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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
アジアのなかの日本、アジアのなかの北海道
宮城 大蔵
 
 
 
 赤レンガ庁舎と首里城

 北海道庁赤レンガ庁舎の前を通って、毎日大学まで通っている。日本離れした洋風の瀟洒な外観と存在感あるたたずまいは、人口200万近い大都会・札幌の中心にあって、北海道開拓の気概を一身に体現しているかのようである。春夏秋冬変わることなく、たくさんの観光客が盛んにカメラのシャッターをきっているのを目にする度に、新参者の北海道民である私もいささか誇らしい気持ちになる。

 私事であるが、数年前には沖縄に住んでいた。はからずも北海道と沖縄の両方に住むことになり、ともすると均質性、同質性を特性として語られる日本という国が、実のところたいへん立体性に富んだ国ではないかとの思いを深くしている。

 北海道と沖縄の差異は、自然・風土の面では言うまでもない。沖縄では暑くて車のクーラーのスイッチを入れ、「そういえば今日は大晦日なのに」と、妙な気分になったものだ。

 沖縄から北海道に来れば、至るところに白樺を見て喜び、北海道から沖縄を訪れれば道端に咲くハイビスカスに感心するだろう。

 だが、一見して明らかな両者の自然・風土の差異の背後に、それ以上の歴史・文化の差異を見て取ることができる。北海道を代表する建築物である赤レンガ庁舎は、明治期の日本が、北辺たる北海道の開拓を進めることで、その統治を確たるものにするという決意の表明であった。当時のアメリカの流行を取り入れたという洋式の建物は、江戸幕府に取って代わった新政府の下、「近代化」に邁進する明治日本の姿を凝縮したかのようである。

 これに対して沖縄を代表する建築物といえば、琉球国王の居城であった首里城をおいて他になかろう。城という名はついていても、武士を担い手とする日本本土の城とは全く異なる。朱色に彩られた宮殿は、南国の強烈な陽射しの中に鮮やかに浮かび上がり、正殿とその前に広がる方形の空間は、あたかも北京の紫禁城の縮小版を見るようである。実際、「御庭」(うなー)と呼ばれる正殿前の広場は、琉球国王が即位するにあたって中国皇帝の冊封を受ける儀式が執り行われる空間であった。

 北海道と沖縄(琉球)。この二者を包み込むことで、今日に至る「日本」の姿は完成した。梅棹忠夫は、元来「日本文明」とは北九州から関東にいたる北緯35度という東西の線を軸に形成されたものであり、北緯43度という北海道の存在は、日本にとっての「壮大な実験」であったと論じた(梅棹忠夫「北海道独立論」『梅棹忠夫著作集』第7巻、中央公論社、1990年)。それはまた、北緯26度(那覇市)という亜熱帯の沖縄についても言えることであろう。

 それにしても赤レンガ庁舎と首里城という、北海道と沖縄のそれぞれを象徴する建築物は、見事なまでに対照的な性格を帯びている。前者が「内地」からの移住を柱に、西洋文明の技術を取り入れ、「開拓」を進めることで成立していった「北海道」の姿を象徴するものだとすれば、後者は、日本と中国の間にあって独特な地位を占めた琉球王国を併呑することで近代日本の南端が区切られたことを示している。

 
 中華世界と日本帝国

 北海道と沖縄は、近代日本の中にあって、ある種の相似の位置にある。だが沖縄には、北海道における赤レンガ庁舎のような建築物は存在しない。狭隘な島嶼と稠密な人口、王国の下で確立した社会のありようは、「内地」からの移転を軸にした「開発」が入り込むことを困難にしたであろう。

 だが、そこにはもうひとつの大きな要因が存在した。日清戦争後の下関条約(1895(明治28)年)によって、沖縄に隣接する台湾が日本に割譲されたことである。植民地となった台湾をいかに「経営」するか。それは、当時の日本にとって巨大な課題であり、多くの人材と労力が投入されることなる。沖縄ではなく、はるかに大きな台湾が、北海道と並んで近代日本の「開発」の「フロンティア」となったのであったのは当然のことであったろう。

 それゆえ赤レンガ庁舎の「兄弟」(あるいは姉妹)にあたる建築物は、沖縄ではなく台湾に見出すことができる。台北の台湾総統府がそれである。日本植民地下で、台湾統治の要たる台湾総督府として建設され、現在は台湾の総統府として使用されている建物である。赤レンガ庁舎と比べると台湾総統府の方がはるかに規模は大きいし、道庁の屋根がドーム型なら、あちらはすらりと伸びた塔を戴いている。だが、赤レンガづくりで、そして何より権力の所在を誇示するような姿は、いずれも同時代には屈指の大建築であったという二つの建物の生い立ちの類似性を思い起こさせるに十分である。

 これに連なる性格の建物は、かつて韓国のソウルにも存在していた。日本植民地下で建設された朝鮮総督府である。石造りの巨大な建造物は、韓国独立後は中央博物館などとして使用されていたが、植民地支配の象徴であるこの建物を保存するか、それとも撤去するかで随分と議論が行われたという。結局、金泳三政権下の1996年に全面的に撤去された。

