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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
戦後六〇周年の政治
山口 二郎
 
 

 二〇〇五年の政治が始まった。今年は東京都議会選挙を除いて、大きな選挙は予定されておらず、政局の動きは乏しいと予想されている。むしろ、戦後六〇年という節目を迎え、戦後日本の歩みを総括し、これからの針路に関して議論を深める年にすべきであろう。

 十年前の戦後五〇年と今を比べると、国際環境や国内世論について大きな落差があることを痛感させられる。十年前は、社会党委員長であった村山富市氏が首相を務めていたこともあって、世論には日本の半世紀への反省と、戦争被害者に対する贖罪の意識が存在した。そして、村山首相の戦後五〇周年談話、従軍慰安婦の救済などアジア諸国との和解の儀式や、懸案処理の政策が曲がりなりにも実現された。しかし、十年後の今、それとは正反対に世論には周辺諸国に対する不信や、日本が近代史の悪役であることへの欲求不満が横溢している。首相は靖国神社に参拝し、それを支持する声もかなりある。また、日米の軍事協力は深化し、自衛隊はアメリカの軍事行動を支援するためにはるか中東にまで展開することとなった。自衛隊と安保の戦後的枠組みは崩壊し、もはや憲法九条は規範としての意味を失っている。イラクの人質事件の際には、国策に逆らう個人は殺されて当然という暴論が一部のマスメディアでまかり通った。

 こうした内外の情勢変化を反映して、国内では憲法や教育基本法を改正せよという声が、特に与党の中堅若手の政治家の中に高まっている。十年前は、平和や個人の尊重という戦後的価値を踏まえたうえで、過去に対する日本の責任を果たすという方向での取り組みがなされた。しかし、今は国家の論理が前面に出され、国家の暴力機構をより自由に動かすことや国家に対する個人の服従が強調されるようになった。

 しかし、この十年日本を騒がせた事件を顧みれば、日本の弱さ、もろさが戦中から戦後にかけて何ら変わっていないことを改めて痛感させられる。その第一は、組織の暴走を止めようとしない個人の意志の弱さである。先の大戦における軍の暴走から始まって、最近の社会保険庁の利権あさりや西武鉄道における株式疑惑にいたるまで、根は同じである。日本的指導者は従順な側近で組織の上層を固め、常識に反する無理無体を推し進める。失敗や違法をごまかせている間はよいが、それが明らかになると組織全体が滅亡の縁に立たされる。内心疑問を感じている個人もいるのだろうが、保身を旨とするあまり組織を救うための諌言をするだけの勇気はない。かくして栄華を誇った組織がちょっとしたスキャンダルの露見を契機に瓦解することとなる。

 日本の抱える第二の弱さとは、自分にとって好ましくない現実を直視できず、気休めや精神論で物事が解決できたと思い込む知的な弱さである。作戦の失敗をうまく処理できず、失敗を認めることを拒むあまり傷口を広げるというのは、ノモンハン事件以来日本軍部のお家芸であった。同じ構図は最近でも、不良債権処理の遅れや少子高齢化対策の遅れなどで繰り返されている。「それでも地球は回っている」と事実を訴える知的な個人が日本の政治や経済にはまだ少ないということである。

 憲法や教育基本法の改正を訴える人々は、戦後民主主義の中で個人が強くなりすぎ、全体の利益がおろそかになったことを批判する。しかし、現実には戦後六〇年たってもまだ勇気と知性を持った個人は十分に形成されていないのである。また、渡邉恒雄前巨人オーナーの「たかが選手」発言に現れたように、日本の指導者には他人を個人として尊重する良識が存在しない。イエスマンの怯懦(きょうだ)と、渡邉、堤ら強腕リーダーの他者蔑視は悪循環をなす。戦後民主主義が日本をゆがめたのではなく、戦後民主主義が不徹底だったからこそ、組織や社会の誤りを是正する個人が現れず、その結果として、日本は政治経済の停滞にあえぎ続けているのである。

 個人や組織から社会全体にいたるまで、今の日本に必要なのは自己修正能力である。先の大戦以来日本に課せられてきたこの宿題に、戦後六〇年の今こそ答えを出す時である。日本人が自己修正能力を持つためには、まず歴史感覚が必要である。歴史を批判的に振り返り、誤りを誤りとして直視する態度を自虐的と呼ぶ社会には、自己陶酔だけがはびこり、自己修正能力は育たない。靖国問題にしても、戦争を指導した者の責任を明らかにすることと、戦争で犠牲となった人々を追悼することを明確に区別しなければ解決はありえない。死者を糾弾することには意味はない。しかし、戦争指導の実態を解明し、誤った政策決定を検証することは、自己修正能力を持つための必須の条件である。単に死者を賛美するだけでは、戦争そのものを引き起こした知的な欠落や個人の不在を未来に引き継ぐ結果に終わるに違いない。

 自己修正能力に必要な第二の条件は、民主主義である。組織や社会に支配的な方針が誤っている場合、異論の存在こそが組織や社会を救う。民主主義とは異論を制度的に組み込み、社会が大破局に至ることを防ぐ仕組みである。野党を督励し、政権獲得に向けた努力を促すことは、当の野党だけでなく政治全体にとって必要なことである。異論を唱える自由を保障することは、異論を持つ少数者だけではなく、社会全体に必要なことである。個人の自己主張を抑え、権威や国家に対する服従を強調する最近の憲法論議、教育論議はその意味でも間違った方向を向いているのである。

 大きな政治上のイベントが予定されていない今年、国会では憲法論議が盛り上がるのかもしれない。しかし、憲法を変えれば世の中の矛盾が解決できるという幻想に基づいて政治家が憲法をおもちゃにしている様は、まさに議会政治を担う者による死の舞踏に見える。戦後六〇年という節目で戦後民主主義や憲法を論じることは必要であろう。ただし、戦後日本の欠落を正しく見据え、大局的な歴史観を持って議論を進めなければ、憲法論議はむしろ有害でさえある。政治家の見識が試される歴史の節目である。

(週刊東洋経済1月15日号)