いわゆる論壇において論者を識別する基準、あるいは対立軸を示す言葉としては「保守主義-進歩主義」、「右-左」などいくつかの言葉がある。私自身はどちらかというと進歩主義、左の側に属するつもりで文章を書いてきた。しかし、保守主義の思想からもいろいろなことを学んできた。
私の言う進歩主義とは、人間は自らの力によって政治や社会を変える能力を持ち、人間にとってよりよい世の中を作り出すことができるという信念を共有するという意味である。また、左とは、政治的平等を最大限、経済的平等をある程度重視し、それらの平等を実現するためには政治権力を行使することも必要と考えるという意味である。かつての社会主義の思想は、経済的平等を最大限追求するために政治権力を全面的に行使することを是認した点で、左翼思想の極端な例でしかない。これに対して保守主義の思想とは、人間の能力の限界をわきまえ、計画や統制によって世の中を変えることについて懐疑的な態度を取ること、権力の介入を排除して個人の自由の領域を守ることを重視することなどを主たる柱としている。謙虚な知性が保守主義の根底にあるということができる。
進歩主義者が理想を求めて、改革や変化を起こそうとする時には、保守主義者が、「世の中そう単純ではない」とか「人間はそう利口な動物ではない」と言って冷水を浴びせてきたものである。そして、良質な進歩主義は保守主義に悪態をつかれることによって鍛えられてきた。確かに、戦後日本における進歩的論壇には大きな欠陥があった。マルクス主義の影響が大きく、進歩派の多くは社会主義の実態を見誤っていた。また、現実政治においては保守長期政権が続き、進歩派は常に少数派であったため、彼らは少数者として常に権力に抵抗することを正義と考えてきた。進歩派知識人にとって権力は常に悪であり、自ら多数を取って権力を握り、それによって世の中を変革するという発想は希薄であった。
冷戦が終わり、日本の政党政治が流動化し始めて、十年以上も経つ。自由民主主義、市場経済などの基本的な制度を共有した上で、政策のあり方について論争するという新たな論壇が日本でも必要である。政策論議の蓄積が薄弱なことは、政策選択の幅を狭める。直面する問題に対して国民自身が選挙等を通して政策を選択し、自らの国の命運を切り開くという民主政治のサイクルを機能させるためにも、論壇の活性化が必要である。
ところが、最近は、国内政治についても外交・安全保障についても、本来あるべき進歩主義と保守主義の対立軸が崩れてしまった。左が理想を見失い、元気をなくしたことも大きな原因である。同時に、権力の暴走に対して懐疑の声を上げる保守主義者がいなくなったことも大きな変化である。
この混乱はアメリカを見ればよく分かる。イラク戦争開始から三年経ったが、イラクの泥沼状態は悪化する一方である。他国に自国の政治体制を移植することができる、そのためには軍事力の行使も正当化されると考えた点で、ブッシュ大統領とそのブレーンの発想はコミンテルンのそれと同じである。共産主義を押し付けるのと民主主義を押し付けるのは違うと彼らは反論するであろうが、無辜のイラク人を大量に殺害したことや、イスラム教徒捕虜に対する米軍による人権侵害などからして、イラクに植えつけられようとしている民主主義がまっとうなものではないことは明らかである。ネオコンは決して保守主義ではない。今日の事態はある程度予想できたのに、保守の側からの戦争反対論はほとんど聞こえなかった。「テロとの戦い」という単純なスローガンに人々が惑溺するのを、保守的な知識人も放置していた。
国内政策に関しても、市場原理が幸せな世の中を作るという単純なイデオロギーがアメリカや日本でまかり通っている。民営化や競争原理によって社会を改造するというのは、革命家の発想である。最近日本では、ようやく一部の伝統主義者が市場原理主義批判を始めたが、小泉政治の五年間、保守の側からの批判はあまり聞こえてこなかった。
