するのではなく、彼らの経験や情報を共有しなければならないのである。
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