ものすごく重大なことが、あっという間に決まってしまう。これも小泉大勝による“改革断行”なのだろう。しかし、90兆円を超える投融資機能を持つ政策金融の整理ということになると一時の政治パフォーマンスでは済まされない。半世紀後にまで影響する日本経済の一大問題なのである。その大問題がわずか一ヶ月の“議論”で決まった1)。経過と議論の中身を見ると“政策機関はひとつにする”という天の声にも似た鶴の一声で決着してしまい、本質的なことは何一つ議論されていないのである。小論では、やや遅ればせながら、残された本質論を取り上げたい。
時の人のスローガンはいつも単純明快だ。しかし、単純な表現は時として本質を見失っている場合がある。
資本主義経済が民営を基本とすることは異論がない。このことは、資本主義のアンチラーゼであった社会主義が国営・官営を主としていたことと対比すればなおさら理解し易い。
問題は、資本主義はどこまで民営で、どこから官営かという線引きであるが、これには理論的な答えはない。あるのは歴史的な経過である。理論的に言うと、対象が事業であれば民営でやれないものはほとんどない。事業になるとは、ある額の資本が用意されて、何らかの生産物(物的商品でもサービスでも)が生産され、それを購入する人がいて、販売すると利益が残る一連のプロセスが成立することだ。極端な例えかもしれないが、イラク戦争に兵士を派遣して利益を得ている企業も事業である。ある地域の警察機能を担っている警備会社もある。民営の可能性の幅は実は広いのである。しかし、ここに、分野によっては民営でやると具合が悪いことになるという人類の教訓があり、それが生かされて公的セクターは存在する。料金を払わないと犯人を捕まえてくれない警察も困るし、火事を消してくれない消防も困るから、公共の領域が資本主義国にもあるべき事は理解できる。このような分野を公共第一分野と呼ぼう。
公共と民営が混在する分野もある。これを公共第二分野と呼ぶ。教育、医療、そして金融の分野が典型である。こうした分野での公と民の比率はそれぞれの国の事情、そして歴史的段階によって様々である。必ずしも、傾向として民が増大、公が縮小ということでもない。各国は、それこそ知恵を集めてその時代に合った最適配合比率を選択してきたのである。
だから、“民間にできることは民間で”というのは耳障りはよいが一方的な表現である。民営でやってしまうと具合が悪いということが歴史的に検証され、公営にしたり、公営を混入させてきたのがこれまでの知恵である。
最初から民営でよかったのだが、民にはそれを始める資本がなく事業にならない分野もあった(公共第三分野)。鉄道、運輸、電力などのエネルギー、そして鉄鋼などに代表される巨大装置産業がそれである。しかし、これらは資本主義の発展の中で“順調”に民への移管がなされたのである。
民間でやれないことはない。しかし、そうしてしまうと具合の悪いことが起こる。どうしてそうなるかというと、民営企業が依拠している原理に次の二つがあるからである。ひとつは利潤原理(つまり利益の生じないことはしない)、もうひとつは時間原理(ある一定期間に利益をあげる、長期間は待てない)である。
教育の世界、医学部を例に考えよう。医師を養成するには資金がかかる。教育を受ける側に負担させれば巨額な授業料になる。しかし、これだけだと富裕な家庭からしか医師は育たない。しかし、利潤原理と時間原理を外すと他の可能性が広がる。旧国立大学の医学部では学生一人当たりでみれば収支は赤字である。だが、彼らがやがて良い医師となり、医学・医療の前進に貢献すれば社会的採算は合うし、高額所得者となって多くの税金を納めれば国民的採算も合う。利潤原理と時間原理からの解放があればこそである。他方、富裕な個人病院主の子弟が高額な授業料を払って純民間ベースで教育を受ける場合もある。
混合分野では、利潤原理で動く部分と、それを外した公共原理で動く部分が適当に混ざり合って全体的な顧客満足が得られるのである。