一九八〇年代後半、佐々木毅氏は「政治的意味空間」という言葉を用いて、政治における政策や改革をめぐる議論の貧困を論難したことがある。当時佐々木氏は、利益政治の横行が政治的意味空間の不毛をもたらしたと解説していた。今日、小さな政府という掛け声の下、利益政治は片隅に追いやられている。では、政治的意味空間が豊かになったかといえば、そうではない。単純なスローガンが跋扈し、為政者も知識人も言葉を失っているように思える。政治的意味空間を豊かにするためには、良質の保守の言説も必要である。このような関心のもと、右派メディアにあふれる言説を点検してみたい。
この文章を書くに当たって、『諸君』、『正論』などの右派系の雑誌に掲載された論稿を久しぶりに読んでみた。論者は一様に日本の現状に強い危機感を表明している。彼らの感じる危機は、国内における秩序の崩落、世界における日本の孤立の二つに要約できるであろう。
国内秩序の崩壊をもたらした最大の原因は、伝統の衰退にあると彼らは考えている。もちろん、伝統の最たるものは天皇制である。小泉政権が皇室典範を改正し、女性・女系天皇の誕生を可能にしようとしたことは、右派論壇をいたく刺激した。そして、皇室典範改正に反対する論稿があふれた。皇太子の次の世代では女性が天皇に即位しなければ天皇制自体が維持できないかもしれないという現実から皇室典範改正論議が始まったと、普通の人は理解している。しかし、彼らは、女性解放や天皇制廃止をもくろむフェミニストや左翼の陰謀によって、この議論が進められていると論難する。
林道義氏は、バックラッシュに会っているフェミニストが凋落に歯止めをかけるために女帝・女系天皇の実現の旗を振っていると主張する(「「皇室典範有識者会議」とフェミニズムの共振波動が日本を揺るがす」、『正論』二〇〇六年二月号)。林氏は、天皇家こそ家父長支配の麗しき日本の家族の象徴と考えている。また、渡部昇一氏は、「いまこそ皇室の重みに思いをいたせ」(『正論』二〇〇六年四月号)という文章の中で、天皇制こそが日本文明を成り立たせているのであり、女帝が認められれば天皇制はなくなり、日本文明は「シナ文明の一部になるかもしれない」と主張する。彼らが陰謀論の根拠としているのは、有識者会議のメンバーに「元民青」がいるとか、同会議の吉川弘之会長が日本学術会議会長として監修した書物の中に数人のフェミニストが寄稿したという程度の話である。日本の役所が審議会委員を選ぶとき、その思想、主張を綿密に調べていることは周知のとおりである。一部の右派知識人は、天皇制やフェミニズムというキーワードが入力されると、途方もない空想を展開する癖があるようだ。
一体日本の伝統や文化的特徴とは何なのか。私は、大雑把な国民性論など信用しないが、それでも弱者に対するいたわりや、損得勘定を度外視した律儀さなどは日本人が失いつつある美徳だと思う。天皇制を日本文化の源泉と主張する人は、天皇制とこうした日本人の美徳の間にどのような関係があるのか、もう少し論理的に説明してもらいたい。そもそも天皇制の有難味は論理になじまないといわれるかもしれないが、それならばそもそも論壇で天皇制を議論することは無意味ということになる。こうした美徳が廃れつつあることの本当の理由を突き止めることこそ、論壇でものを書く者の課題である。同じく伝統主義者でも、藤原正彦氏は数学者らしくそうした問題意識を持っているのであろう。
第二の危機である日本の孤立について、右派知識人は一様に、日本は包囲され、味方を持たないという危機感を表明している。こうした孤立をもたらしたのは、内における国家意識の不在と、外における中国の邪悪な策謀であり、最近では韓国までこれに荷担しているという怒りをあらわにしている。現在の東アジアの国際関係を、西岡力氏は「白村江前夜」にたとえ、桜井よし子氏は「日清戦争前夜」にたとえる(座談会「国家意思なき外交が招いた惨状と未来への「選択」」、『正論』二〇〇五年一二月号)。朝鮮半島に中国の息のかかった反日国家ができ、日本が追い詰められる危険に直面しているのだそうである。
