郵政民営化関連法案の参議院での否決を受けた小泉純一郎首相による衆議院解散は日本の政治史上初めての出来事であり、政治学、憲法学の両面から大きな論議を招いている。首相の政治手法の過激さや政治ドラマの面白さもさることながら、政治学の観点から見れば、この解散、総選挙は日本の政党政治、議会制民主主義の転換を画する重大な契機となるようにも思える。本稿では、以下そのような転換の意味について分析を試み、これからの日本の民主政治の展望について考えてみたい。
今回の解散については、まず憲法上の疑義が存在する。参議院で法案が否決されたからといって、その法案を可決した衆議院を解散するというのは筋が通らないという批判が当然出てくる。郵政国会の終盤、自民党内の郵政民営化反対派の勉強会に、憲法学者の長谷部泰男氏が招かれて、参議院で法案が否決されたから衆議院を解散するのは憲法違反だと述べて、議員の大きな共感を呼んだという新聞報道もあった。常識的に考えれば、法案を可決した衆議院をわざわざ解散することには道理がないように思える。
しかし、この種の憲法問題には、最終的な決着をつける機関が存在しない。理論的には、解散によって身分を失った前議員が解散の違憲性を訴えて訴訟を提起することも可能かもしれない。しかし、裁判所がそのような政治的問題を取り上げるとは到底思えない。無理筋の解散であっても、現に総選挙が行われ、国民の意思が表示されていれば、それを覆すことは難しい。この解散、総選挙が憲法に適するものかどうかという問いには、政治的な答えしかないのである。
今回の解散は二院制を否定するものだという批判もありうる。衆議院を解散しても、参議院の構成にはまったく影響はない。したがって、総選挙の結果郵政民営化に賛成する勢力が勝利しても、参議院否決の際の再議決に必要な三分の二以上を獲得するのでなければ同じことの繰り返しになる恐れがある。しかし、小泉首相は直近の民意を武器に、反対した参議院議員に改心を迫ろうとしているのである。こうした手法が二院制の趣旨に照らして妥当なものかどうか、議論はありうる。
法案は二つの院で可決されて初めて法律となるという二院制の理念を純粋に尊重するならば、小泉首相のやり方は参議院に対する脅迫ということになる。参議院議員がその表決、行動に関して国民から責任を問われるのは参議院選挙のみであって、衆議院選挙の結果から圧力を受けるというのは、二院制を無意味化するものという批判もありえよう。また、また、総選挙を郵政民営化に関する国民投票と位置づける小泉首相の行動は、国民投票制を想定していない日本の代議制民主主義に違背するものだという批判もある。
筆者は小泉首相の推進する政策に対して、ほとんど反対である。しかし、政策内容に関する賛否とは別に、議会政治の運用の手法として、今回のような解散も理論的には例外的に許容しうると考えている。
一つの問題は、両院の多数意思が食い違った場合の調整方法に関して、日本国憲法には欠陥があることが明らかになったという点にある。現行制度では、衆議院が可決した法案を参議院が否決した場合、両院協議会で合意に至るか、衆議院が三分の二以上で再議決するしか法案成立の道はない。しかし、二つとも現実的にはほとんど不可能である。要するに両院が一致して可決するものしか法律にはならないということである。立法に関しては参議院に拒否権を与えているに等しい。
しかし、日本の議院内閣制においても、衆議院が政権構成の主体となることは規範上(首班指名に関する衆議院の優越)も、慣習上(首班候補は衆議院議員に限定される)も定着している。衆議院の多数派が代表する国民の意志に基づいて国政を運営するという原理の中で、参議院が拒否権を持って立ちはだかることが是認されるのだろうか。特に、参議院は解散もなく、任期六年で半数改選という制度上、構成の変化が極めて緩慢となる。こうした問題は、自民党の長期安定政権のもとでは顕在化しなかった。一九八九年参議院選挙における自民党の過半数割れ以降、衆参のねじれが国政に大きな影響を与えてきた。その最大の弊害は、政権が参議院における多数派形成に大きな労力を割き、その結果自民党と公明党の連立という、政党政治の筋道から外れた連立政権を作り出してしまった。一般の立法に関しても衆議院の優越を現状よりも容易に具現化するルールが存在していれば、このような不明朗な連立政権が生まれることはなかったはずである。政権が推進する最重要法案について参議院が拒否権を発動した場合、法案を成立させるためには、解散総選挙によって最新の民意を具現化し、拒否権を乗り越えるという手段しか存在しない。
