1 日本国憲法の制定
2 単独講和と日米安保条約締結
3 55年体制の成立
4 60年安保
5 冷戦の終わりと湾岸戦争
6 細川連立政権の成立
7 第145国会(99年通常国会)における一連の立法
はじめに
戦後政治を評価するとき、私はアンビヴァレントな感覚を持たざるを得ない。平和憲法を守ってきたすばらしい戦後民主主義という誇らしさと、六〇年たってもまだこの程度の政治しかもてないのかという情けなさが重なり合っているのである。ただ、戦後民主主義の成果について我々は過度に「自虐的」になる必要はない。民主主義という西欧起源の制度や思想が、非西欧世界において最も早く日本で定着したことは事実である。その点について、今を生きる日本人は、戦後民主主義のために闘った人々に感謝しなければならないだろう。
問題は、戦後生まれの人間が一線を退き始めたこの時期に、我々が戦後民主主義を次の世代に残せるかどうかという点である。二一世紀の始まりと共に発足した小泉政権は、戦後民主主義の遺産をまさに「ぶっ壊し」つつある。戦後民主主義の中で、何を継承し、何を改革するかを考えることは、今こそ重要な意義を持っている。
1 特徴―――戦後政治のポジとネガ
@戦後政治の財産
最初に述べた誇りと情けなさの両面に即して、戦後政治の特徴をまとめてみたい。まず、ポジティブな面から見れば、戦後日本は平和と平等を実現することに成功したということができる。
平和という面について、日本は戦後六〇年間平和憲法を維持し続けた。平和憲法制定後、時をおかず自衛隊という軍事的組織を創設したが、改憲派が九条を改正して国軍を持ちたいという不満を持ってきたということは、逆に自衛隊が普通の国の軍隊とは違うということを意味している。もし憲法九条がなかったら、戦後日本はまったく異なった道をたどっていたことであろう。政治における軍の影響力が大きければ、たとえば予算配分における軍事費の割合もはるかに大きくなっていたはずであり、民生面の生産・消費を中心とした高度成長はできなかっただろう。また、六〇年代後半から七〇年代にかけて韓国と同じようにベトナム戦争に出兵することを余儀なくされ、国民に大きな犠牲を生み、アジア諸国との関係は悪化していたことであろう。要するに、九条がなかったら戦後日本は国内的にも、対外的にも、陰険な国家になっていたに違いない。九条を邪魔物扱いする議論は、こうした戦後政治の現実を無視したものである。
平等についてみると、戦後ほぼ一貫して権力の座にあった保守政党の多数勢力が平等を熱心に追求したことが注目される。地方出身の多くの政治家は貧困という原点から出発した。その代表はいうまでもなく、田中角栄であった。彼らにとって政治とは国の力によって貧困を克服すること、貧しい地域に文明を波及させることであった。戦後日本における平等は、階級的平等を志向した西欧と異なり、都市と農村の格差解消という空間的平等を意味していた。そして、こうした平等を実現した担い手は、かつての建設省、農林省などの中央省庁と、それに密接に結びついた族議員であった。年金、医療、介護、雇用などの公共サービスについて日本は決して先進国とは言えない。その意味では不完全な福祉国家である。しかし、農村地帯や過疎地、離島などでも公共事業によって雇用が確保され、都市部と農村部との所得格差が縮小されたという意味では、平等が実現されたことは確かである。
A戦後政治の欠落
上で述べた平和と平等という財産は、現実においては、憲法で理想とされた政治の姿からはかけ離れた仕組みによって実現された。戦後日本を単なるサクセス・ストーリーとして楽観的に描くわけにはいかないのは、そのためである。
まず、戦後日本の平和は日米安保体制と密接に結びついていたことを認めなければならない。第二次世界大戦の講和が実現し、日本が独立を回復した後も、日本の安全保障は日米安保条約によって担保されてきた。確かに日本は国際紛争に直接的に参加し、他国民を殺傷するということはなかった。その意味で直接的に手を汚さずにすんだ代わりに、アメリカの軍事行動を常に肯定し、これを背後から支援するという役割を演じざるを得なかった。また、戦後日本は一貫して、世界秩序に関する構想を持たず、平和や人道を実現するための努力を払うことはなかった。この点は冷戦構造が崩壊してから特に顕著となった。外交に関するこうした消極性は、日本の政策形成者が日米安保体制の中に安住し、アメリカの言うことさえ聞いていれば日本は安泰だという思考停止状態に陥っていたからである。このように、戦後日本は確かに平和国家ではあったが、憲法が理想とするような世界平和のために積極的な努力をしたとは言えなかった。この点は、たとえば地域紛争の解決や軍縮のためにイニシアティブを取ったカナダやスウェーデンと対照的である。
次に、平等についてみると、これも憲法が社会権に関する規定でうたっているような普遍的福祉国家の理念に沿って実現されたものではないと言わなければならない。先に述べたとおり、戦後日本における平等はもっぱら大都市圏と農村との間の格差縮小という空間的な平等であった。こうした意味での平等を作り出したのは集権体制と利益政治の重合であった。権限と財源を中央官僚が独占し、地方自治体は財源面でも政策のアイディアの面でも中央官僚に従属する構造が定着した。地方における事業の展開は、中央官僚にとっての省益拡大でもあった。また、公共事業や業界助成策は政治家にとって格好の利権となった。政治家や官僚の自己利益の追求が、結果として地方における平等を作り出したということもできるのである。
