結党五〇周年に合わせて発表された自民党の憲法改正案は、依然としてこの政党が明確なアイデンティティを確立していないことをうかがわせている。党の看板に掲げる自由と民主主義を追求する近代主義の政党として憲法を論じるのか、敗戦と占領によって失われた「国体」を回復するために伝統主義の政党として憲法を論じるのか、五〇歳を迎えた今でも惑い続けている印象である。
この煮え切らなさは、憲法改正という作業自体の難しさにも起因している。現在の仕組みのもとでは、憲法改正には衆参両院の三分の二以上の多数と国民投票における過半数が必要である。つまり、政党も世論も圧倒的に賛成するという状況がなければ憲法改正は不可能である。自民党が独自色を色濃く反映した改憲案を作れば、さすがに野党も国民も諸手を挙げて賛同とは言いにくい。
今までの自民党においては、改憲が成就しないことを前提として、党の伝統主義という個性を訴える手段として憲法論議が行われてきた。しかし、国会に憲法調査会が設置されて以来、国際情勢の変化もあって、憲法改正の現実的可能性が少し大きく見えるようになった。そこで、自民党は実現可能な改憲案を作ろうとした。そのためには、戦後憲法の近代性もある程度は維持しなければ、国民多数の共感を得ることは難しい。
というわけで、新憲法の制定と力んだわりには、民主主義や人権の基本に関しては現状をあまり大きく変えない最終案に落ち着いた。最大の焦点となった九条に関しても、自衛軍という言葉を使う一方で、軍事力の行使については謙抑的であるという現行憲法の平和主義をある程度引き継ぐ形となった。当初、中曽根元首相の強い思い入れを反映して日本の伝統をうたった前文が準備されていたが、これも大きく修正された。
伝統主義を抑えたことは、逆に自民党が憲法改正を本当に成就したいと考えていることの現われと解釈できる。ここまで伝統主義を薄めれば、他党も乗れるという読みがあるのであろう。抵抗感が薄いということは、同時に何のために憲法を変えるのかが分からないということでもある。
結局、この憲法草案の最大の変更点は、第九六条の改正手続きに関して、衆参それぞれの過半数で憲法改正を発議できるようにしたことにあると思える。自民党の改憲論に長期戦略というものがあるならば、今回の改正案は将来の実体的な改正を可能にするための第一段階として位置づけられるはずである。
自民党案が固まったことで、憲法論議は新しい段階に入ることであろう。憲法はあらゆる政策論議の中でもっとも参入障壁が低いテーマである。憂国の心情さえあれば、誰でもそれなりのことが言える。社会経済生活に関わる具体的な課題を持たないまま政界に就職した政治家にとって、これほど便利なテーマはない。改正手続きを緩和して、その時々の多数派によって憲法をいじれるようすれば、九月の総選挙に現れたような民意の揺らぎがそのまま憲法にも反映されるようになる。
特定の美意識を国民に押し付けることがなくなったという意味では自民党も脱皮したのかもしれない。しかし、小泉路線による粛清が行われた自民党が憲法改正を論じるさまは、舵の壊れた船を連想させる。憲法は時代を超えた政治の基本原理を規定する最高法規のはずであり、自民党もそれだけの覚悟をもって議論してきたはずである。
九条に関しては、この条文が東アジアの秩序を支える一つの柱であったという歴史的現実に鑑み、我々が世界の中でどのように生きていくかを熟慮することなしに議論できないはずである。国内の経済社会のビジョンについても、国民に公共心を持てと憲法で説教する一方、投資ファンドに代表されるむき出しの私欲追求が時代精神となっている矛盾を改憲論者はどう考えるのか。自民党のみならず、改憲を叫ぶ政治家は、現実の憲法改正に着手する前に、まだまだ悩みぬかなければならない。憲法の基本理念に関する議論をこれで終わりにしてはならない。
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