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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
論座 この十年の日本政治
山口 二郎
 
 

はじめに  戦後の終わりが見えてきた

 私自身が次第に年を取ってきたからか、最近時が経つのがとても速く感じられる。戦後五十年を論じたあの年から、もう十年が経ったのかという感慨がある。「戦後○○年」という言い方は、おそらくこの六〇周年が最後になるのではなかろうか。六〇年という二世代に相当する時間を経れば、戦後という言葉が意味を失うことも必然である。実際、政治、地方自治、安保外交、経済などあらゆる領域で我々が慣れ親しんできた「戦後」は終わろうとしている。

 戦後的なるものとは、大きな正と負の機能を持つ両面的な存在であった。選挙民にとっての頼れる政党、地方自治体にとっての財政支援システム、労働者にとっての雇用、そして何より国民にとっての国際環境と安全保障システム、どれをとっても戦後的なるシステムは、それに寄りかかる限り安定をもたらした。思想史家の藤田省三は、この仕組みを「安楽への全体主義」とよんだ。システムへの同調を迫る様々な圧力と同調しない者へのいじめの過酷さに注目すれば、これを全体主義と非難する議論にも共感できる。しかし、知識人以外の多くの日本人は安楽の方を重視し、この仕組みの中で庇護されることを選んだ。また、戦後システムは一概に否定し去るべきものではなかった。内における平等、外に対する平和という二つの理念の追求に関して、戦後日本は大きな遺産を作ったということもできる。

 思えば、戦後システムがあまりに安楽であったことが、この十数年の停滞を生んだとも言える。その中に順応して生きる限り、自己の所属する組織(政党、省庁、会社・・・)や自分自身の生活以外のことを考える必要はなかった。戦後システムを維持するためには何が必要か、このシステムが耐用年数を迎えたときにこれをどう更新するかといったシステムの減価償却という発想は、政治家にも官僚にも存在しなかった。個々の仕事や生活の場で日本人は知恵を働かせてきたが、システム全体に関しては思考停止状態が続いたのである。

 九〇年前後に相次いで起こった冷戦の終わりとバブル経済の崩壊は、思考停止の日本人を混沌の中へ突き落とした。もちろん、理屈の上で変革が必要なことを理解し、それを唱える政治家、官僚、経済人も多数存在した。しかし、戦後システムがきわめて快適であったために、惰性も大きかった。過去十年、新しい問題に対しては戦後システムの延長線上での対応が試みられた。バブル崩壊に対する公共事業の大盤振る舞い、コメ市場開放に対する巨額の農業補助金、政党再編成の中での自民党と社会党の連立、行政改革という名の省庁合併など、政策や統治主体の質の劣化を量的拡大で補うという対応は各所に見られた。

 未曾有の人気の中で登場した小泉政権に唯一功績があるとすれば、そうした量的拡大という弥縫策をやめ、意図していたかどうかはともかく、戦後システムの崩壊を加速させたことであろう。戦後システムはここまで空洞化しているということを、彼は国民に知らしめたのである。彼は空洞化に悪乗りして、自衛隊のイラク派兵など、崩壊を越えて新たなシステムの構築に着手しているのであるが。

 長年戦後システムに安住してきた者にとっては迷惑でもあり、危険な話である。しかし、小泉政治に対する批判が今ひとつ世論に浸透しないのは、それが耐用年数を過ぎた戦後システムへの回帰という方向を持つからではなかろうか。もはや我々は覚悟を決めなければならない。我々に戻るべき住処はないのである。単に旧来のシステムを延命させようとするだけでは、アメリカの一極支配や市場経済の挽き臼に翻弄されるだけである。

 小論は、平和と平等という二つの戦後的理念を捨てるべきではないという前提に立つ。その意味で、小泉政治とは別の選択肢を求めるものである。以下、政治、行政のいくつかの側面にわたって、戦後システムとは何であって、この十年の間それがいかに崩壊してきたか、さらに戦後システムを進化させるためには何をなすべきかを論じていくこととする。

