Globalization & Governance
Globalization & Governance to English Version Toppage
トップページ
HP開設の言葉
学術創成研究の概要
研究組織班編成
メンバープロフィール
シンポジウム・研究会情報
プロジェクトニュース
ライブラリ
研究成果・刊行物
公開資料
著作物
Proceedings
Working Papers
関連論考
アクセス
リンク
ヨーロッパ統合史
史料総覧

「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
イギリス総選挙の意味<下>雇用政策、出産・育児支援・・・福祉国家に新たな可能性―理念や価値観が原動力―
山口 二郎
 
 

 近年、日本でもマニフェスト(政党が発表する政権綱領)に対する関心が高まっている。マニフェストとはもともとイギリスの政党が総選挙の際に作ったものであり、イギリスはマニフェスト選挙の本場である。マニフェストは一冊500円程度で、新聞売店などで市販されている。日本からは、各党のホームページからダウンロードできる。

 今回のマニフェストは各党の性格をよく反映していた。労働党のマニフェストは赤い表紙のペーパーバック版の冊子で、2010年のイギリスの経済社会像を描いていた。この5年間にどの程度の財源を投入し、公共サービスの水準をどのように引き上げるかが具体的に示されている。政策能力を訴えたい労働党は、あえて視覚に訴えず、言葉と数字で政策を提示した。これに対して保守党のマニフェストは、白い表紙に筆記体の文字で、公約を簡潔に並べていた。こちらは視覚に訴え、労働党政権の失政を訴えようというものである。

 一般有権者がマニフェストを読んで投票態度を決めるというのは神話であって、マニフェストを読むのはマスコミや政治によほど関心のある人である。しかし、マニフェストは政党の政策的な立場やその信頼性を量る重要な材料である。新聞はもちろん、様々なウェッブサイトで各党のマニフェストを厳しく点検し、その実現可能性について厳しい論評が行われていた。こと政策の信頼性に関しては、保守党の政策は具体性に欠け、財源の裏づけも不十分という批判が強かった。

 労働党にとって総選挙における三連勝は初めての快挙である。サッチャー政権に匹敵する長期政権となった労働党はイギリスをどのように変え、イギリスの経験は日本など他の民主主義国にとってどのような教訓を与えるのだろうか。

 ブレア政権の内政面での最大の成果は、グローバル化時代における福祉国家や社会的公正に関して新しい可能性を開いたという点にある。もはや昔のように累進課税と法人税によって福祉の財源をまかなうという時代ではない。しかし、サッチャー時代に荒廃した医療、教育などの公共サービスを立て直すことは国民の要請である。こうした疑問に答え、労働党はアングロサクソン(英米型)資本主義から、アングロ(英国型)社会モデルの構築に向かっている。

 かつては犯罪に走っていた職のない若者に対して、教育と訓練を提供し、社会に参画する道筋を示すための雇用政策、子供たちに放課後の課外活動や補習授業を行うための仕組み、若い母親の出産や育児を支援する仕組みなどについて、労働党政権は国レベルで新しい政策を打ち出し、徐々に効果を上げている。また、生まれた子供に対して政府が最大500ポンドを支給して預金口座を開き、親などがその子のために無税で貯金できる制度(チャイルド・トラスト・ファンド)も始まった。今を生きる普通の人々が直面する子育て、就職などの難題について、政府は周到な支援策を用意している。これらの政策は単に貧困を救済するのではなく、様々な意味でのリスクの高まりの中で弱者になる可能性を抱えた普通の人に対して、安心して社会に参画し、自己実現の可能性を追求できるようにするという積極的な政策である。犯罪対策、教育問題、少子化などは先進国に共通するものであるが、イギリスにおいては精神論ではなく、具体的な裏づけをともなった政策が展開されている。

 最後に、日本にとっての教訓を考えてみたい。イギリスの選挙を見て感じたのは、政治における理念や価値観の重要性である。労働党は、イギリスの階級社会の硬直性の打破を訴え、すべての人が自己実現を追求できるという意味で、平等を訴えた。政党の政策的差異がなくなったという批判はイギリスでも聞かれるが、価値観や理念の差異は伝わってくる。保守党は移民問題などで自らの偏狭さをさらけ出し、自滅したのである。マニフェストはあくまで道具である。その根底にあるよい社会のイメージこそ、政治を動かす原動力である。もう一つ強く印象に残ったことは、政府の行動に関して既成事実に屈服しない市民の厳しい態度、政治家の責任を追及する姿勢である。ブレアの心胆を寒からしめた市民の姿勢こそ、民主主義の土台である。

(北海道新聞夕刊5月10日)