解散総選挙を政策に関する国民投票として位置づけるという手法についても、例外的に必要な場面はありうると思われる。既存の代議制度の中では利害が錯綜し、明確な意思決定が行えない場合、争点を明確にして解散し、民意を問うという手法自体は、歴史上も、諸外国の例に照らしても、決して異常なことではない。たとえば、一九七九年の大平首相による解散は、当時構想された一般消費税に対して国民の支持を得るためのものであった。もっとも、この時は、国民はそれを拒絶したが。
大平の例を出すまでもなく、解散による国民の支持の調達という手法は、政権崩壊という危険をともなう大きな賭けである。その時に首相が提示した解散の大義名分、重要政策が、本当に解散に値するかどうかは、国民が判断するしかない。もちろん、私自身は小泉首相の掲げる政策は解散に値しないと考えているのだが。
今起こっている変化は、日本における民主政治のモデルチェンジである。敢えて単純化すれば、民主政治には一元的民主主義(契約モデル)と多元的民主主義(協調モデル)という二つがある。前者は、政党あるいは首相候補者が国民に政権公約を示し、国民が選挙でそれを選択して、為政者に負託(mandate)を与える。政権を獲得した政党、首相は、国民に約束した政策を最大限実行することによって、民意に基づく政治を実現する。具体的にはイギリス政治がこれに当たり、ウェストミンスターモデルとも言われる。もっとも、一元的民主主義に小選挙区と二大政党制が必須なわけではない。ドイツやスウェーデンのように政権の軸になる大政党がはっきりしていれば、連立政治でも一元的民主主義に沿った運用は可能である。これに対して後者は、多様な政党が様々な民意を代表し、それらの政党同士の交渉や妥協によって政治を運営している。そうした交渉の過程は国民がコントロールできない。しかし、多様な政党、政治勢力が政治過程に参加することで、民主性は確保される。具体的にはオランダやスイスの政治がこれに当たる。比較政治学者のレイプハルトはこの型の民主政治を、多極共存型民主政治と呼んだ。高橋和之氏の国民内閣制論の中でも、この対比は紹介されている。
従来の日本政治は、どちらかといえば多元的民主政治であった。自民党という政党は政策的な基軸をはっきりとせず、敢えて相矛盾するような集団・利害を抱え込んできた。選挙においては、包括的な政権公約などほとんど議論されず、地域ごとの個別的な利益が論じられてきた。そして、日常的には、様々な分野の族議員や派閥が多元的な交渉、妥協を行うことでリーダーの選択、政策の調整などを運営してきた。まさに、自民党自体が多極共存型民主主義を実践してきたのである。戦後長い間、この仕組みはそれなりに国民の多様な欲求を政策決定に反映させたという肯定的な評価も可能である。特に、環境変化の小さい平時においては、そのことは当てはまる。
様々な集団の満足に基づく多元的な均衡は、別の面から見れば、既得権の温存、停滞、閉塞といった弊害をもたらすということもできる。特に、一九九〇年代以降の政治経済の大きな環境変化によって、政策体系そのものの大規模な転換が必要とされるとき、多極共存型民主主義はその妨げになる。九〇年代以来、様々な改革が叫ばれ、この期に及んでも小泉首相の唱える改革に多くの国民が共感していることは、世論が政治や政策の変化を待望していることの現れであろう。そして、メディアの発達によって政治の実体が可視的になるにつれて、変化を阻んでいる政治システム上の問題に対して、国民はいらだっているのである。
