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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
膨張する官と萎縮する民―金融社会主義の病理―
濱田 康行
 
 
 
 復活官庁

 わずか8年間で職員定員が3倍以上になった官庁がある。それは金融庁だ。国家公務員は減員がこの10年の大方針。130万人にもふくれ上がった官僚天国への国民の潜在的敵意が、郵政民営化も国立大学の法人化も実現させてしまった(しまう)のである。そんな中で、ひとり勝ちした官庁があったのである。発足以来、いくつかの機関を併合したとはいえ、400人から1,300人への膨張は異例である。

 金融庁(当時、金融監督局)がなぜ誕生したかといえば、それは旧大蔵省を巻き込んだ汚職・収賄事件が発端だった。接待を受け、見返りに未発表の経済情報をリークしていた。事件は日本銀行にも及び、外国人にもTANKANで知られる短期経済観測が民間のシンクタンクにリークされていたことが露見した。いまでもそうだが、こうした情報は時によっては金利や外国為替相場の動向に影響するので、発表前のリークはその筋の人々にはまさに値千金であった。

 事件は発覚し、多くの逮捕者を出したあげくに旧大蔵省は予算の官庁としての財務省と金融機関の監督部門の金融庁に分割された。

 一見、不思議なことだが、金融庁の突出した復活ぶりに異議を唱える者はいなかった。いつも官庁勢力の膨張には反対する民主党をはじめとする野党も1)、また自民党の中の反大蔵族も黙認したまま事態はまことに順調に経過した。それはなぜであろうか。

 金融機関の公共性

 次のような暗黙の合意が日本全体を覆っていた。日本の金融機関の一部が危険な状況にあり、このことが治安の維持などと同じように公共財としての金融システムを危くする可能性がある。

 こうした認識が共有されていれば、治安の悪い時に警察官の増員計画に誰も反対しないように、金融の世界での“治安維持”のためには規制強化と監督強化、それを実施するための人員増強は当然だということになった。

 だが、金融と治安のアナロジーには論理の飛躍がありそうである。小論ではここで飛び越されてしまったものを考えてみたい。その際のキーワードは銀行あるいは金融機関の公共性である。

 誰でも知っているように、日本の金融機関のほとんどは、株式会社と協同組織の違いはあるものの、民営である。だから明らかに、治安や消防の世界とは違っている。今日ではPFIという言葉が流行し、なんでも民営といえば通る時代だが、警察のPFIを主張する人はいないだろう。

 焦点は金融機関の公共性とは何かであるが、ここでは要約して述べよう。2)

 資本主義経済における経済主体は次の三つに分類される。公共分野。これは、治安、消防などがわかり易い例だ。他にどういう事業がこの分野に属するかは時代によって様々である。かつては多くの国でエネルギー系、運輸系がそうであった。ある時点で考えた場合に“これは利潤原理ではやれない”という社会的合意のある分野である。この分野で成立する公共性を「質的公共性」と呼んでおく。

 混合分野。利潤原理と公共原理が適当に入り混じっている分野もある。典型的なのは医療とか教育の世界である。これはサービスを受ける人が限定的で、使用料・料金が成立する場合に生じる。事業収入が利潤原理に見合えば民間も参入する。そうでなくなって撤退されてしまうと社会に重大な影響が出る場合、適当な比率で公営が成立する。公と民のどちらがメインか、両者の比率がどれくらいかは当該資本主義国の歴史と特性が決める。

 公営が存在するということは、同分野の利潤率の上限を押えることになるが、同時に公営があることで競争が制限されるために安定した利潤を保証することにもなる。混合分野に存在する公営・公共にも「質的公共性」が認められる。

 第三の分野は利潤原理の分野である。これは資本主義経済の主要な分野を形成する。しかし、この分野にも「公共性」らしきものを認識することができる。それは、私営企業の生産規模が拡大し彼らの生産物が市場のかなりの部分を占有し、かつ国民経済にとって必須の財・サービスを生産している場合である。いわゆる生活に必須の生産物が少数の企業にまかされているような場合、この企業は民営であるにもかかわらず公共性をもってしまう。ここで成立する公共性を質的公共性と区別して量的公共性と呼ぶ。

 量的公共性は資本主義社会では象徴的に次のように現象する。企業が成長し、その会社の株式が証券市場で取引されるようになることを“公開”と呼ぶ。欧米ではこれをGoing Publicと表現する。逆に、公開前の企業は私企業でありPrivate Companyである。

 以上を念頭に銀行・金融機関の公共性を考えてみよう。銀行が第三分野に属することは明らかである。だから、規模が大きくなれば公共性を持つという“量的公共性”の論理はここでも適用できるが、利潤原理で動いているのだから質的公共性は持ち得ない。