 旧総督府が解体されると、背後に隠れていた朝鮮王朝の正殿・景福宮が姿を現した。王朝の心臓部として機能したこの王宮は、いわば沖縄の首里城の「兄弟」「姉妹」にあたる存在である。琉球、朝鮮はともに中国皇帝に朝貢を行い、冊封を受けるという中華世界の一員であった。

 北京の紫禁城、沖縄の首里城、そしてソウルの景福宮を巡ってみると、確かな共通性を感じさせる三つの宮殿のたたずまいは、中国文明を主柱にした秩序がこの地域に存在したことを実感を伴って思い起こさせる。一方で、これに対する赤レンガ庁舎、台湾総統府、朝鮮総督府というもう一組の「兄弟」「姉妹」は、明治の日本帝国が、「近代化」と「開発」を前面に立てて近代の東アジアで中華秩序とは異なる秩序を築こうと試みたことを今に伝える。

 赤レンガ庁舎と首里城。北海道と沖縄を代表する二つの建物と国境を越えたその意味は、「日本」の成り立ちが起伏に富んでいることだけでなく、「日本」という国境の中だけでは、その意味を十分には捉えきれないことを示している。

 
 戦後日本とアジア

 第二次世界大戦を経て、日本とアジアを取り巻く環境は一変する。その中で戦後日本は自らの国境を越えて、何らかの意味を持つ存在だったのだろうか。

 近年でこそアジアは、経済を中心に語られる地域であるが、戦後のアジアは長きにわたって朝鮮戦争やベトナム戦争など戦乱と混乱の舞台であった。「一国平和主義」の下、経済成長に専念してきた戦後日本とはおよそ異なる世界であり、アジアに対して日本は「対米追従」以上の意味はなかった。それが一般的な見方なのかもしれない。

 共産主義か、否か。イデオロギー対立を軸に戦後世界は米ソ両陣営を中心に分断された。ことにソ連、中国、そして分断された南北朝鮮が対峙する北東アジアは、ヨーロッパと並ぶ東西冷戦の最前線であり、なかでもソ連を間近に臨む北海道は、日本における冷戦の最前線に位置づけられた。この怜悧な冷戦の構図の中で、日本は所詮は無力な存在であった。ソ連とは1956年、中国とは1972年、韓国とですら1965年まで国交を回復することすらできなかったのである。

 冷戦によって東方や北方を閉ざされた戦後日本は、外交的、経済的地平拡大の活路を南方に求めることになる。東南アジア諸国への戦争賠償が、その第一歩であった。例えば1957年に交渉が妥結したインドネシアへの賠償を見てみよう。岸信介やデヴィ夫人といった目をひく人物が登場することもあって、スキャンダルめいた印象の強いインドネシア賠償だが、それは少なからぬ国際政治的意味を有するものであった。

 インドネシアは、東南アジアの過半に迫る巨大な人口と石油などの資源、そして太平洋とインド洋をつなぐ地政学的要地を占め、今に至るまで海域アジアの「要」というべき存在である。だが当時のインドネシアを率いるスカルノ大統領は強固な中立主義者であり、アメリカはスカルノがいずれ共産陣営に傾いていくとの疑念を抱いていた。50年代後半にインドネシアで地方反乱が勃発すると、アメリカはスカルノ打倒やインドネシア解体を目論み、CIAを通して介入を行う。岸信介首相がインドネシアを訪問し、スカルノとの間で賠償交渉を妥結したのは、まさにその最中の57年秋であった。

 岸は、スカルノは共産主義者ではなく、何よりもナショナリストなのだと認識し、アメリカが支援する地方反乱にも成功の可能性はないと見ていた。これに対してアメリカは、賠償を端緒とする日本の進出を、それがスカルノ支援の意味を持つにもかかわらず黙認せざるを得なかった。

 スカルノは当時、依然多くの経済権益を有していた旧宗主国オランダの勢力を全面的に追放しようとしており、そこに生じる「真空」に中ソが入り込む気配を示していた。日本が、賠償という形をとってオランダに露骨に取って代わることは、アメリカにとって決して好ましいことではなかった。オランダは西欧におけるアメリカの同盟国であり、何よりアメリカ自身が反スカルノを掲げる反乱勢力に加担している最中である。だがそれらすべてを考慮しても、オランダ追放後の「空白」に中ソが入り込むよりは、賠償を契機に日本が進出する方が、はるかに「まし」なのであった。

 賠償を端緒とする日本の再進出は、オランダ追放という脱植民地化で生じた空白に向けて、中ソの浸透を懸念するアメリカの黙認の下になされた。賠償という戦争中の日本の負の遺産は、冷戦と脱植民地化という戦後アジアの二大潮流と絡み合い、日本の「アジア復帰」の契機へと転じたのであった。

 
 「独立」から「開発」の時代へ

 今日ではやや意外かもしれないが、1950年代の日本において「東南アジア」とは、インド・パキスタンなど、今日の南アジアも含む地域を指したといわれる。それは何よりもこの地域におけるイギリスの存在感を背景にしていた。

