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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
平成ホリエモン考
濱田 康行
 
 
 
 騒動の大きさの割には、まことにつまらない結末となった。渦中の4人が握手する映像を見てそう思った人は多いであろう。

 つまらない終わり方だが、この事件が平成17年の冒頭の一大経済事件であったことは確かである。ここで、この騒動への経済学の見方を整理しておこう。

 ある人は彼のことを珍獣であるという。平成の信長は誉めすぎにしても、人を獣とは言い過ぎだと思うが、川のあぶくというのに比べればまだよいのかもしれない。ともかく、平成17年度の最初の国民的話題はかの人ホリエモンであった。

 報道の仕方もあるのだろうが、案外に支持者が多い。50代の男性が支持しているというのは心理の問題としては興味深いが、ここでは経済学者の眼で何が見えたかを述べておきたい。

 珍獣は、時代の産物である。ここで言う時代とは、すべてのシステムをアメリカ型にするという風潮の上に乗っている現代、特にこの10年のことである。1990年代の失われた10年で日本経済は自信を喪失した。いまから振り返ってみれば、GDPの伸び率がアメリカに比べて劣ったなどという実損はわずかなものであり、精神的な喪失の方がはるかに大きい。このおかげで、日本経済は次々とアメリカ方式を受容した。それこそ、金融ビッグバン、規制緩和、リストラ、株価経営、企業買収、時価会計となんでも導入した。問題なのはこれらを、グローバリズムとか市場原理というラッピング(包装紙)で包んで丸飲みしたことである。実態をみると、これらの多くのものは日本の胃袋の中で消化不良となっており、包み紙の市場原理もかなり色あせているのだが、イデオロギー的には健在で、その主導者である現在の首相は未だに強気である。

 日本の伝統的(守旧派)経済界は、自信喪失の故に、このアメリカ主義−多くの論者が認めるようにグローバリズムの実態−を総論賛成という立場で容認した。しかし、各論では違っていたようだ。三菱自動車や、カネボウの不祥事をみるまでもなく、日本の企業の多くは旧態依然だった。旧来のシステムの上に乗っているだけで、あまり革新的努力をしなくても利益が出る企業は特に変化を望んでいなかった。広告料という安定収入に頼り、社員の平均年収が1500万円のテレビ会社があり、1200万円のラジオ会社があったのだ。しかもこれらの会社には法律で特権が附与されていた。

 珍獣は実は彼らが容認した総論が生み出したのだ。アメリカ主義を是とすれば、彼が言っていることはたいていの場合合理的である。“会社は株主のもの”、商法上は当然そうだし、“金で買えないものはない”とか“金を持っている人が偉い”という問題発言も実は資本主義の否定しえない一面でもある。さらに“問題”とされる時間外取引にしても闇買い占めではなく合法的である。むしろ、この事件をみてあわてて法律や規制を変えようとする方がみっともない。

 日本には1980年代から何度か、ベンチャービジネスブームというのがあった。戦後に日本経済をリードしてきた大手企業が成長速度を下げ雇用面ではむしろ“失業づくり”の側にまわった時、誰が雇用を生み出すのかという大問題が生じた。公的部門が雇用を増やすということは財政危機の下では使えない。そんな折に、アメリカ経済を横目に見て日本が学んだものがベンチャービジネスという和製英語が指し示す新しい企業群だった。ベンチャービジネスは最初の頃(1980年代)掛け声ばかりだったが2000年に至るITブームで実体をもって展開した。多くのITビジネスが誕生し、国は全省庁を挙げて応援した。地方自治体は先を争ってIT都市の看板を掲げ補助金獲得競争に血眼になった。ITベンチャーにも大きな資金が流れた。しかし、2000年の後半になるとIT分野の過大投資が世界的なレベルで顕在化し、多くのITベンチャーが断崖から落ちるようにして消え去った。

 ITベンチャーへの資金供給も今から振り返れば喜劇的でさえあった。ベンチャー企業に資金供給をする機関をベンチャーキャピタルというが、この調査をし統計作りをしていて驚いた。数年前に設立されたばかりのキャピタル会社(投資会社)の年間投資額が1千億円にも達していたのである。そのうちのひとつは今回の騒動にも途中から登場している。そして株式公開のルールが改正され、ベンチャーキャピタルに育てられたITベンチャーが次々と株式公開を果たし社長をはじめとして多くの人が公開長者になった。こうした成功者の一人がホリエモン氏である。ライブドアという会社の前身が東証マザーズに株式公開したのは2000年の4月であり、その時に市場から調達した資金は60億円であった。ベンチャーブームを推進したのは日本経済の本流なのであり、官民こぞってこれに邁進していたのである。ベンチャーブームは日本の資本主義が経済再生をかけて選択した道であったのだ。だからホリエモン氏は相続人かどうかはわからないが1990年以降の日本経済の子供のひとりなのである。