 結論から先に述べると、銀行(金融機関を代表させている)は上記二つとは異なる第三の公共性を持つ。

 ひとつの企業が倒産すると、そこと取引している様々な企業等に影響がでる。しかし、これをもって公共性を主張することはできない。銀行についても同様である。銀行は預金者や貸出企業に囲まれて存在するから、倒産すると周辺に影響する。銀行が大きければ、その影響も大きくなるが、それは量的公共性である。 too big to failという言葉がそれを象徴している。

 ところが銀行にはもうひとつ、しかも大方の業種の企業には生じないことがある。それは、ひとつの銀行が倒産すると他の銀行に波及するということである。あるビール会社が倒産するとしよう。それは決して他のビール会社の危機を意味せず、むしろ反対に歓迎すべきことかもしれない。ともかく、業界全体の危機ということにはならない。しかし、銀行・金融機関はそうではない。彼らは経営体としては独立しているが、ひとつのシステムを形成している。これを私達は金融システムと呼んでいる。「個々の危機が全体の危機を招く、だから個々の存在も公的である」というロジックで主張される公共性をシステム公共性と呼ぶ。金融庁が監督を強化し職員を増員し、あげくの果ては、個々の経営にまで立ちいたる根拠はこの公共性にありそうである。問題はこれを誰もが認めてしまうことである。

 さて、次のように考えてみよう。ひとつの銀行が倒産しても、それがシステム全体に影響するのを防ぐ・遮断してしまう装置・措置があったらどうか。たとえば、公的資金を注入し遮断してしまう。これができるなら、銀行の倒産は他の一般企業の倒産と同じことになる。取引先に中小企業が多く社会的不安が大きい際には連鎖倒産を防止する措置をとるとか、雇用不安が大きければ積極的な雇用対策をやる等々である。

 この遮断装置が充分に機能するのであれば、個々の銀行・金融機関に必要以上の干渉をすることはない。現実をみると、日本銀行の特別融資、預金保険機構、銀行の一時国有化や、一時的な公的資金の注入、そして間もなく実施されるペイオフなど、遮断を意識した対策、いわゆるセイフティネットに類するものはかなりある。だから、営利企業体である個々の銀行に“君達は公共性を持っているから干渉し監督する”というのは明らかに飛躍である。

 リレーションシップバンキングのすすめなどと言って金融庁は個別指導を強めようとしている。3)しかし、それはいきすぎた経営干渉であり、ビール会社にビールの味について注文をつけるようなものである。

 むすびにかえて

 日本の資本主義が成功してきたのは、民間セクターの経済エネルギーの発揮が自由であったからである。つまり経済的自由が保証されていたからであり、そうだからこそ様々な経営体の創造性が生み出されたのである。この逆だったのが社会主義国であった。ここでは官僚制がはびこり人々の自由を奪い、結果として、社会主義思想の理想とは逆に経済社会の創造性が失われた。いま、妙な事に、日本は金融社会主義に向って進んでいる。そして、これに反対する人がいないのである。これは目立たないが着実に進行している日本経済の本当の危機である。


1) 民主党はホームページ上で次のように主張している。
「日本経済がよみがえる道は、自民党を頂点とする政官業癒着を打破し」と述べているから、官の肥大化にはネガティブなのであるが、金融政策に関することになると「厳格な資産査定と十分な引き当て」が大原則となり、規則・監督強化、増員容認の姿勢になる。次をみるとむしろ姿勢は自民党よりも強力にみえる。
「小泉首相は、不良債権処理を公約に掲げている。しかし、その具体的内容たるや、主要行に対する検査回数を増やすことや、破綻懸念先以下の不良債権を2〜3年以内にオフバランス化することなど、本当にやる気があるとは到底思えないものだ。」
2) 下平尾勲 編著『現代の金融と地域経済』第7章「金融機関の公共性」(濱田康行)
新評論、2003年。
3) リレーションシップバンキングに関する諸政策についての批評は次を参照されたい。
濱田康行「リレーションシップバンキング論の盲点」、『中小商工業研究』第77号、2003年9月。
4) 量的公共性とシステム公共性が共存するケースも現実にはある。ある金融機関が大きすぎ、遮断が困難な場合が生じる。これはいわゆるtoo big to failが展開している型である。しかしこの事態をしても、金融機関への個別干渉(いわゆるプルーデンスや、自己資本規制の強要)の根拠にはならない。大きすぎて倒産させられないような巨大な金融機関を生み出してしまったことが問題なのである。そして、どうしても個別干渉が必要なら、そのような大銀行のみを対象とすればよい。


(東京財団 政策研究誌『日本人のちから』Vol.18 2005/3)