一〇月二八日に自民党が発表した改正案では、議論の途中で公表された原案と比べると、かなり権威主義や伝統主義が抑えられていた。五〇歳の誕生パーティでド演歌を歌うと思われていたアナクロのオヤジが、いきなりSMAPの歌を歌いだしたような当惑を覚える。似合いもしない中年男の若作りには苦笑するしかないが、ここで気を許しては、自民党の思う壺である。
長い間自民党の改憲論議は、実現しないことを前提とした上で、党内右派の自己主張、自己宣伝のために行われてきた。逆に言うと、国体の復活に執念を燃やす年寄りや右翼が怒るような改正案を敢えて最終段階に発表するということは、それだけ自民党が憲法改正に本気であるということを意味する。
今回の自民党案における最大の変更点は、九条よりも九六条の改正手続きにあると私は考える。自民党案では衆参両院の過半数で改憲を発議できるようになっている。国民投票という追加的手続きがあるが、これでは基本的には普通の法律と同じように国会の多数派が憲法をいじれるようになる。また、九月の総選挙でおきたような民意の揺らぎがそのまま憲法に反映されることになる。それこそが自民党の本当のねらいだと私には思える。憲法改正を難しくしてきた固い扉を壊すために、頭の古い伝統主義者をコケにした。いかにも小泉首相やその側近が考えそうなことである。
衆議院憲法調査特別委員会の委員でもある民主党の逢坂誠二議員は、私と同席した会合でこの国会における憲法論議の実態について、このまま憲法改正が実現するならば、次の憲法の制定過程は後世から厳しい非難を受けるだろうと批判した。
日本の国にとって憲法がそれほど大問題ならば、九条以外にも憲法の規定と政治や行政の実態がどれだけ大きく乖離しているか、まじめに考えろと改憲派の政治家に言いたい。自民党案の前文では、「日本国民は、(中略)国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を払う」と高らかに宣言されている。日本国内はここでいう国際社会には含まれないのだろう。この文章を起草した人々は、他ならぬ日本が、他人の住宅の郵便受けにビラを入れただけで逮捕され、七五日も勾留される国であるということをご存じないようだから。「自由及び権利には責任及び義務が伴う」とのお説教。まことにごもっとも。私利私欲の追求こそが至上の価値であるかのような世の中で、自由を享受して巨富を築きながら応分の税負担さえも「経済活力の維持」という口実のもとに嫌がっている連中に是非この説教をして欲しい。
野党には、これからの国会論議の中で憲法をもっとまじめに考えるという運動を展開してもらいたい。自民党が憲法改正案で示した様々な人権は、別に改正が成就しなくても、まさに国会の多数意思によって実現できるものばかりである。国民は「障害の有無によって」差別されない(第一四条)というのなら、障害者自立支援法などという羊頭狗肉の法案を廃案にしてから憲法論議をしてほしい。憲法論議は、自民党の五〇歳の誕生パーティの余興ではないのだ。
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