小企業があったとしよう。この企業が育つかどうかはわからないが、小企業が日本の企業の99%を構成し、この大群の中から成長企業が出てくることは事実である。急成長しなくとも、その企業が従業員を安定的に雇用していればそれなりに貢献はしている。この小企業に資金を供給できるかどうか。利潤原理でやれる場合もあるし、そうでない場合もある。だから小企業分野では民営と公的セクターの金融機関は双方とも存在することが必要だ。ただ、ここで注意すべきことがひとつある。利潤原理でやれるなら民間金融機関、そうでないなら公営機関というように線引きをしてしまうと後者は成立しなくなる。そもそも企業の将来はわからないから実は線引きができない。さらに、利潤原理に合わないものだけを集めると、それを対象とする金融機関も利潤原理ではやっていけなくなる。だから、利潤原理の適応する分野で両者は競争することになる。そうでなければ、後者は国営・公営として損失は政府が補填することにしなければならない。しかし目下の日本の情勢は、国営・公営であることの非効率(なぜそうなのかは後に述べる)と、国の財政危機で公営機関への補助金を出せないというものであるから、住み分けはできないのである。可能な選択は、公的セクターと民営がだいたいのフィールドを決め、利潤原理対象の一定部分を競争フィールドとしていくことである。よく、公的機関が自らのフィールドを荒らしているという不満を民営側から聞くが、それは自らの競争能力の貧弱さを表明しているようなものだ。もちろん、競争する以上、条件の平等(イコールフッティング)は守らなければならない。
資本主義の限界という点で補足しておけば、利潤原理では環境を守りにくいという歴史的に証明されている事実がある。環境を汚染したら罰金ということにすればよさそうだが(罰金は費用になり、企業は費用を下げようとする)、環境保全のための投資額と罰金の比較の問題となる。また、誰が汚染したかの特定が難しい。さらに汚染が事後的にしか判明しないという問題もある。個々の利潤追求と短期決算の原則だけでいくと“汚し得”という論理がしばしば登場する。だから、個々の企業の行動ではなく、京都議定書のように国家間の合意で総枠を決めてしまう方法が有効になる。
ついでに言えば、資本主義・利潤原理は人々の間の絆を弱め人々を孤立化させていく傾向がある。資本主義成立の前提として自由な労働者が前提にされており、そのための必然的傾向だが、今日のようにそれが行き過ぎ地域コミュニティや家族の崩壊にまで及ぶとそれは社会問題となる。コミュニティは分業を前提にしたあらゆる経済体制の基礎にあるものだが、その土台が崩れていくことは、やがてその上に築かれた資本主義という構造物をも揺るがすことになる。こうした、人々の孤立状況、社会の閉塞状況の中に、軍国主義への郷愁や危険な新興宗教の流布も発生しうるのである。
公的機関は、それぞれの個別使命とともに、資本主義社会に自らが存在することの大きな背景を理解しておくことが必要である。資本主義・利潤原理は不完全であり、それだけでは社会を保つことはできないのである。協同組織もそうであるが、公的セクターは社会のエッセンシャル・サブ・システムである。もちろん、だからといって、それ自体の非効率化、不透明化は許されない。もとはといえば国営諸機関の非効率な実態が今日の一方的な民営化論をここまで勢いづかせたのである。
公的セクターと民営機関の間のイコールフッティングは当然である。政府系だけが補助金を受け取るような状況は理解が得られない。零細企業に利子補給するなら、政府が直接行えばよい。政府系機関から借金したら個々の企業は適正金利を払い、その上で利子補助金を国に申請する。この手続きおよび手順が面倒で、どこかで一体化するにしても税金の経路を透明にしておけばよい。商店街開発、その他の大型公共性施設への融資でも、借主が通常の長期金利を払い、個々に利子補給を申請すればよい。国はこうした要請に応じる総合的利子補給のファンドを形成し民間金融機関にも開かれた型で対応すればよい。
