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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
ヨーロッパと日本の大きな距離
山口 二郎
 
 

 イギリスから送る原稿も、今回が最後となった。イギリス滞在のまとめとして、ヨーロッパと日本を比べて感じることを整理してみたい。

 前回の原稿を送った直後にイギリスでは総選挙が行われた。結果についてはここで繰り返すまでもないが、この選挙ではイギリス国民の政治意識が絶妙に表現されたと思う。国民は基本的に労働党政権の継続を選んだ。しかし、労働党は五十近くも議席を減らし、ブレア首相の威信は大きく低下した。大量破壊兵器をめぐる虚偽の情報を流し国民と議会を欺いて、イラク戦争を始めたブレア首相に対する国民の怒りと不信は持続している。民主政治の下で国民に政治的無力感が広がっているのは、どこの国でもある程度共通した現象である。しかし、選挙は依然として国民が政治家の責任を追及する最大の手段である。ブレアに冷や汗をかかせつつ、労働党政権を選んだイギリス国民の政治的能力には感心した。政治に緊張感を持たせるのは、指導者の言動、行動を記憶し、偽りを許さないという国民の態度にほかならない。

 選挙戦では税制や公共サービスのあり方が争点となった。これは、ポスト新自由主義段階の政治のあり方を考える上で興味深いものであった。イギリスでは一九八〇年代から保守党政権のもとで小さな政府に向けた改革が行われた。確かに、経済的な許容限度を無視した労組の戦いや、財政的な裏づけを持たない福祉政策を抑制することはイギリスにとって必要であった。また、経済のグローバル化が加速する前に規制緩和や労働市場の自由化などの政策を取ったことは幸運であった。しかし、小さな政府に向けた改革とは、たまねぎの皮をむくようなものである。「官から民へ」を推し進めた結果、政府が活動すべき固有の領域とは一体何か、新自由主義は明らかにしていない。アダム・スミス流の小さな政府は、現代民主政治においては答えにならない。イギリスでは、サッチャー主義によって公共部門に対する投資が激減し、鉄道、医療、教育などの公共サービスは著しく劣化した。労働党政権が支持されているのも、これらの政策の立て直しにある程度の成果をあげているからである。

 もちろん、重税と福祉の大きな政府に回帰することも答えにならない。労働党は国民負担を増やさずに公共サービスの質を上げるという困難な課題に対して取り組んでいる。他方、保守党ではサッチャー主義を継承して減税と小さな政府を追求するという急進派と、教育や医療を重視する穏健派との間の対立に決着がつかず、アイデンティティの模索は依然として続いている。

 また、競争の結果生じる格差の問題についても、論争が続いている。一つはっきりしているのは、いわゆる「滴り落ちの理論」(trickle down)は、誤っているということである。この理論は、一握りの金持ちがどんどん豊かになれば、そのおこぼれが次第に社会全体に及び、みながある程度豊かになっていくという主張である。しかし、これは現実に反している。むしろ、社会の底辺に滞留する人々、特に職のない若者が希望を失い、社会から排除されると、犯罪など様々な問題を引き起こす。労働党政権の下では、格差の拡大が停止した程度で、縮小の方向に向かっていないことへの批判もある。しかし、貧困対策、若者に対する教育と雇用の支援についてはそれなりの成果をあげつつある。それは、犯罪の減少、都市の環境改善などの形で現れている。

 日本では、小泉政権が二〇年遅れで新自由主義的な政策を追求している。官僚の特権を排除し、腐敗した利権政治を改革することは依然として重要な課題であろうが、小泉政権の政策を見ていると的外れという印象をぬぐえない。要するに小泉改革では民営化がそれ自体目的になっている。たまねぎの皮をむいていき、最後には何も残らないというのが小泉改革である。

 希望格差社会という言葉が流行語となり、脆弱さを抱えた普通の人間、特に若者に対して社会参画と自己実現の道筋を開くことが急務となっている日本では、イギリスの経験が大きな教訓を与えてくれる。みんなで起業家になろうなどといたずらに空虚な夢を追いかけるのではなく、また一部の教育論議にあるような時代遅れの精神論に陥るのでもなく、人間の労働能力を高めるための戦略的投資を進めることが求められている。小泉改革を批判する側は、新自由主義的政策の不毛な帰結を見据えて、別の政策を提示すべきである。

 今回のイギリス滞在で感じたもう一つの日欧の違いは、国家を超えた地域のあり方である。こちらではEU憲法の批准に向けた作業が進んでいる。フランスの国民投票では反対派が多数となる模様で、EUの強化も一筋縄ではいかない。しかし、第二次世界大戦終戦後六〇周年の今年は、ファシズムと戦争を乗り越えてヨーロッパに自由と平和を追求するというEUの理念が確認された。憲法制定には紆余曲折があるにせよ、ヨーロッパというレベルで安全保障や経済問題に取り組むことが、各国民の利益にとって不可欠であるという認識は後戻りしないであろう。政治とは可能性の芸術だというビスマルクの言葉がある。まさにヨーロッパでは試行錯誤はあっても、人間の作為で未来を構築しようという動きが続いている。

 ちょうど同じ頃、東アジアでは、日中のナショナリズムが衝突し、大きな外交・政治争点となっている。こちらから見ていると、国の指導者までもが大人気ない対立を繰り返しているように見える。感情に任せれば隣国同士が仲良くすることが難しいのは、世界共通の現象である。共通の利益を発見し、共存の関係を作るのが外交というものである。また、感情を乗り越え冷静な利害計算と長期的視野で行動するのが指導者である。その点で、日本政治における不作為は目を覆うばかりである。

 相手の非を指摘するのは簡単であろう。しかし、非難の応酬を繰り返していても、埒は明かない。経済的な統合が進む中で、アジアにどのような秩序を構築するか、今まさに問われているのである。この点でもヨーロッパの経験から学ぶことは多いはずである。それとも小泉首相は、靖国神社参拝にこだわって日本を世界の孤児にしたと後世の人々に言われたいのであろうか。

(週刊東洋経済6月6日号)