番組への圧力があったかどうかをめぐって、NHKと政治の関係が問われている。小論では、公共性とステレオタイプという二つの問題を通して、今のNHKの抱えている問題について考えてみたい。
NHKは民間放送と自らを区別し、公共放送を名乗ることによって受信料の徴収を正当化している。しかし、NHKが使う「公共(Public)」という言葉こそ、民主政治と密接不可分な公共性という観念が日本に定着していないことを物語る典型例である。確かに営利事業ではなく、国民一人一人の醵金によって運営するということは、公共性の一要素である。しかし、それだけで公共を名乗れるわけではない。公共とはすべての人に開かれたという意味であり、公開の場で議論する、誰でもそこにアクセスできるという意味を含んでいる。逆に、私的(Private)という言葉は閉ざされたという意味である。たとえば公立の美術館でも「Private」という立て札があれば関係者以外立ち入り禁止の空間であるし、民間の施設でもデパートや私鉄の駅は公共の空間である。
従来日本では、政府が国民の税金によって仕事を行えばこれをすべて公共と呼んできたのであり、その中身や質の公共性を吟味することはなかった。だから、裏金作りや年金積立金の私物化を行ってきた警察や社会保険庁が公共の名に値するかどうかという議論もつい最近まで行われなかった。一連の不祥事は、NHKもこのような古き、悪しき意味における公共放送であることを明らかにした。
国民の醵金によって運営する以上、NHKに対する何らかの民主的な統制は不可欠である。予算の国会承認という制度は、国会が国民に代わってNHKを統制するという趣旨で作られたものである。その意味で、国会による統制こそ、NHKの公共性を担保する重要な柱である。しかし、政治家はあらゆるものを権力闘争の手段にする宿命を負う以上、さらにメディアの報道が人々の政治意識に大きな影響を与える以上、NHKに対する統制も国民代表としての観点からではなく、自らの党派的な利益を図る干渉に堕する危険性を常にはらんでいる。したがって、公共性を確保するためには、国会(議員)によるNHKに対する監督の過程も厳しく吟味されなければならない。即ち、先に述べたとおり、誰に対しても開かれた場で、誰に対しても説明可能な手続きや過程を通して統制が行われなければならない。さもなければ、民主的統制は国会において多数を占める特定党派による権力行使の隠れ蓑に堕してしまうのである。
NHKの公共性を考えるときに、番組に対して自民党の政治家が具体的に何を語ったかは重要ではない。NHKと与党政治家の日常的な接触の仕方自体が、既にNHKが本来の公共性から完全に背理していることを示している。幹部がなぜ自民党タカ派の政治家のもとに通い、個別の事務所等(これはプライベートな空間)で予算に関する「ご説明」を繰り返すのか。予算の説明なら国会の逓信委員会ですればよい。国会議員の側で疑問があるのならば、同じく委員会の場で何時間でも質疑討論をすればよい。それだけの話である。国会による予算の審査が民主的な統制であるためには、議員とNHKとの接触は徹頭徹尾国会という公共的な空間で行い、その記録も国民に公開されなければならない。それが「皆様のNHK」というスローガンの本来持つべき意味である。閉ざされた空間で当事者同士が話をするという行為は、他人に聞かれるとまずいことを話していると推定されてもやむをえない。これが公共機関における倫理である。
この機会にNHKには政治家に対する「ご説明」の全体像を明らかにしてほしい。予算や経営方針に関する国会への説明はNHKの重要な公務であり、公務に関しては国民に対する説明責任を負うはずである。いくつかの役所の不祥事が示すとおり、重要な問題をプライベートな空間で決めることは公共財産を私物化することにつながる。NHKの場合も、一部の幹部と政治家が密室で馴れ合うことによって、報道を私物化しているのである。県議会議員と県庁職員との接触をすべて記録に残し、情報公開の対象とした片山善博鳥取県知事の英断に倣い、この際NHKも政治家との接触をすべて記録に残し、国民に公表する制度を作るよう勧めたい。特定の政治家に対するご説明によって国会の審査を潜り抜けようとしたNHKの行為は、受信料を払っている一般視聴者に対する背信である。小ざかしい国会対策に血道をあげることによって、NHKは公共放送たることを自ら放棄している。繰り返す。国民の醵金によって運営されることは公共放送と同義ではない。開かれた姿勢こそ公共放送の本質である。
次に第二の問題に移ろう。私自身、最近のNHKニュースを見て、その報道姿勢には大きな不満を持っている。その不満はとりわけイラク戦争に関する報道を見て強くなっている。とはいえ、ニュースや報道番組とはそれを作る人の価値観や枠組みを通して世界にあまたある事実の中から一部を選び取ることによって成立するものである。その意味では万人が満足する報道姿勢などあるはずがない。
アメリカの代表的ジャーナリスト、ウォルター・リップマンはその古典的名著『世論』(翻訳は岩波文庫)の中で、ステレオタイプという概念を用いてその事情を説明している。ステレオタイプとは事物に関する固定化されたイメージのことである。我々は自分の直接経験できないことを認識するとき、ステレオタイプに頼らざるを得ない。なぜなら、あらゆる事柄についてその真相を知るためすべての情報を集め分析することなど、人間には不可能だからである。限られた情報に基づき限られた時間の中で物事を判断するためには、ステレオタイプを使わざるを得ないのである。どんな明晰な人間もステレオタイプから自由になることはない。
