本年4月、バンドン会議50周年を記念してアジア・アフリカの指導者が一堂に集まった。半世紀をはさんだ二つの会議は、戦後アジア・アフリカの変容を映し出す。
「50年という月日を経て、ついにアジア・アフリカは再びここに集まった」。今年4月22日、インドネシアのユドヨノ大統領はこう述べてアジア・アフリカ首脳会議の開幕を宣言した。1955年に開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)50周年を記念して、小泉首相を含むアジア・アフリカ106カ国の指導者が再びインドネシアに集まり、併せて閣僚級会議や経済界による「ビジネス・サミット」も開かれた。
今日ではもはや想像し難いが、第二次世界大戦終了時まで世界の大半は植民地で覆われていた。だが戦後、アジア・アフリカの植民地は次々と独立を果たす。バンドン会議は、これら新興独立国が参集する場として企図された。会議にはインドのネルー首相やインドネシアのスカルノ大統領など独立を担った各国の指導者が結集し、西洋列強が世界を支配した時代の終焉を鮮烈に知らしめた。会議は植民地主義反対や相互の連帯を確認し、その精神を「バンドン宣言」として採択した。この時、アジア・アフリカとは何よりも、独立を希求する人々を意味したのであった。
バンドン会議から10年後の1965年、北アフリカ・アルジェリアの首都、アルジェで第二回アジア・アフリカ会議が計画されたものの、開催直前に現地で発生したクーデターによって幻に終わった。しかし開催されたとしても会議は困難なものになったであろう。「反帝国主義」の貫徹を掲げる急進派(中国)と「平和共存」を主張する穏健派(インド、エジプトなど)が、激しい主導権争いを繰り広げていたのである。バンドンでは「独立の完遂」の下に結束したアジア・アフリカは、イデオロギー対立によって引き裂かれていた。
1970年代末には、かつての植民地の大半は独立を果たした。「独立の希求」に代わって、それぞれの国づくりの内実が問われる時代になったのである。バンドン会議の時代には同水準だった韓国と西アフリカ・ガーナの一人あたり実質国内総生産は、1975年には韓国が3倍、そして1990年代には10倍にまで差が広がった。東南アジア、北東アジアは開発と経済成長を至上命題とする体制の下で急速に経済発展を遂げ、「東アジアの奇跡」とまで称された。その一方でアフリカは政情不安定や経済の低迷にあえぐことになる。
そして今回の50年ぶりの今回である。首脳たちは「アジア・アフリカ戦略的パートナーシップ」を宣言し、政治、経済、社会・文化面で両地域が関係強化に乗り出すことを確認した。そして「行動計画」として貧困問題の解決、両地域間の貿易・投資の促進、多国間主義強化のための国連改革などを打ち出し、閣僚会議を2年ごと、首脳会議を4年ごとに開くことを決めた。
アジアが経済的に格差の開いたアフリカを支援する構図が垣間見える一方で、民主化を果たしたインドネシアと南アフリカが共同議長を務めたことは、21世紀のアジア・アフリカの課題と方向性を示唆するものかもしれない。いずれにせよ、これまで対話の枠組みのなかったアジアとアフリカの間に新たな「輪」ができたには違いない。
今回の会議を単なる「同窓会」に終わらせないためには、上記のような方向性に基づいて、21世紀の「アジア・アフリカ」に新たな息吹を吹き込む努力と実質が必要なのであろう。
▼コラム
バンドン会議と日本 |
1955年のバンドン会議は、戦後日本にとっても初めて参加する国際会議であったが、日本の立場は容易ではなかった。
結果的にアジア・アフリカ団結の場となったバンドン会議だが、その一方、参加国は当時の冷戦下にあってインド・中国など中立主義・共産主義諸国と、パキスタンなど西側寄りの諸国に二分されていた。
アメリカは西側寄りの参加国に、会議では積極的に反共産主義の立場を打ち出すよう求めており、日本にもこの要望が伝えられた。日本は会議を機に、敗戦で途絶したアジア諸国全般との関係再構築を望む一方で、アメリカとの関係にも配慮せねばならないというジレンマに置かれたのである。
結局日本政府はこのジレンマから脱するため、政治問題にはできるだけ関わらず、経済問題に専念するという方針をとり、高碕達之助・経済審議庁長官を代表に送った。当然、日本はバンドンで影の薄い存在であったが、それは冷戦によって二分されたアジアの一方のみを選択することを回避する方途でもあった。
バンドン会議はまた、日本と中国が戦後初めて政府レベルで接触する場となった。高碕が「まず第一に戦争中、わが国はお国に対し、種々御迷惑をおかけしたことに対して、心からお詫びしたい」と述べると、周恩来首相は「この50年の期間は、日本と中国との幾千年の友好関係から見るとまったく短期間の出来事であり」「長期的観点に立って日中両国の友好関係を如何にして持続するかについて、よく考えるべきだ」(外務省外交記録)と答えた。
バンドン会議当時の中国は、アメリカによって囲われた日本を、何とか自らの側に引きつけようと意を用いていたのだが、それにしても、中国での反日デモをきっかけに、「歴史問題」ばかりが焦点となった50年後の今回の日中首脳会談とは皮肉なまでに対照的である。
バンドンで、周の招待を受けた高碕は後年訪中し、国交回復以前に日中関係の柱となった貿易協定「LT貿易」の締結に力を注ぐことになる。
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