目下、来年度予算編成に関連して、予算、税制、地方分権などに関する論議が盛んである。「改革を止めるな」と叫んで総選挙に大勝した小泉政権が、残り一年足らずの任期の中で具体的にどのような改革を実現するのかが問われている。歳出削減や増税こそが小泉改革の本丸であることは明らかで、郵政民営化など単なる目くらましであったことは、今となっては明らかである。改革の処方箋について多様な議論をすることは大切である。しかし、郵政民営化という単一争点で選挙を戦い圧倒的な多数を得た政府与党が、国民に何も語っていなかった増税や福祉削減を既成事実のように論じるのは、民主主義のルールに反する。この点について基本的な疑問を提起しないマスメディアも、依然として小泉マジックに幻惑されたままである。
今日の巨大な財政赤字を考えれば、確かに歳出削減と公共部門のリストラや税と社会保障の負担増を何らかの形で実施することは不可避であろう。その意味で、私も小泉改革をすべて否定するつもりはない。しかし、単に歳出削減と負担増で財政の帳尻を合わせるならば、それは改革の名に値しない。無駄な経費は省く一方で、明確な理想のもとに将来の日本人に公共財を残すために積極的にお金を使うという姿勢も必要である。そうしたメリハリがあってこそ、改革は可能となる。
現在の日本にとって最大の問題は、新たな貧困の進行と、それによってもたらされる機会の不平等だと私は考えている。バブル崩壊後、いわゆるグローバル資本主義の展開の中で、貧富の格差は拡大している。一億総中流というのは遠い昔の話である。OECD加盟国の中で、トルコ、メキシコという中進国を除けば、日本はアメリカ、アイルランドに次ぐ世界三位の貧困大国である。(OECDは、中位所得の半分以下の所得で生活する者を貧困状態と定義している。)漫画「ドラゴン桜」の主人公の台詞にあるとおり、勝ち組は自分たちが勝ち続けられるようにルールを決める。だから負け組からはい上がることは容易ではない。
今日、大きな政府の力で勝ち組から重い税を取り、それを負け組に再分配するという結果の平等という思想は、負け組みを含めて人気がないようである。結果の平等を無理やり追求すれば、能力のある者のやる気がそがれるということかもしれない。しかし、健全で活力ある社会を維持するためには、機会の平等を確保することは絶対に必要である。そのことは、小さな政府を擁護する政治家や学者も理念としては否定しないはずである。
そして、現在のように貧富の格差が拡大している状況においては、政府が積極的な手立てを講じなければ、機会の平等の確保さえおぼつかない。その代表例は、教育である。家の経済力には関係なく、能力と意欲に応じて高等教育を受けられるような環境を整備することは政府の責務である。私自身の実感でも、生活を支えるためにアルバイトなどで苦労している学生が増えているように思える。こういうときこそ奨学制度の充実が必要である。しかし、財務大臣の諮問機関、財政制度審議会が提出した「平成一八年度予算編成等に関する建議」では、歳出削減の一環として育英事業の抑制が明記されている。高々一千億円あまりの育英事業費がなぜわざわざ削減対象として名指しされるのか、私には不思議である。これでは機会の不平等は広がる一方である。
小泉首相の政治的演技を面白がるのは、もう終わりにしなければならない。この政権が今進めようとしている政策が、将来の日本社会や国民生活をどのように変えるのか、まじめに考えなければならない。それこそが、先の総選挙で小泉自民党に巨大な多数を与えた国民の責任というものであろう。このままでは、小泉改革は小さな政府ではなく、冷酷な政府を作り出してしまうに違いない。
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