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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
日欧に見る民主主義への倦怠
山口 二郎
 
 

 現在、ヨーロッパの政治事情や地方分権について調査するために旅行中で、この原稿はドイツで書いている。おりしもヨーロッパでは先月ヨーロッパ議会選挙が(イギリスではこれに加えて地方選挙も)行われたばかりで、これらの結果に関する分析が新聞、雑誌をにぎわせていた。今月日本で行われる参議院選挙と重ね合わせてみると、興味深い類似を見出すことができるように思える。

 ヨーロッパ議会選挙は、各国の権力の移動とは関係ない選挙であり、政党に関する人気投票のようなものである。本来は、EU憲法などヨーロッパ全体の争点に関して各国の市民が判断を下すべき選挙であるが、実際には各国の国内争点をもとに人々は選択を行った。その結果は、スペインとギリシャを除くほとんどの国で政権与党が得票を減らしたというものであった。英独仏など主要国でことごとく政権政党が敗北したことは、各国の政策上の問題ではなく、むしろ民主主義そのものに対する人々の倦怠と、およそ権力者一般に対する不信を反映しているように思える。

 イギリスでは、イラク戦争をめぐるブレア政権への国民の強い批判が噴出した形で、労働党は大きく得票を減らした。また、労働党は同じ時期に行われた地方選挙でも大敗し、金城湯池であったイングランド北部のいくつかの都市で多数を失った。ドイツでは、シュレーダー政権が進める社会保障改革の不人気ゆえに、社会民主党が全国レベルの選挙としては史上最低の得票率を記録した。中道右派が政権を取るフランス、イタリアでも与党は敗北した。要するに、ヨーロッパ人が左右どちらかに振れたというのではなく、政権を持っている政党・リーダーにノーと言ったのである。

 本来EUは、グローバル化の中でヨーロッパという単位において独自の社会経済政策を追求するために作られたはずであった。しかし、実際にはEU参加のためには緊縮財政を強いられ、年金など社会保障の受益を削減するという先進国の国民の既得権を奪うような政策が次々と出されている。また、今春のEU東方拡大によって、主要国の経済の空洞化がいっそう進むのではないかという危惧も広がっている。結局、政治の力によって社会や経済をよりよく変えていくという二〇世紀的民主主義の理念はもはや崩壊しつつあるというのが市民にとっての素朴な実感であろう。そのことが民主政治に対する倦怠をもたらしている。

 政治が社会や経済を変えることについて無力であるとすれば、人々の関心を政治につなぎとめるのは指導者のカリスマ性しかない。しかし、英仏独では政権が長期化し、むしろ指導者に対する飽きが広がっている。

 さらに興味深いのは、EU議会や地方選挙の結果が、各国の指導者にそれほど打撃を与えていないことである。彼らは、政権の帰趨を決める各国の総選挙では国民は異なった行動をとるだろうという奇妙な自信を持っている。筆者がイギリスでインタビューした労働党の左派活動家でさえ、ブレアに代わる首相候補者がいないことは認めていた。また、イギリスでもドイツでも、野党の側に魅力的な指導者がいるわけではないし、現状を転換する清新な政策ビジョンがあるわけでもない。ヨーロッパでは、国民は総選挙では不満を持ちながら無難な選択をし、政権交代に関係ない選挙で不満をぶちまけるという投票のパターンが続くように思える。そのような繰り返しの中で、民主政治に対するシニシズムが深刻になっていく。

 日本の参議院選挙も、EU議会選挙と似たような意味を持っている。参議院選挙は政権交代に直結するものではない。仮に与党が大敗して首相が退陣しても、衆議院の多数派は変わらないのだから政権の枠組み自体は動かない。だからこそ、国民は政権党にお灸をすえるという行動をとりやすい。また、小泉首相は政治の無力を体現するという意味では、ヨーロッパの首脳以上の好例となっている。構造改革といいながら、年金改革に現れたように、結局は国民の負担増・受益削減という安易な政策転換が帰結されただけである。外との関係では、思考停止のままアメリカに追随し憲法の制約は無意味となった。小泉政権の三年間の事跡は、政治の力によって社会や経済をよりよく変えていくという民主政治のモデルが日本でも崩壊したことを物語っている。

 だからといって、国民は怒っているわけではない。この点が、たとえば八九年の参議院選挙の時と大きく異なっている。民主政治への倦怠が広がる中で、新しい選択肢を希求するエネルギーは低下している。小泉首相の場合、他の自民党の政治家のイメージがあまりにも悪すぎたので、飽きが来るのが遅れているという幸運があるだけである。

 通常国会終了後の世論調査が示すように、選挙が近づくにつれて、このまま小泉政権にやりたい放題させておくべきではないという国民の警戒心が高まりつつある。参議院選挙では、自民党は思わぬ苦戦を強いられるように思える。投票率は昨年の衆議院総選挙から大幅に低下するに違いない。しかし、わざわざ投票所に行った有権者は、鬱屈した不満を非自民への投票という形で表すであろう。

ただし、そのことが小泉首相に大きな打撃をもたらすことはないであろう。自民党の古手政治家が小泉首相の責任を追及しだせば、そのことが小泉のイメージを浄化するからである。特に参議院選挙の場合、比例代表に族議員の見本のような候補がたくさんいるわけで、その種の古い政治家に敗因を着せることもできるであろう。

 民主政治への倦怠という重い現実を前に、メディアも、我々学者も、政治に関する議論のあり方自体を変えていくことが求められている。もちろん、日本とヨーロッパとの違いは大きい。EUという大きなプロジェクトに取り組み、一定の成果を挙げたヨーロッパ各国の政治的力量に比べ、日本政治など貧相なものである。政治の力で社会や経済を変えていくという可塑性の感覚を取り戻すために、なすべきことは多い。

(週刊東洋経済7月10日号)