1 護憲の終わり

 この十年の間に急速に変わったものの一つに、憲法をめぐる政治状況がある。最近の世論調査によれば、憲法を変えてもよいと思う人が国民の半数以上に達している。もちろん、どこをどう変えるかと聞かれると、はっきり答えられる人は少数であり、改憲の世論が成熟しているわけではない。しかし、漠然と憲法を変えてもよいとする声が広がったことは事実である。こうした憲法状況の変化をもたらした最大の原因は、憲法九条が規範性を失ったこと、九条に対する国民の帰依が低下したことであろう。

 戦後の安全保障システムは、九条と日米安保の二つからの「いいとこ取り」によって成り立っていた。戦後も初期の段階では、護憲派も改憲派も九条の文言に忠実であり、軍隊を持ちたいから九条を改正する、九条を守りたいから非武装を唱えるという形で、対立の論理も単純であった。しかし、六〇年安保で戦後民主主義に対する国民の強い支持が表明されると、六〇年代以後の自民党政権は憲法九条に関して現状維持、即ち九条を維持しながら自衛隊や日米安保も維持するという路線を選択した。九条は日本の軍事大国化を禁止する戒律であり、必要最低限の自衛力を保持することを妨げるものではない。つつましい自衛力の手に余る事態には、日米安保に基づいてアメリカが対応してくれるというのが、戦後的安全保障システムの眼目であった。

 このシステムは日本にとってきわめて快適であった。対外関係はすべてアメリカを座標軸に考えればよいのであって、面倒な国際紛争に関わる必要はなかった。たとえばベトナム戦争に対しても、九条の下では自衛隊を直接派遣することなどありえない話であり、もっぱら軍需に応えることで経済的利益を追求できた。また、九条を維持することで対外的にも平和国家というイメージを掲げ、国内の反対派にある程度の満足を与えることもできた。冷戦時代は日本にとって安定と繁栄の時代だったのである。

 しかし、冷戦の終わりとともに戦後安全保障システムは動揺を始める。その背景には次の二つの事情があった。第一に、核を持った超大国同士の角逐という構図が消えたため、かえって軍事力の行使は容易になった。武力行使が世界大の戦争にエスカレートする危険はないからである。第二に、冷戦後の軍事力行使はイデオロギー対立に起因するものではなく、侵略者やテロリストを駆逐、懲罰するという体裁を取り、一見したところ正統性を備えるようになった。湾岸戦争以来、九条を持った日本がこのような新しい事態にどう対応するかが問われてきた。そして、九条を改正し、日本も軍隊を持った普通の国として、侵略やテロと戦うための武力行使に参加すべきだという声が次第に強まってきた。

 十年前、私は自民、社会、さきがけの三党連立政権を支持していた。その最大の理由は、九条の理念を守る新たな憲法擁護の戦列を組みなおす可能性をそこに見出したことにあった。自社さ連立は「反小沢一郎」連合であったが、それには当時小沢が唱えていた普通の国路線への対抗という意味もあった。要するに、解釈改憲を護憲と認めること、あるいは社会党が純粋護憲の旗を降ろし、自民党や新党勢力の開明的な部分とともに戦後安全保障システムの擁護に回ることで、武力行使是認の改憲論に対抗するという図式である。実際社会党は、村山富市首相の決断により自衛隊合憲論に転換した。また、戦後五十年の節目の時期の自民党は、従軍慰安婦などの戦後処理に関して柔軟であり、最もハト派的であった。

 しかし、この連合は持続的ではなかった。社会党は純粋護憲の旗を降ろしたことによってアイデンティティ危機に陥り、自ら解体の道をたどった。自民党にとってのハト派姿勢は、政権に復帰するための方便でしかなかった。自力で政権を維持できるようになると、自民党には歴史や教育問題に関してナショナリズムが強まり、武力行使に積極的な声が強まった。政界におけるオピニオンリーダーとなるはずだったさきがけは、新しい選挙制度の中で生き残ることができなかった。

 結局、新護憲連合に未来に対する構想は存在しなかった。旧来の専守防衛プラス日米安保という枠組みを延長するだけでは、冷戦後の状況に対応できなかった。アメリカの世界戦略との距離のおき方、東アジアにおける秩序構想など、平和国家の理念を持続するためには新しい難問について答を持つことが不可欠であった。この点の欠落こそ、護憲派や自民党内ハト派の凋落の原因であった。

