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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
ニッポンの論客 山口二郎
 

 山口の目標とする政治的価値は「平等」と「平和」。著書『戦後政治の崩壊』で触れているが、イタリアの政治学者ノルベルト・ボッビオによれば政治における「左と右」の概念はいまだに有効であり、簡単に言えば、(機会の)平等を求めるのが「左」、それを否定するのが「右」。対外的には非軍事的領域(=ソフトパワー)に重きを置いた、カナダやスウェーデンのような「ミドルパワー」としての日本。「役割を終えた」社民党の「社会民主主義」ではない「第三の道」を説く。ごく真っ当なことを主張しているにすぎないのに、「平等」「平和」と正面切って言葉を発するのを逡巡させる日本社会の空気に異議がある。「左翼で何が悪いんでしょうか」。

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 岡山で育った。読書好きの兄の影響を受けて「早熟な子ども」だったという。中学校で井上ひさしをほぼ読破、安部公房や北杜夫に親しみ、高橋和己の『わが解体』『悲の器』まで読んでは、読書ノートをつけた。J・Sミルの影響を受けたという戦中派の社会科教師が語った歴史観や人生観が面白く、社会科が好きになった。一九七三年の長沼ナイキ基地訴訟の自衛隊違憲判決で自衛隊の存在に疑問をもった。石油ショックによるトイレットペーパーの買い占め騒動もよく覚えている。小学校の教師でのちに校長になった父親が毎号読んでいた『文芸春秋』もよく読んだ。立花隆による田中金脈のルポを読んで、ジャーナリストというのはすごい、と思ったのもこの頃である。香山健一や佐藤誠三郎など「保守系」の論考を読んでは「子供っぽい正義感」で反論を考え、美濃部都政など革新自治体の正しさを信じていた。

 高校は地元の名門、公立高の操山。同学年には作家の原田宗典、グラフィック・デザイナーの原研哉がいる。山岳部に入部、熱心に登った。生徒会長になり、学校の機関誌で「高校生はどう生きるべきか」といった文章を書いた。最も影響を受けたのは、二年生の末に起きたロッキード事件だった。田中角栄前首相の逮捕という現実を目の当たりにして、教科書にある民主主義の理念など嘘っぱちだと感じた。こんな政治を正すには? と漠然と考え始め、「政治を論評するジャーナリスト」を志望した。丸山真男の『日本の思想』をひもとき、学校の図書館で毎号『朝日ジャーナル』を読み、狭山事件を追及した『世界』の野間宏の連載や『展望』に目を通した。丸山をはじめ、東京大学の錚々たる政治学者の名に親しんでいたそんな少年が、当の大学をめざすのは自然だった。

 「絵に描いたような秀才」として入学、マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を題材にした社会学者・折原浩の講義を受けて、「これが大学の学問なのか」と感動した。そんな折原に、期末のリポートを褒められたこともきっかけで、二年生の終わりごろから学問の道を志すようになる。学生生活は地味だったというが、法学はともかく政治学の勉強はみな楽しかった。京極純一、篠原一、福田歓一といった戦後啓蒙の「大先生」、斎藤真(アメリカ外交史)、渓内謙(ソ連政治)…。勉強は順調に進んだ。助手になる前、斎藤から西尾勝(行政学)を紹介され、日本の政治学でまだ手薄とされた政策決定過程を研究する。

 助手の任期を終える八四年、北海道大学助教授の席を西尾から薦められ、一も二もなく引き受けた。北大には、東大政治学の「継承者」「分家」であると同時に、重苦しい権威から自由だというイメージがあった。東大には「アンビバレントな感情」を抱いていたこともある。また、社会党のホープだった横路孝弘を知事に担ぐ「勝手連」の運動が起こるなど、北海道の政治的土壌にも魅力を感じた。