しかし、ステレオタイプと現実の間には常にずれが存在する。そのずれを無視していては、人間は偏見の虜になる。また、ナチスによるユダヤ人迫害を見れば明らかなように、人々が虚偽のステレオタイプを共有するとき、社会は狂気に陥る。全体主義はステレオタイプなしには成立しない。ナチス支配下のドイツにおいてユダヤ人に対するステレオタイプを拒否し、ユダヤ人にも善人はいると主張したら、その人自身が迫害の対象になる。ステレオタイプに同調することは、圧政から身を守る方法なのである。
今の北朝鮮国内で流布している「アメリカ」や「日本」というステレオタイプを見れば、我々は苦々しく思う。しかし、ステレオタイプの虜になる危険は他人事ではない。我々もまた同じようにステレオタイプによって自ら正確な認識や思考を放棄しているかもしれないのである。だからこそ、メディアに流布するステレオタイプを常に検証し、ステレオタイプと現実のずれを自覚することが必要である。
最近のNHKのニュースに感じる最大の不満は、ステレオタイプの落とし穴についてあまりにも鈍感なことである。一例を挙げよう。昨年末策定された次期防衛計画大綱で打ち出されたミサイル防衛システムの開発に関連して、ニュースの中で朝鮮半島北部から発射されたミサイルを日本近海上空でミサイルが迎撃するというCG画像が何度も流された。北朝鮮の現状についても、ミサイル防衛の技術的可能性についても、様々な情報がある。それらの多様な情報を捨て去り、北朝鮮が本当に日本に向けてミサイルを発射することがあるのか、短時間のうちにミサイルを探知しそれを上空で撃ち落すことが技術的に可能なのか、という二つの大きな疑問をまったく顧みることなく、このミサイル防衛に関するニュースは報じられた。あのCG画像は、北朝鮮は危ない、ミサイル防衛は日本を守る重要な盾になるというステレオタイプをそのまま伝えるものであり、ニュースというよりは情報操作である。
次期防衛計画大綱は、戦後日本の防衛政策の根本的な転換を図るものであり、その妥当性に関しては十分な議論が必要である。逆に、このような政策転換をメディアや識者による十分な検証なしに実現したい政府にとっては、日本を脅かす「敵」の邪悪さや日本を守る防衛手段の有効性を強調するステレオタイプを国民に浸透させることがきわめて有効な戦術となる。防衛政策だけではない。小泉政治そのものが、「改革」、「抵抗勢力」、「民間」、「構造改革」など多くのステレオタイプを駆使し、国民を思考停止状態に陥らせることによって成り立っている。NHKが意図してこのようなステレオタイプを国民に振りまいているとすれば犯罪的である。また、意図せずして政府の政策転換を正当化するようなステレオタイプを流布させているとすれば、報道機関としての立場が疑われる。事は報道の中立性、公正さに関わる。
NHKは中立公正を常に唱える。しかし、たとえばサッカー場のハーフウェーラインのように報道の世界に中立という位置が実体的に示されているわけではない。ジャーナリストも学者もそれぞれ何らかのステレオタイプを通してものを見ているのである。その意味で純粋な客観性を備えた人間などこの世に存在しない。しかし、個人も報道機関も中立、公正になることはできる。それは、自らがステレオタイプを通してものを見ていることや自らの報道がステレオタイプを流布していることを自覚し、そのステレオタイプと現実とのずれを常に検証し、是正しようと努力することによって可能になるのである。また自分のステレオタイプが明らかに現実と乖離した虚偽であることが明らかになれば、それを修正することこそ公正さの意味内容である。
このような意味での中立公正を確保するためには、最初に述べた公共性を回復することが不可欠である。人も組織も自分の持っているステレオタイプにはなかなか気づかない。一度身につけたステレオタイプに対する執着は強いものであり、ステレオタイプに反する現実からは目を背けがちである。したがって、ステレオタイプの修正には異なった意見による対話や相互批判が不可欠である。開かれた対話や相互批判の場こそが、公共的空間である。NHKが公共放送を標榜するのなら、自らの持つステレオタイプに対する様々な批判を率直に受け入れ、検証し、誤りがあれば修正するという謙虚さを持たなければならない。
しかし、先に述べたとおり、NHK幹部による「国対政治」は、プライベートな空間においてメディアと政治家がなれ合うことによって、自ら公共空間を貧弱にさせている。そのことをおかしいと思う感受性さえなくなっている。まさに、公共のメディアにあるまじき所業である。
世論に大きな影響を与える公共放送に対する民主的な統制は、国会だけに任せるわけに行かない。既に触れたように国会によるチェックには党派性が発揮されがちである。様々な立場の国民がNHKの報道に対して自由に批判し、ステレオタイプを多角的に検証する仕組みを開発することが求められている。とりわけ、ニュースや報道番組で取り上げるべきテーマをNHK自身の裁量にゆだねるのではなく、多様な立場の国民から提案するような仕組みが必要である。
小泉首相の空虚なスローガンが強力なステレオタイプになり、世論を動かしている今、NHKの公共性を回復して世間に流布するステレオタイプを検証することは、日本の民主政治にとっても急務である。
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