 そして、小泉政権は戦後安全保障システムの解体を決定づけた。彼の選択によって日本は世界規模でのアメリカの軍事戦略に全面的に組み込まれることとなった。日米安保は日本の安全と東アジアの秩序を守るための仕組みから、日本がアメリカの軍事行動を支援するための仕組みに変質した。もはや、専守防衛の自衛隊と日本を守るための日米安保という戦後安全保障システムの枠組みは郷愁の対象でしかない。

2 統治連合の衰弱―――自民党と官僚の危機

 戦後日本の統治を担ってきた二つの主体、自民党と官僚もこの十年劣化が著しい。この統治連合が構築、維持してきた内政面での戦後システムは、次のような構造を持っていた。具体的な政策形成は、集権的で専門分化した官僚組織が行い、そこには省益の追求を合算すれば国益が達成できるという予定調和が存在した。また、政治家は政策の基本的枠組みを所与の前提として政府と地域社会や業界とを連結するパイプとしての役割を果たしてきた。そして、政策体系の方向は、国土の均衡ある発展、業界保護など平等志向的であった。そのような政策の実施過程においては、利益配分に関するルール化が不十分で、権限・財源を持った官僚の裁量によって左右される政策が大きな比重を占めていた。補助金の箇所付け、護送船団型の業界保護がその典型であった。

 このような政策は、非大都市圏の地域およびそこに住む人々に大きな恩恵をもたらした。道路や上下水道などの生活基盤に関して都市と農村の格差は縮小し、ナショナルミニマムは達成された。こうした仕組みは、日本的社会民主主義とも呼ばれる。

 しかし、基盤整備が飽和状態に達した後、日本的平等の仕組みは弊害を露呈した。第一は、タテ割り官僚機構がもたらす政策における需要供給のミスマッチである。これは、中央政府が施すものと地域が欲するものとが食い違うという現象である。車の通らない道路と介護施設の長い順番待ちの対象を見れば、この問題は明らかである。日本では、社会や経済の環境変化に関わりなく、政策は供給側=官僚組織の都合で従来どおり続いた。地域社会の需要を満たすことではなく、供給側の地位を守ることが政策の実質的な狙いになったのである。

 第二は、政治と行政の腐敗という問題である。裁量的政策においては官僚のさじ加減で利益配分が決まる。だからこそ自民党の政治家は斡旋、口利きに精を出し、官僚に働きかけて我田引水に励んだ。また、業界も天下りの受け入れなどで監督官庁のご機嫌を取った。この仕組みは容易に腐敗に転化する。たとえば、最近世間を騒がせた日本歯科医師連盟による一億円献金事件も、裁量政策に関わっている。医療保険の仕組み自体は公平なルールであるが、診療の点数を決めるのは厚生労働省の裁量である。だからこそ、歯科医師連盟は厚生行政に大きな影響力を持つ橋本派に献金したのである。この種の腐敗は昔からあったが、この十年情報公開の潮流の中で、次第に実態が露呈するようになった。

 第三は、日本的平等とグローバル化の軋轢である。規制緩和、市場開放などの「グローバルスタンダード」が日本社会に浸透してくれば、従来の平等化の仕組みをそのまま維持することは難しくなる。雇用構造の変化、地域振興策の削減などによって、この十年、階層間、地域間の格差は拡大している。

 こうした変化は自民党のあり方にも大きな影響を及ぼした。一方で政策における需要供給のミスマッチが広がれば、政治家による利益誘導の有難味も低下する。また、地域の衰弱はありきたりの公共事業では救えないというリアリズムが地域に広がっている。他方で、腐敗の実態が国民に知られ、世論の批判が高まると、族議員も動きにくくなる。こうして業界団体と地域後援会を基盤とした集票の仕組みは次第に機能しなくなる。

 小泉首相の登場はこうした変化を加速した。まず、彼は日本的平等を否定した。地方に対する財政支出の削減や道路公団の民営化は、空間的な平等化を停止し、地域間格差を広げることにつながる。あらゆる分野における競争原理の浸透を放置することによって、淘汰が進み、総中流社会は崩壊している。しかし、彼が単なる強者の味方であれば、これほどの人気を集めたはずはない。彼は、日本的平等と表裏一体の関係にあった腐敗や既得権をも攻撃している点で、国民の支持を集めてきた。