 北大に移ったあとの八七年、初の著書『大蔵官僚支配の終焉』で注目されたが、大きな転機になったのは、その年の米・コーネル大学への留学だった。特に八八年の後半、日本社会をおおった昭和天皇をめぐる「自粛」ムード。アメリカで報道に接しつつ、永井荷風が大正天皇崩御のころに書いた『断腸亭日乗』も読みながら、プレモダンな同調主義が現代の日本に現れたことに衝撃を受けた。渡米していた酒井直樹(日本思想史、現コーネル大教授)と議論をし、『世界』に天皇論を執筆する。これが論壇に書く機会を「手ぐすね引いて待っていた」彼の論壇デビュー作となる。

 九三年には『政治改革』を書いて細川政権が誕生し、地方分権や情報公開の制度がまがりなりにも進展した。「われながら時代の半歩先を行っていました。ラッキーだった」と振り返るが、同年に大きな論争を呼んだ「創憲」論を軸にした「平和基本法」の共同提言については「見込み違いだった」という。社会党が予想外に早く政権について自衛隊容認、日米安保堅持の姿勢に転じたこと、自民党政権がいまだに続き、憲法の基本的価値を軽んじる声がこうまで大きくなるとは思わなかったこと……。こうした誤算も踏まえ、改憲の動きに同調するのは賢明ではない、といまは考えている。

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 北海道に移って二十年。東京にいたら「強者の視点」で政治を見ていたかもしれませんね、と山口は言う。道内は隅々まで歩いた。「自治体の知己も増えたし、土建屋や農協の人たちとつきあうと、間違っても竹中(経済財政・金融担当相)のような発想にはならない。鈴木宗男的な政治をけしからんと批判するのは簡単だが、中央との経済格差に悩む実情を見ると、竹中とは違う選択肢を示さないと説得力がない」。

 編著『日本政治 再生の条件』にもあるが、彼が考える「市民の役割」とは、「観客」として国政を評価するとともに、「出演者」として「手の届く政治」で公共性を論じ、選択の声を上げることだ。彼自身、自宅そばの並木の伐採計画を知り、反対運動の代表となって署名集めやビラ配りをして役所と交渉、道路の設計を変更させたことがある。これについては、反対運動に疲れ切って自宅に帰り、ふと子供の『木を植えた男』(ジャン・ジオノ)の絵本を読んで涙を流しそうになった、とあるエッセーで書いている。

 そんな彼からみると、昨今の若手学者にはいらだつ。選挙に関する数量的分析など実証研究は少なくない。だがそれは「単純な仮説を立てて論証するだけなんだから、言っちゃ悪いけど簡単なんです」。そんな「細かいテーマ」を追ってばかりいる研究者が多くて、最近は学会でも議論が成立しないとぼやく。人間が合理的存在でありえない以上、政治学は「ピュアなサイエンス」ではない、あるべき政治の枠組みを論じるのが政治学者の大きな仕事のはずだ、しかし、それに必要な相応の訓練や芸当が伝承されていない、と批判する。二学年上には国際政治学の藤原帰一(東大教授)、酒井哲哉、一年下には政治学の杉田敦(法大教授)といった才能がいるが、いまの若手の世代は…。

 実際、北大に個性派の若手を集めようという夢を追いかけてきた。山口の愛読書は『魔術師』(立石泰則著)。プロ野球の西鉄黄金時代を支え、中西太や稲尾和久など野武士と称された選手たちを率いた三原脩監督を描いた本である。

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 多くの教示を受けた石川真澄や、高畠通敏といった論客が最近鬼籍に入る一方、篠原一、松下圭一という「市民派」の先達が発言を続けている。「日本政治を戦後から見つづけてきたお二人からすれば、政治は少しずつでもよくなっているわけで、楽観的なんですよね。これは学者の美徳でしょう」と話す。松下といえば、学生時代は「政治の預言者」のように映って憧れた。社民主義陣営のブレーンで『現代の理論』編集長だった安東仁兵衛から「お前を見ていると若い頃の松下を思い出す」と言われてうれしかった記憶がある。

 「政治を書くのに疲れきった時期もあったのですが、最近あと五年は頑張ってみようかという気になってきました」。政権交代がふつうに起こり、「左」の政治的価値が実現するまでまで、楽観的であり続けなければならない。(文中敬称略)
 

文/朝日新聞社 高橋伸児
写真/同 久松弘樹

(論座10月号)