こうした状況で、日本政治の一元的民主政治への移行が進んでいる。それをもたらした要因は、選挙制度改革、政党における求心力の強化、小泉首相という特異な個性の三つである。最大の要因は、選挙制度改革である。小選挙区制度が定着し、総選挙は政党同士が政権を賭けて争うという捉え方が国民の意識の中にも広まった。選挙が政権や重要政策の選択に結びつくようになった。また、公共事業削減、規制緩和などでいわゆる利益誘導の余地が狭くなり、個々の政治家を単位とした集票、集金活動が困難になっていく。同時に、政党助成金制度の導入、政党公認が当選に不可欠になったことが重なって、政党における求心力が強まってきた。そして、小泉純一郎という総理、総裁としての権力を正面から行使することをためらわないリーダーの出現が、それに拍車をかけた。
小泉の出現によって、日本でも国会で多数を取った与党が立法権と行政権を握り、強力に自らの意思を実現するという、本来の議院内閣制が姿を現しつつあるということができる。権力は一元化され、責任の所在も明確になった。小泉の政策や手法を国民が拒絶するならば、選挙で自民党を負けさせ、政権交代を起こせばよい。また、国民が小泉の政策を支持するならば、国民からの負託を背景に小泉政権が抵抗を乗り越えてそれを実現するというのが、民主政治の一つの姿である。
日本政治の現状は、民主主義の進化でもあり、危機でもある。
まず、進化の面から見れば、制度変更後十年を経て、ようやく政治改革の論理的帰結が具体化しているということである。私自身は、九〇年代の政治改革論議の中で、他の政治主体が政権をとることを想定したうえで、一元的民主政治の移行を主張してきた。それを実現したのが小泉首相だからといって、システムの変化をいまさら否定するわけには行かない。
しかし、強力なリーダーシップと独裁は紙一重である。郵政民営化という単一争点だけを主張し、その他についてはすべて白紙委任という小泉首相の手法は、独裁政治の入り口である。ではこの危機をいかに乗り越えるのか。
一元的民主政治にはいくつもの必要条件がある。まず強力な野党が存在し、常に政権交代の可能性が存在することである。また、公正なメディアが存在し、与野党双方に的確な批判を加え、国民に政治的判断のための情報を提供することがきわめて重要である。現在の日本では、これらの条件が十分満たされていないことが、一元的民主政治が独裁につながるという恐れをもたらす原因となっている。
議会制度との関連で特に重要になるのは、野党を強化するための制度整備と、政府与党に対する牽制機能の強化である。こと国会論戦の活力や緊張感に関しては、多極共存民主主義の時代のほうが高かったという逆説がある。一元的民主主義に向けた変化が進むにつれて、国会では多数決こそすべてという雰囲気が強まった。少数政党も含めた野党の発言時間の確保、国会に関する情報公開の推進などが求められる。
また、野党による政策形成を支援するための特別な仕組みも必要である。行政府が持つ膨大な情報に対してアクセスできないことが野党にとって政策立案の障害となる。そうした野党ゆえのハンディキャップを是正するような助成を考える必要もあるであろう。
冒頭で私は、参議院の抵抗が必要な政策決定の障害になりうると述べたが、そのことは二院制を否定するわけではない。立法に関する拒否権の行使とは異なった形で、政府与党に対する牽制機能を発揮するような制度構想、たとえば参議院については国政調査権を個々の議員または会派に与えるといった工夫を考えていく必要があると考える。
いずれにせよ、小泉首相によって始められた政党政治の転換は、もはや不可逆なものである。これが独裁やデマゴーグに陥らないようにするために、政治学や憲法学の役割もより大きくなるはずである。
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