この数ヶ月様々な分野で既成の権威の崩壊を物語る事件が相次いだ。驕れる者は久しからずという金言を今ほど痛感する時も珍しい。最も分かりやすいのはプロ野球の世界での出来事である。プロ野球界を事実上牛耳ってきた渡邉恒雄氏が巨人軍オーナーの座を退き、西武の堤義明オーナーも社会的活動からの退場を余儀なくされた。理由はそれぞれ違うが、裏金で人を篭絡するとか、社会に対して虚偽の報告をして私益を図るといったやり口が通用しなくなったことが、事件の本質である。嘘、ごまかしを常識の一部としてきた日本の世の中も、大きく変わり始めたように思える。
他方、私以下の世代の者は、生まれて初めて世論が圧倒的に支持するストライキというものを見た。主筆の意を体した『読売新聞』社説による選手会批判にもかかわらず、国民は選手会の戦いを応援した。国民に対して理念を説明し、理解を得ようとする努力に関して球界の首領と選手会との間で天地の違いがあった。愛するチームをオーナーの都合で勝手につぶされてはかなわないというファンの怒り、野球を愛する人々の思いを共有した点に、選手会の勝因があった。野球という人気のあるテーマで、ナベツネという明確な悪役が存在したという条件があったことは割り引かなければならないが、大義名分をはっきりと掲げ、自らの主張のために果敢に行動することの意味を軽視してはならないというのが私の感じた最大の教訓であった。言い換えれば、戦う前から諦めてはならないということである。
そして政界では、橋本派が瓦解寸前の有様である。この派閥の前身の田中派、竹下派が日本の政治に二重権力構造を作り出し、民主政治をゆがめたことを思い出せば、隔世の感がある。橋本派などに対する小泉首相による改革の揺さぶりに、政策的な意義があるとは思えない。また、改革なるものは不徹底で、政治的な思惑に基づいていることも確かである。しかし、小泉改革を契機に、族議員と官僚が長年築いてきた利権政治の仕組みが暴露されていることの意味は大きいと言わなければならない。
現在の政治を語るとき、我々は往々にして危機という捉え方をしがちである。もちろん、対米軍事協力の拡大や教育現場における思想統制を見るにつけ、高橋哲哉氏のように現在をファシズム「前夜」と捉えることにも理由はある。前夜がファシズムの当日に進まないように戦うことも必要である。しかし、そうした戦いを持続するに当たっては、古い秩序の崩壊を面白がる感性も、ある程度は必要ではなかろうか。ナベツネ、堤、橋龍といった権力者さえ、情報公開の趨勢の中で自らの行動に関する説明責任を果たせないならば公的地位を維持することはできなくなったのである。表と裏の二重構造を特徴としてきた日本の秩序は、至る所で破綻しているのである。イラク戦争に関する小泉首相の説明拒否の態度に対しても、アメリカ、イギリスなどの事態の展開を受けて、早晩厳しい世論の批判が起こるであろう。
日本の政治で二重構造を作り出した権力者が、野中広務氏に代表されるように、平和や平等に配慮していたことが問題をややこしくしている。橋本派が小泉およびその一党によって打倒されることは、民主主義の危機のように見える。しかし、後戻りはできない。旧式の権力者の度量で民主主義や平等を守ってもらうという時代ではない。
今は、五十年に一度という時代の変わり目である。政治や社会に関する古い常識が音を立てて崩れている。政治の閉塞を嘆くのは容易である。しかし、いくつかの地方における政治の実験が物語るように、市民の動きによって古い権力の壁を崩すこともまた、昔に比べれば容易になっている。圧制や強制と戦う運動も重要であるが、古い秩序の崩壊を好機と捉え、地域において新しい政治を作り出す動きに楽しんで参加することも必要である。
|