 旧来の集票マシンが老朽化する一方で、流動的な票を獲得するためには、一般有権者の好む改革の姿勢を訴える必要がある。小選挙区における選挙は、政党同士の戦いという性格を強め、政党そのものや党首のイメージが重要となる。そのため、自民党において総裁の持つリーダーシップが高まることとなった。今や派閥抗争によって総裁を引きずりおろすとか政策を邪魔するといったことが目立つと、自民党のイメージを損ない、それが結局自らの選挙に悪影響を及ぼすという因果関係が存在する。だからこそ、選挙に落ちればただの人になる政治家は、総裁に対して表立って抵抗できないのである。もちろん、日本的平等とその裏にある利権に固執する政治家もまだ残っている。自民党全体が小泉改革でまとまっているわけでもなく、かといって党がはっきり政権の政策に反対しているわけでもないという曖昧な状態が続いている。

 官僚の劣化も、この十年で明らかになった。九〇年代中頃に続発した当時の大蔵省、厚生省のスキャンダルによって官僚の威信は地に落ちた。特に興味深いのは、最近裁判所がいくつかの事件に関して行政の誤りを認定し、日本官僚制の特徴であった無謬性神話(官僚は絶対に間違ったことをしないというドグマ)がその面からも否定されている点である。水俣病関西訴訟では、最高裁判所が水俣病に関する国の責任を明確に認定した。また、高裁、地裁のレベルでは、ダム建設にともなう灌漑事業の事業認定や高速道路の建設計画決定の手続きにおいて行政に違法行為があったという判決が出された。日本の官僚制は、政策は誤りうるという前提で自己修正の能力を持つという文化変容を迫られているのである。長い間絵に描いた餅であった三権分立、とりわけ司法による行政へのコントロールが、官僚に対する風当たりが強まる中で、ようやく実質化しようとしているということもできる。

 そのような中央における統治者連合の衰弱と著しい対照をなすのは、地方における新たな統治者連合の形成である。まず、制度的前提から見れば、一九九五年に地方分権推進法が成立し、それに基づいて分権推進委員会が具体的な改革案を作った。この委員会には、長洲一二前神奈川県知事、西尾勝東大教授(当時)などの分権派が多数起用され、通常の審議会とは体制を異にした。そして、委員会が主体となって分権改革の具体案を練り、機関委任事務の廃止を軸とする二〇〇〇年の地方分権一括法につながった。この委員会の構成は村山政権なしにはありえなかったものであり、その意味では分権改革こそ、村山政権が残した最大の遺産である。そして、この改革は、次に述べる改革派首長を制度的に力づけることとなる。

 主体の面についてみれば、やはりこの十年、地方自治体における改革派首長の増加という大きな変化を見出すことができる。七〇年代に革新自治体が衰弱した後、地方自治体は脱政治化された。中央官僚出身で堅実な行政手腕と中央とのパイプを持つ首長が政党相乗りによって選ばれた。しかし、国主導の地域開発は人口流出や経済の停滞を食い止めることができず、手堅さを旨とする行政官型首長の限界が九〇年代に明白になった。むしろ、たとえ出自は官僚であっても、集権体制の矛盾を訴え、地域の自立と分権のオピニオンリーダーとなる首長、住民の意思を受け止め制度や政策の転換を推進する政治家としての首長が求められるようになったのである。岩手、鳥取、和歌山など保守的な農村県においてそうした知事が出現し、公共事業依存体質からの転換、雇用の創出、災害対策などに関して国の法律を乗り越えた新たな取り組みが展開されている。さらに、小泉政権下の地方分権論議においては、全国知事会が改革案の立案に重要な役割を演じた。政治における地方の重要性は、かつてないほど高まっているのである。

3 戦後政治からポスト戦後政治へ

 既に述べたように、小泉政権は戦後統治システムの崩壊を加速させている。幸か不幸か、小泉政権が平等の破壊、対米軍事協力への傾斜を極端に押し進めた結果、ポスト戦後政治のあり方をめぐる政策対立の構図は描きやすくなった。その意味で、この十年の政治的模索が収束の方向に向かう条件は整った。あとは小泉政治に対抗する主体が現れるかどうかが問題である。