このような政と官をつないだのが裁量的政策であった。公共事業費の具体的配分(政治用語で言う箇所付け)にせよ、行政指導による業界保護策にせよ、それらの政策を実施する際には客観的なルールや基準が存在しない。権限、財源を持った官僚の裁量、即ちさじ加減でどのようにでも利益配分を運用できる。だからこそ地方自治体も業界団体も霞ヶ関詣でを繰り返し、官官接待や天下りの受け入れなど中央官僚のご機嫌を取ってきたのである。そして、官僚組織の重い扉を開ける際に大きな力を発揮したのが政治家であった。ルールや基準が存在しない不透明な政策実施過程だからこそ、政治家の斡旋、口利きが威力を発揮する。裁量政策における不透明な政官関係からは、必然的に腐敗が発生する。構造的な政治腐敗は、戦後政治における平等の陰の部分であった。
2 戦後政治の軌跡―――どこから来て、どこへ行くのか
ここでごく大雑把に、戦後政治を歴史的に概観してみたい。戦後政治は、大きく形成期、展開期、動揺期の三つに分けることができるであろう。
@戦後政治体制の形成(1945−1960)
敗戦から六〇年安保までの十五年間は、戦後政治の基本的な制度枠をめぐる争いが続いた。その代表が憲法問題であった。政治ドラマの担い手に着目すれば、「敗北を抱きしめ」、占領軍によって押しつけられた憲法を我が物とした原戦後グループ(労働者、女性、知識人、革新政党など:原戦後とは、憲法で示された戦後的価値を字義通り、純粋に信奉するという意味)と、敗戦を屈辱と考え帝国の栄光を回復しようとした戦前グループ(保守政党、官僚など)との対決が繰り広げられた。
原戦後派から見れば、この時期は敗戦によって開花した戦後民主主義が冷戦の開始や占領政策の変化によってゆがめられ、政治は憲法の理想から遠ざかるという衰弱の歴史ということになる。他方、戦前派から見れば、再軍備には成功したものの、憲法改正には至らず、挫折の歴史ということになる。議会政治においては保守と革新の勢力比は常に二対一であり、国民の多数は保守を支持したことは明らかである。しかし同時に国民の多数は戦後憲法の理念を支持し、戦前への全面的な復帰を選ばなかったということもできる。
A戦後政治体制の展開(1960−1990)
こうした原戦後と戦前との対決に一応の決着がついたのが、一九六〇年であり、その画期となったのは安保闘争である。そして、二つのベクトルを止揚する形で本格的な戦後型政治路線が形成された。即ち、安保反対、民主主義擁護の国民的エネルギーの高まりを見て、自民党の指導層も憲法改正、軍事化の路線を諦めた。そして、池田以降の自民党内閣は、憲法九条を読み替えて必要最小限の自衛力は合憲であるとし、そのような控えめの自衛力の手に余る事態に対しては日米安保によって対処すると説明して、九条と自衛隊・安保体制の接合を図った。さらに、憲法や政治体制をめぐる争点を政治の前面から退けて、高度経済成長を通して生活の豊かさを追求することで、国民からの支持を得ようとした。この路線こそ、自民党にとっての戦後パラダイムであった。原戦後と戦前とのせめぎあいの中から、現実の統治の枠組みとしての戦後が生まれたということができる。
こうした路線は国民の幅広い支持を得た。豊かさを実現していく中で、国民の政治意識も穏健化、保守化していった。経済発展や都市化の中で最初に衰えたのが革新政党と労働組合であった。自民党が政権を担当し、社会党以下の野党は自民党政治の暴走をチェックする、資源配分に対して弱者重視の観点から若干の修正を要求するという二義的な役割を演じるという分業の仕組みが固定化された。議会政治や市場経済を前提としつつ政策の基本的な方向をめぐって政党同士が政権を賭けて競争するという意味での政治は、存在しなかった。多くの国民にとって、予算や業界保護策を求めて与党政治家や官僚など既存の経路に働きかけることが政治であった。
B戦後政治体制の動揺(1990−)
一九九〇年前後に起こった国際環境や国内経済の大きな変動――冷戦の終焉とバブルの崩壊――が、戦後政治体制を揺るがせた。冷戦の終わりは日米安保体制の変質をもたらした。本来、冷戦の終わりとともに日米安保は歴史的役割を失うはずであったが、安保体制を先に再定義したのはアメリカであった。日米安保は日本を外敵から守るための盾ではなく、アメリカが世界規模で権益を追求する際の支援の仕組みへと変化した。また、自衛隊からは専守防衛という枠がはずされ、憲法の枠内でテロ対策や人道復興支援を行うという名目のもとで、アメリカの軍事行動を支援するために海外に出動するようになった。
いわゆる右肩上がりの終わりによって、経済政策の重点は平等の実現から強者の優遇による活力の創出に移された。財政赤字の累増によって地方に対する支出は削減されつつある。競争原理は全国の隅々に浸透し、公共事業の減少とあいまって、地域の流通業、製造業、農業は衰弱を続けている。
構造改革を唱えた小泉政権はこの二つの流れを加速させ、戦後政治体制の幕引きという役割を演じているということができる。即ち、対米軍事協力の深化によって平和は失われ、強者優先の小さな政府路線によって平等が破壊されているのである。
結び ポスト戦後政治の行方
平和と平等という戦後政治の二大理念は、政治にとっての永遠の課題である。しかし、戦後政治体制を二一世紀にまるごと保持することは不可能である。小泉改革に対抗してこの二つの理念を追求するためには、戦後政治体制の表面的な安定の陰で見過ごされてきたいくつかの欠落――対米依存の中の思考停止、集権体制を前提とした利益配分――を直視し、対米自立、地域自立の戦略を考えることが不可欠である。二〇〇六年には統一地方選挙と参議院選挙が行われる。衆議院総選挙はその前に行われる可能性が高い。次の国政選挙で戦後政治理念の継続か放棄かをめぐって国民が考え抜き、選択を下すことが求められている。
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