学問というもののほとんどは支配者階級が始めた。学術、つまり学問と芸術は時間に余裕がなければ発展しないから、毎日が生きるのに精一杯という状況の人々には、それこそできない“相談”なのだ。
経済学も同様だが、なぜ支配者階級はそれを必要としたのか。答えは租税、税金である。支配者によって重要なのは支配のための力だが、それは軍隊に象徴される。考えてみれば、これ程、金のかかるものもない。日本のように、憲法で軍隊を否定していてさえ、防衛予算というのはものすごい額になる。
支配のためのコストを被支配者から取るというのが基本だが、その際に誰から取るか。貧乏人からは税金は取れないから、古今東西、彼らに要求されたのは徭役(ようえき)・夫役(ぶやく)であった。富める者から税を取るとして、そもそも富とは何か。どうやら、これが経済学を生み出す根源的な問となり、様々な解答が用意されることになった。
わかり易いのは、富とは食糧であるとする説。人も動物も食糧なしには生きていけないからこの説明には力がある。富は貨幣、すなわち金・銀という説も出現する。これがあれば食糧は買える。何でも買える金銀こそ富という主張だ。
食糧こそ富とすれば、農業こそ貴い活動となるが、金銀説では貿易こそ稼ぎ頭となる。そしてこの長い論争に決着をつけた記念の書物こそ、その名も『諸国民の富』であった。著者のアダム・スミスは経済学の父として知られているが、彼の示した答えは、“富とは労働”である。食糧を生産するものは労働だし、貨幣は商品を売って得られるが、その商品を生産するのはやはり労働である。
スミスの出現、すなわち労働価値説の定着によって経済学は発展の基礎を得たのだが、以後農業の地位は低下の一途をたどった。
労働による富の生産を前提にすれば、その効率性は一定の労働でどれだけの富が得られるかで測られるが、そうなると農業は不利になる。まず食糧の生産には自然の利用が欠かせないが、これには限度がある。更に機械の利用にも限度がある。だからどんなに大規模に機械化された農業でも生産性ではトヨタにかなわない。だから資本主義は効率的生産を求める必然の経路として農業を捨て続けてきた。今日、先進国といわれる国はアメリカを除いてすべてがそうである。
しかし、人々は食糧がないと生きられないという原理は否定されていない。発展のために農学を捨てたぶん、他の誰かにそれをやらせてきたにすぎない。そして私達はいよいよ抜き差しならない段階に至った。いまや人類生存に必要な食糧全体の量と、農業の基礎である環境の心配をしなければならなくなった。農業と資本主義。利潤原理でずっとやって来た私達の歴史が問われているのである。
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