 日本では1945年の自国の敗戦を境に、戦前と戦後で20世紀を二分するが、世界のすべてが同様であったわけではない。かつて「七つの海を支配する」と謳われた大英帝国は、二つの世界大戦で著しく衰えたとはいえ、戦後も消滅したわけではなかった。1960年代までの東南アジア、ことにその海域部でイギリスは、シンガポールを拠点にマレー半島などに植民地を有し、依然、大英帝国の面影を保つ存在であった。その影響力の中軸を成すのがロンドンからスエズ、インドを経てシンガポール、オーストラリアへと至る線であった。南アジアを含むかつての「東南アジア」という地域概念は、この「西方からの軸」を濃厚に反映したものだったのである。

 それが徐々に南アジアを含まない、今日のASEANに重なる領域へと固まっていくのは、1960年代後半のあたりであろう。この変化をもたらしたのは端的にいって、この地域における脱植民地化の完遂であった。戦後世界で脱植民地化の潮流が抗することのできない圧倒的な流れとなる中、イギリスはアジアにおいても大英帝国の解体を余儀なくされる。それは同時に「建国の父」と称されたスカルノに代表される、独立の完遂を求心力とする指導者の没落をもたらすものであった。独立とナショナリズムを掲げる政治は、「植民地支配」という現実があってはじめて力を持ち得たのである。それに取って代わったのは、インドネシアでいえば「開発の父」スハルトに代表されるような、開発と経済成長を至上命題とする指導者であった。

 このアジアの変化は、経済進出という形をとった日本の関与の急速な深化と軌を一にするものであった。ロンドンから発する「西からの軸」が英帝国解体とともに実体を喪失していったのに代わって、経済を中心とした日米から東南アジアへという「東からの軸」が圧倒的な意味を持つようになって行く。独立とナショナリズム、革命と冷戦が横溢する「政治」の舞台であったアジアは、何よりも「経済」を軸に語られる、今日につながるアジアの姿に向けて猛烈な変容を始める。

 この「脱植民地化」から「開発」へというアジアの南半分を覆った流れは、実のところ「冷戦」を超えて、戦後アジアをその基底で特徴づける根本的な潮流だったのではないだろうか。戦後アジアで最も巨大な変化は、「脱植民地化」であった。かつてそのほぼ全てが植民地となっていたアジアが、戦後半世紀を経て独立国で覆われるに至ったという事実は、やはり根源的な変化であったというべきであろう。新たに独立した国家に建設の方途として左右の体制モデルとイデオロギーが提供され、その選択をめぐって「冷戦」というヨーロッパに始まった現象がアジアを覆うことになったのである。

 だが「脱植民地化」は、植民地支配の消滅とともに政治的意味を失う。代わって浮上したのが「開発」であった。開発と経済成長の波はやがてアジアにおける冷戦の一方の主役であった中国をも席巻し今日に至っている。「開発」を志向し、アジアへの経済的地平の拡大を一貫して求め続けた日本が、この構図の中で占める意味合いは重い。

 
 「一国史観」を超えて

 「冷戦」を通して見る戦後日本とアジアの関係は、分断と乖離として語られる。冷戦下で政治的にアジアに関与することは、アメリカの反共戦略の一翼を担うことを意味するものであり、それは左右を問わず日本国内の支持を得られるものではなかった。

 だが戦後日本を、上述したような「脱植民地化」から「開発」へという戦後アジアのもうひとつの、そしておそらく「冷戦」よりも根本的な意味を持つであろう流れに位置づけてみたとき、日本は戦後アジアの変容と分かちがたく結びついていることが、くっきりと浮かび上がる。

 日本は自らの歴史を戦前と戦後で二分するが、東南アジアに対しては、西欧諸国の植民地支配を駆逐した上で、そこに自らの経済的権益を確立したいという日本の衝動と欲求は、結局のところ、戦前も戦後も一貫していたと見ることも、あるいは可能なのかもしれない。そしてまた、明治・大正期の北海道と台湾で展開された「開拓」「開発」の蓄積は、戦後のアジア諸国が遂行した「開発」と、どこかで重なるものなのであろうか。

 いずれにせよ戦前そして「冷戦」で囲い込まれたように見える戦後も、日本の歩みは決して「国境」の内側で完結して成り立ったものではなかった。むしろアジア、そして世界の潮流の中に位置づけてみてはじめて、その意味と特質が浮き彫りになるのだといえよう。そしてまたこの小文で素描したように、「国境」の意味合いも、「地域」の括りも決して確たるものではなく、時代と状況によって変化し得るものなのである。

 国境によって区切られた「一国史観」を相対化してみたとき、時に平板に見える教科書的な歴史は、活き活きとした色彩と精彩を帯びて動き始めるに違いない。日中関係を筆頭に「二国間」の軋轢ばかりが耳目をひく昨今の東アジアであるが、国境を越えた潮流を把握した上で「地域」の将来を構想し、思い描くことで、生産的な突破口を見出したいものである。

(「しゃりばり」第281号 2005年6月20日発行)