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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
リスクの増大と政治の役割
山口 二郎
 
 

 このところ政治学、経済学、社会学などではリスクに対する関心が高まっている。そこで取り上げられるリスクとは、テロや犯罪、自然災害や事故、さらに失業、貧困、老後の生活や子育てなど実に広い範囲に渡っている。つまり、現代のリスクとは災難に遭うことだけではなく、生きていく上で直面する様々な課題、苦労を含む広い概念である。

 リスクが注目を浴びるようになった最大の原因は、普通の人が日常生活の中でリスクの高まりを直感するようになったことであろう。今まで人々の生活を当然のように支えていた雇用、地域社会、教育、自然環境などの土台が次第に、あるいは地震の時のようにある日突然崩壊し、人間の弱さ、無力さが露呈されると、リスクに対する関心が高まる。ちなみに、様々な社会経済指標は、二〇〇〇年から三年間でリスクが一層高まっていることを示している。勤労者世帯年間収入:七六九万円→七二一万円。正社員労働者数:三六九五万人→三四四四万人。フリーター:三八四万人→四五〇万人。ホームレス:二〇四五一人→二五二九六人。自己破産件数:一四.五万→二二.四万。出生率:一.三六→一.二九。犯罪認知件数:二四四万→二七九万(数字はいずれも関係各省の統計による)。

 要するに、小泉政権のもとで生活上の困難は増加し、人々はより大きなリスクを抱えながら生きているのである。そして、出生率の低下に現れているように、既に大きなリスクを抱えている人は別の面でリスク回避的な行動をとる。そのことが社会の活力をさらに奪うという悪循環が存在する。これらのリスクは個人の心がけや努力でどうにかなるというものではない。まさに、社会全体を覆うリスクにどう対処するかは政治の根本的なテーマである。しかし、リスクに対する政治の対応は一様ではない。リスクにもいくつかの種類があり、どれを政治の課題として重視し、どれを個人の対応に任せるかによってその違いは生じる。

 人間にとってもっとも根本的なリスクは、戦争、疫病など生物としての生命を脅かすものである。これを生存のリスクと呼んでおく。最近では、大規模テロなど根源的な生存のリスクを感じさせる出来事も多い。二つ目は、人間らしい健康で文化的な生活を脅かすリスクである。これを生活のリスクと呼んでおく。雇用の危機、子供が順調に育つかどうかの不安など、この種のリスクの増大は、現代社会における「生きにくさ」を実感させる原因となっている。三つ目は、遠い将来確実に襲ってくるリスク、あるいは今襲ってくる確率は低いが実際に起こった時には破滅的な損害をもたらすリスクである。地球温暖化や大地震などがその例であるが、これは、実感しにくい。

 昨年のアメリカ大統領選挙もリスクへの対応が問われた選挙であった。民主党のケリー候補は雇用の減少、医療の貧困など社会経済生活に関わるリスクを強調し、政府の役割を拡大することによって生活のリスクへの対応を訴えた。これに対してブッシュ大統領は「テロとの戦い」を最大公約として、再選を果たした。つまり、アメリカ国民は生活のリスクよりも、生存のリスクを重く見て、ブッシュを選んだということができる。投票日直前にオサマ・ビン・ラディンが新たなテロを予言するテープがテレビで放映されたという僥倖も、ブッシュには好影響を与えた。

 日本でも高まるリスクへの対応が問われているのだが、小泉政権は親友のブッシュ大統領と同じような手法でリスクへの対応を図っている。つまり、小泉路線は生存のリスクを重視し、これに対する備えが高い優先順位の政策となっている。小泉政権のもとでは日中関係が険悪化し、北朝鮮情勢も相まって、昨年暮れに決定された新防衛計画大綱や中期防衛力整備計画では、北朝鮮の脅威への対応と中国への警戒感が明確に打ち出された。また、国内では治安の悪化が喧伝され、犯罪を未然に防止するために官憲に強い権力を与えるための制度整備も進んでいる。この数年政府は刑法に「共謀罪」を加えようと図ってきた。これが実現すれば、複数の人間がたとえ冗談でも、犯罪をしようと話をしただけで逮捕されることになる。社会の安全を確保するためには人権の制約も当然といわんばかりの風潮である。

 これに対して、先に紹介した各種指標が物語るように、生活のリスクに対して政治は鈍感である。たとえば毎年約九千人が経済的動機によって自殺しているにもかかわらず、これは重要な政策課題として認知されていない。まして、地球環境問題など遠いリスクに対する政策はほとんど進まない。生活のリスクに対しては個人で備えよというのが小泉政権のメッセージである。

 さらに、今春からのペイオフ解禁、今論議されている郵政民営化が実現すれば、日本国民は年齢や生活様式とは無関係に、財産の運用に関して「リスクを取る」ことを強制されることになる。収益は少なくてもリスクのない、堅実なやり方を取りたいという庶民も、投資の主体となるように仕向けられるのだ。

 今の政治論議における根本的な課題は、日本人にとって本当のリスクとは何かを見極め、それへの対策を立てることである。日本を取り巻く軍事的なリスクがないとは言わない。しかし、他国を敵視することが一層リスクを高めることもあることを自覚しなければ外交はできない。リスクを誇張することは権力者にとって支持をつなぎ止める便法であるが、それは一歩間違えば民主主義や基本的人権を破壊する。また、生活のリスクを個人に負わせる小さな政府路線は、犯罪や家族崩壊などのリスクを一層加速する。過日北海道北部の小さな町に行った時、そこの建設会社経営者にこんなことを言われた。「公共事業費を減らすのもある程度やむを得ないけれど、余りやり過ぎると日本の治安がどうなっても知りませんよ。」小さな政府は大きな刑務所に支えられるということか。

 かつてフランクリン・ルーズベルトが言った「恐怖からの自由」をどのように具体化するかという点に政党や政治家の見識が現れる。国会での論議の深まりを期待したい。

(週刊東洋経済2月14日)