政府系金融機関の所有形態はあまり大きな問題ではない。政府系というのだから国が株主として残るのはむしろ当然である。国は一定の配当を目標として設定する。それは累積するものとすれば、政府系機関の首尾よい活動は配当→国庫納付という型で財政に貢献する。特別法で規制するなどの案もあるようだが、いずれにしろ特定の官庁の支配下に入るような形態は好ましくない。現状の政府系機関を見ていると最大の問題が監督官庁からの天下りにあることは誰の目にも明らかである。彼らは優秀な官僚ではあるが商売のセンスはもとよりない。天下り問題こそ、公的機関の組織問題の根源であり非効率の元凶であった。政府系機関の天下り役員は、民間大手銀行にかつて存在したMOF職(旧大蔵省対応職員)の役割を果たしていたともいえる。後輩の現役官僚とのかつての上下関係を利用しつつその任務を行っていたのだが、それも今は著しいようだ。昨年の12月29日の経済財政諮問会議はきっぱりと“天下り廃止を速やかに実現”を答申した。これはこの稚拙な文書の唯一評価できる点である。天下りがなくなれば、各機関の職員の士気は必ず高まる。そして監督官庁がアテにならない分、自分達の裁量と責任が高まるのである。
政府系機関の対応でひとつ気になることがある。それは、自分達は民業補官であるから民営機関のできないことをするべきという主張である。これは小泉スローガンへの対応であろう。しかし、民営でできないことはごくわずかしかないし、その領域はどんどん狭くなっていく。私はこうした戦略を“奥地逃走論”と呼んでいる。次々と陣地を捨て奥地へ逃げていくのに似ているからだ。これでは対抗できないし、やがて滅亡する。必要なのは民営の企業活動を補完するのではなく資本主義という体制を補完するという哲学である。国民が望んでいるのは、民営と公的セクターとの真向勝負である。クロネコ便ができ、そしてゆうパックができたように、正面衝突で勝負してくれることが利用者には最高の利益をもたらすのである。民営に任せればすぐに勝負がついてしまい寡占化が進行してしまう分野でも公的セクターがあればなかなかそうはならない。小企業にとっても、政府系も民間も競って資金を提供してくれる方がよいに決まっている。もちろん、官は民の様子を見、民の誰と連携した方が全体的な競争条件が保たれるかを考慮するべきだ。現状で、メガバンクと政府系が連携することはありえない選択だ。現在進んでいる政策投資銀行と地方金融機関の地域再生に関する連携は好ましい方向に思える。
日本の資本主義は生産力的には成熟に近づいているが組織的には、民営ですべてをまかなう程に成熟していない。民営には社会全体を統括していく程の論理は育っていない。だから、あまりに早急に完全民営化の道を進むことは社会的混乱を招く危険性がある。また、民営化対象となる諸機関での職員の士気の低下、および統合対象機関で予想される統合のためだけの後ろ向きな作業、統合後の内部の軋轢、またこれら機関から融資を受けている諸企業等の少なからぬ動揺を考えると、経済的な停滞も予想できないことではない。
外国の研究者から見ると、先進資本主義国である日本にこれ程の公的セクターが存在することはやや異常なことにも見えるようである。しかし、政府系金融機関のこれまでに果たした役割を説明すると、それは良い制度だという前向きの評価が得られる。天下り問題や、内部の非効率など数々の問題はあったにせよ、これらの機関は日本的制度として機能してきたのである。
郵政民営化も、国立大学の法人化も、そして今回の政府系金融機関の統廃合も、迫り来る本当の大問題に比べればたいしたことではなかったのである。むしろ、ある程度有効に機能していたものを止めてしまったマイナスが大きいのではないかと危惧している。そして、本当の大問題とは、この国の社会、経済のかなりの部分で創造性が失われ、逆に寄生性傾向が強まりつつあることだ。
1) 二年越しの議論ではあったが、議題として急浮上したのは2005年10月27日の経済財政諮問会議であり、結論が出たのは同年11月27日の同会議の「政策金融改革の基本方針」である。
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