 戦後政治の理念を継承しつつ、政策のイノベーションを起こすという小論の立場から見れば、課題は、@対米依存の相対化、A日本的平等の再構築、B地方の潜在力を引き出すという三点に要約できる。

 外交安全保障上の最大の争点は、小泉政権のもとで進んだ対米軍事協力を継続するのか、転換するのかという点である。レトリックの上では、戦争か平和かという表現も可能であるが、現実の政策選択はそれほど単純明快なものではない。ミサイル防衛や長距離誘導弾など軍事力の高度化を推進するのかどうか、あるいは米軍の再編による日米安保の変質を唯々諾々と受け入れるか、これに留保をつけ沖縄の基地問題の解決など日本からの主張をぶつけるか、など自衛隊や安保の存在を前提として程度の差を付けるという形の政策論争ができれば、それで十分である。この場合の程度の違いは、安全保障に関する価値観や理念を反映しているのである。

 日本において、無際限の対米追従以外のシナリオを書くに当たって、知的な蓄積は存在しない。外務官僚のほとんどはアメリカしか見ていない。現実的な政策提言ができるシンクタンクも日本にはない。その意味で、説得力のある選択肢をすぐに提示することは難しい。要は、政治的意思の問題である。まずは、民主主義において国民が選択した政策はアメリカといえども認めざるを得ないという当たり前の現実をもとに、アメリカのご機嫌をそこねたら日本は終わりだというマインドコントロールを解くことから始めなければならない。

 第二と第三の課題は結びついている。第二の課題とは、小泉改革のもとで進行している格差拡大に歯止めをかけ、勝ち組になれない普通の人が希望を持って社会に参画できるようにすること(英語でいえば、social inclusion)である。そして、そのためには地方の潜在力を引き出すことが不可欠である。競争の激化や財政危機の中で、企業による雇用提供や財政による地域経済の下支えが後退することは不可避である。しかし、それを放置していては、格差拡大や地域の空洞化は犯罪の増加や労働力の質の低下など日本全体にとっての問題を生む。従来の開発政策に代わって、低コストの政策によって地域レベルで小規模だが堅実な雇用と生活のシステムを作り出すしか道はない。それこそ、改革派首長が各地で取り組んでいる課題である。

 そのためには、小泉政権のもとで竜頭蛇尾に終わった財政面での地方分権を実現することが必要である。従来の日本的平等は、裁量的政策により非効率や腐敗をもたらしたところに問題があるのであって、平等の理念自体が間違っていたわけではない。小泉政権の三位一体改革は財政再建のつけを地方に回すことを目指すものであって、このままでは補助金や地方交付税の削減は平等化や財源再分配を縮小することにつながる。これからの日本に必要なのは、透明・公平で効率的な平等化の仕組みである。これを実現するためには、地方に対する財源の再分配に関して単純で分かりやすいルールを作り、従来よりも絶対額においては小さいが、使途を自由に決められるという意味では利用価値の大きな財源を使って、各自治体が自由に政策展開できる環境を創り出さなければならない。

 ここで述べた三つの課題は、言うまでもなく最大野党民主党の追求すべきテーマである。選挙制度改革から十年余りの模索を経て、ようやく自民党対民主党という政権をめぐる競争のモデルができようとしている。小泉首相のもとで自民党が対米追随と新自由主義的経済政策の組み合わせを推進している今、野党の取るべき路線は明らかである。政党政治の再編をさらに進めるためには、政治家に理念、政策の説教をするよりも、誰もいない政治的スペースを埋めろと言う方が効果的である。かつて普通の国を唱えた小沢一郎が、西欧社民の言う第三の道に理解を深め、国連中心主義を強調していることに示されるように、本当に権力欲を持った政治家は自らの存在を際立たせるための位置取りを賢く選ぶものである。

 二〇〇七年に予定されている統一地方選挙、参議院選挙およびその前後に想定される解散総選挙こそ、ポスト戦後政治の行方を決める決戦となる。今年は各党とも、決戦に向けて政策と戦略を練る時期とすべきである。

(論座2005年2月号)