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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
戦後の終わりをどう迎えるか
山口 二郎
 
 

 八月一五日は、アジア太平洋戦争の犠牲者に思いをはせ、日本の生き方を考える節目の日である。来年で戦後も六〇年となり、戦争について直接の経験者から伝承を受けるという意味での戦後はもうすぐ終わろうとしている。私自身、戦後民主主義について教示を受けた学界の先達を最近相次いで喪い、そのような感懐を深くしている。戦後の終わりを間近にして、戦後日本のあり方を熟慮することが求められている中での終戦記念日である。

 世代の入れ替わりとともに、戦後日本の生き方を問い直し、新たな針路を示す憲法を作り直そうという声が出てくることも、自然なことかもしれない。ただし、そのような作業は戦争犠牲者に対する敬意と戦後日本の来し方に対する十分な検証に基づかなければならない。

 学徒出陣で九死に一生を得た吉田満の戦記小説『戦艦大和ノ最期』に、沖縄に向けて特攻出撃する大和の艦内で、学徒兵たちが自分たちの死の意味について議論する場面がある。戦争の帰趨は明らかで、日本が一日でも早く降伏する方が犠牲者は少なくなるという状況では、国を守るためという建て前を信じる者はいなかった。ある学徒兵が、自分は日本人の目を覚ますために死ぬと言った。私は、この言葉の中に戦争の犠牲と戦後日本の生き方を考える鍵があると思う。

 ほとんどの日本人は、積極性の違いはあれ、戦争を支持した。一九三〇年代に戦争と全体主義の泥沼にはまり込む手前の段階で、平和と民主主義のためにぎりぎりまで闘った政治家や言論人もいた。しかし、結局は日本人の無知と臆病のために、軍指導者の無謀な戦争をとめることはできなかった。為政者が私利私欲のために誤った国策を採ることのないよう、国民が国の主人公として、正しい情報をもとに政治を見守り、適切に発言できる「目覚めた」存在であることこそ、戦陣に倒れた人々の願いであった。そして、戦後憲法は国民が国政の主人公であるための基本的なルールであった。イラク戦争を引き起こしたアメリカの現状を見れば、民主主義の国といえども、国民が正しい情報をもとに国策の誤りなきを期すことは、決して容易ではないことが分かる。

 最近、憲法改正を求める声がにわかにかまびすしくなった。自民党の首脳が訪米し、アメリカ政府高官の威を借りて憲法九条が日米同盟の障害になっていると主張した。経団連会長が九条を改正し、日本も武器輸出ができるようにすべきだと主張した。彼らの心算は見え透いている。自民党の人気が低落する折から、小泉政権の最大「与党」であるアメリカのご機嫌をとりたいとか、不景気の折から武器を輸出して金儲けしたいといった短期的な打算が改憲論の動機である。イラク戦争という愚行を犯して反省もしていないアメリカと一蓮托生の関係になることが本当に日本の安全を確保する道なのか。世界中に武器があふれ、紛争やテロに日本製の武器が使われるかもしれないことが、日本の国益にかなうのか。常識人なら当然思いつく疑問をすべて封じ込め、この種の勇ましい議論は罷り通っている。

 将来国連を中心とした国際的警察活動が実行可能となるとき、日本が自衛隊を使ってこれにどのように参画するかを議論することは有意義であろう。その意味で、憲法を変えることが悪だとは私も思わない。しかし、そのことと、権力者や経営者の私欲のために九条を改正することとは、まったく別である。

 戦争犠牲者を悼むということは、形だけの式典を行うことではない。今の日本人が本当に国の主人公として、国の動きについて責任を果たしているかどうかを自ら検証することこそ、戦争犠牲者に報いる道である。目先の利益を追うことやムードに流されるままに、十分な思慮もなしに国の生き方を変えることは、目覚めた国民のすることではない。

(山陽新聞8月15日)