 “飼い犬に手を咬まれる”という例えがあるが、今回のは、我が子に手を咬まれた訳だ。だからショックも大きい。そして、咬まれた側の反応は、一様に自分の子供として認知しないことだ。もはや生まれてしまっているのだから“流産”もできず、最後の手は日本資本主義という戸籍に入れないことだ。きっと、彼はどの資本家団体にも加盟させてもらえないだろう。もっとも、そんな事は彼の方が望んでいないだろう。仙台のプロ球団の件は拒絶の第一弾であった。彼を嫌う人々は強引に楽天を引き出し“当選”させてしまった。

 紙の資本主義

 グローバリズムに反対したり、精神を強調したりすると国粋主義者と同一視されてしまうのだが、ここで指摘したいのは、国の歴史と風土から生み出される精神を持たないで、外国主義を鵜呑みにすることへの危険性と、危険が現実になった際の反応の頼りなさである。フジ・サンケイグループの理論的支柱の一人である西尾幹二氏が、ホリエモン氏からアメリカ主義を推進した官僚、果ては件の判断を示した裁判官までを含めて“無国籍者”1)と呼んでいるのは、西尾氏の立場からすれば当然だろう。

 さて、今回の騒動からみえたもうひとつの事、それは私達が紙の資本主義の中にいるということだ。今回のゲームでのホリエモン氏の第一手は、転換価額修正条項付き転換社債型新株予約権付き社債(MSCB)という聞き慣れない社債の発行である。社債は紙なのであるが、これを誰かが買ってくれるとお金になる(現代ではお金も紙である。また実際には紙の社債も発行されない)。そのお金でニッポン放送の株式という紙を買う。ニッポン放送はフジテレビの株式を持っている。対抗して、ニッポン放送は新株予約権を発行しようとしたが、これは紙の予約(将来の紙)である。現象的には一方で紙キレを出し、他方で紙キレを受け取る。

 資本主義が発展してくると、実物資産から金融資産への分離が進む。金融資産が実物資産から独立して一人歩きをする。製鉄会社が溶鉱炉を建設すればこれは実物であるが、その資金を株式発行で集めればここに株式という紙の資産が形成される。実物が残らない場合もある。国が戦争をするために国債を発行し資金を得、これで砲弾を買う。それを戦争で使ってしまうと残るのは国債という紙だけである。しかし、ひとつのものが二重に存在することはありえないし、後者の場合には現物は硝煙として消えてしまっている。つまり証券の世界には架空性の影が付きまとう。有価証券は請求権であったり、持ち分であったり法的性格はいろいろだが、それで集めたお金がどう使われたかで架空性を持つ。発達した資本主義はこの二重性や架空性をむしろ利用する。利用して発達したのである。いわゆる証券資本主義であるが、それは必然的に生産現場から遊離する。今回でも、テレビ局やラジオ局で人々がどう働いているか、何を生産しているかは双方ともにあまり触れない。支配権を持ったら、あるいは保持し続けていたら、生産現場をどう変革するという現場の話は出ない。ホリエモン氏からは“インターネットとメディアの融合”のスローガンは聞かれたが、生産現場に即して具体的な提案が述べられることはない。防衛側も、経営者も従業員も“いまのまま”がよいとか、フジサンケイグループに残ると繰り返すだけで、やや保守的である。当事者双方がより関心を示すのは働く現場とか製品(番組)とかよりも株価なのである。

 日本とアメリカの資本主義の差のひとつは、紙の世界と実物の世界の距離と関係の違いである。アメリカでは両者は切り離されている。生産現場の人々は誰が紙を所有していてもよいと思っているし、紙の所有者は紙の価格にまず関心がある。紙の価格を決める要素に生産現場の効率性等の状況がある限りで、現場に感心を示し“経営”する。日本の場合の多くは生産現場にいて出世した人が社長になるが、彼らは紙の所有者でないことが多い。むしろ紙の世界があまり見えなかったのが日本の特徴である。株主軽視という批判もあったが、ともかく株主資本主義ではなかったのだ。どちらが良いと言うのではない。日本で株主経営にならなかったのは日本の資本主義の歴史が背景としてある。

 実物の世界の改善・進歩は、日々の積み重ねでしか達成できない。工夫とか努力で少しずつ生産現場はよくなる。これは足し算の世界である。だから一度に悪くなることもない。生産現場に割り算や掛け算はない。しかし、紙の世界ではこれができる。ライブドアという会社は株式分割を4度もやっている。2004年には100分割という離れ業までやり、結果として創業時の1株は現在の3万株に相当する。しかし、生産現場ではこういうことはありえない。経常利益50億円の会社が、リーマンブラザーズというアメリカ資本を相手に800億円の発行・調達をするという曲芸も紙の世界ならではである(大前研一氏のいうマルチプル経済『文芸春秋』2005年5月号)。

 日本の古き良き時代の経営者は、日本の企業は人本主義、つまり従業員が財産であると言い、ホリエモン流・アメリカ式は間違っていると主張する。しかし、いまさらの感だ。日本は日本流を捨てたし、資本主義の進む方向はアメリカ式に近いのである。

 今回の騒動のメリットがひとつある。それは連日のワイドショー的報道(NHKも含めて)で、普段なら耳にすることのない証券界の特殊用語(クラウン・ジュエリー、ポイズンピル、ホワイト・ナイト、焦土作戦etc)の意味が広く流布され、この世界が普通の人々にも身近になったことである2)。そして伝統的企業には乗っ取りということへの啓蒙効果もあった。事実、多くの上場企業が株価を意識して増配を決めている(2005年の3月末決算の結果、増配する上場企業は500社以上にのぼる)。

 ジャーナリズム

 ひとつの論争は、インターネットとジャーナリズムの関係だ。“テレビを殺す”というホリエモン氏のコメントをめぐってであるが、ジャーナリズムが不要という主張は極論である。無限ともいえる情報から、伝えるべきものを選択してくれるジャーナリズムの役割は不可欠である。“自分で選べばよい”というのは一見、理屈だが実際には無理だ。インターネットに第一次ナマ情報を大量にそのまま載せ、見た人が選んでいくというのはニュース選抜の直接民主主義のようだが、日本の状況ではすべてが“2チャンネル”化になる危惧がある。立花隆氏が言うように、それでは私達はゴミの情報に埋まってしまう(立花論文は『文芸春秋』2005年5月号)。この点、ホリエモン氏にジャーナリズムへの思想がないと言われても仕方がない。しかし、彼の年齢を考えれば、なんでも知っていなくて当然である。むしろ、同年代では突出して物を知り、かつ行動的である。

 むすびにかえて

 その昔、対米従属という言葉があった。好んで日本の左翼の使った言葉である。しかし、現在の状況はビジネス慣習、ビジネス文化の対米従属である。そして、それを容認してきたこの国の支配的勢力が、その結果として出現したもののあまりに異様な姿に驚いている。背広とネクタイの世界に闖入したTシャツスタイルの若者に戸惑っている。しかし、彼は信長でも珍獣でもない。日本の資本主義の子供のひとりなのだ。彼に哲学がないといっても始まらない。彼に哲学は必要ない、必要ないというのが彼の哲学である。生産現場にあまり関心がないことも非難の対象にはならない。マネーゲームを正統なゲームとみなし奨励したのは誰あろう日本資本主義の本流を自認する人々であった。ホリエモン氏は意図的か無意識かはわからないが、それを学び体得している。

 今後の方向で心配なことがひとつある。それは、アメリカ主義がこの事件を契機に反転して保守・国粋主義になってしまうことだ。事の背景にはアメリカの陰謀があるなどという主張もある。日米投資委員会の結論は、日本企業をアメリカ企業が買収し易くする方向であり、それが三角合併(株式変換を利用した国境を越えた吸収合併)であると警戒する人もいる。しかし、現状から一挙に反転して国粋主義にいってしまうことは更に危いところに日本を導くことになる。日本は世界と離れて孤立して存在することなどできないのであるから。

 ホリエモンという珍獣が平成17年の初め日本を徘徊した。そして、それを報じたワイドショーから見えたのは日本の資本主義の動揺・ゆらぎであった。


1) 西尾幹二「歴史と民族への責任」第三回、『正論』2005年5月号。

2) 様々な用語解説は上記『正論』5月号の宮崎正弘論文にある

(全国信用組合中央協会『信用組合』2005.5)