両氏は、日本は中国・韓国の反日連合と武力対決も辞すべきでないと主張しているのであろうか。隣国に自国を敵視する政権ができそうだから武力でこれを防ぐというのは、恐ろしく非常識な議論である。冷戦時代にアメリカがキューバを攻撃し、ついでにその背後にいたソ連を叩くのと同じような話である。西岡氏は前記座談会で、日本は中国と共存できないと言い切れと主張しているが、日本はよそへ引っ越すことはできないのである。未来永劫、中国や韓国などの隣人と共存するしかない。隣り合う国同士が相思相愛の友好関係を保つことは世界的にも極めて希である。共存とは、互いに不満を内包させながらも、それが軍事的衝突にエスカレートしないよう、国同士で談合することである。中国による主権侵害行為には厳しく抗議することが必要である。また、中国の軍事情勢について情報を収集することも必要であろう。しかし、平和共存への意思こそが外交の根底にあるべきである。それは、冷戦時代の米ソ関係においてさえ当てはまった原理である。
アメリカとの関係について、右派論壇には微妙な温度差がある。反日的な隣国と対決するためにはアメリカとの軍事同盟が不可欠だと多くの論者は主張する。しかし、前記座談会ではアメリカに頼らず自国を守る力を強めるべきで、いずれは核武装も必要になるという主張まで飛び出している。さらに天皇制や家父長主義などの「伝統」に固執する人々は、第二次大戦後日本の伝統を破壊したアメリカに対する怨みが引きずっている。右派論壇は親米と反米の間で揺れている印象である。
右派論壇の議論を眺めて感じる一つの驚きは、経済的現実への無関心である。日本における貧困問題の深刻化、非大都市圏の地方の疲弊は様々な政策課題を生み出している。昨年の終わりごろからマスメディアでも格差や貧困に対する関心が高まり、日本社会のひずみを伝える記事も増えた。しかし、右派論壇でこの問題を取り上げたものは少ない。唯一目に付いたのは、『諸君』二〇〇六年四月号の「すばらしき「格差社会」」という特集であった。これは、佐野真一氏による下流社会の悲惨を描いたルポを大きく掲載した『文藝春秋』の同月号と対照的な企画である。
その『諸君』の中で仲正昌樹氏が「「規制緩和」と「格差拡大」は無関係だ」という論稿を発表している。この文章は、昨年の今頃、ホリエモンを新しい資本主義経済のヒーローとしてもてはやしたマスコミが、逮捕とともに袋叩きした無節操を批判したものである。ついでにここぞとばかりに新自由主義を批判した金子勝氏などについても、議論が粗雑であると論難している。確かに、仲正氏が言うように株取引や会社合併に関する規制緩和がすぐに格差拡大をもたらしたわけではないだろう。
一つの問題は、その種の規制緩和にともない抜け穴をつく行為が広がり、そうした行為が合法的かどうかを判定するために行政機関の裁量権力がいっそう拡大するという逆説が存在している点である。ライブドアがニッポン放送の買収のために行った時間外取引による株の取得が適法なものとなぜ金融庁は判断したのか。その背後にどのような政治的意思があったのか。小泉改革の大きな罪は、明確なルールの下で公正な競争ができる市場を作り出すという幻想の下で、実は法令の解釈適用をめぐって官僚の権力を拡大した点にある。同様の問題は金融庁と中小金融機関の間にも存在する。マスメディアを批判するならば、小泉改革のこうした深層に踏み込んでいないことを問題とすべきであろう。
一般論として言うならば、規制緩和と格差拡大は大いに関係ある。特に、雇用面での規制緩和は企業による労働力使い捨てを可能にし、低賃金労働を増加させた。流通の規制緩和は地方都市のコミュニティを破壊し、地域間格差を広げている。左派による新自由主義批判を論難するのは自由だが、格差問題についてどう考えるのか、格差はないというのか、存在することは認めるが、それはかまわないというのか、実体的問題に取り組んだ議論を展開しなければ論争は進展しない。
右派論壇を一瞥して感じるのは、保守と右派の乖離という現象である。自らが信奉する伝統なるものを振りかざし、気に入らない者を攻撃する。隣国を悪と決めつけ、様々なコストを無視して軍事的対決を唱導する。これらはいずれも形を変えたイデオロギーの横行であり、保守主義的知性の対極にある態度である。
天皇制であれ対外関係であれ、右派論壇はナショナリズムを基調としている。本来ナショナリズムは国民の一体性、同質性を強調するものであり、平等主義と結びつきやすい。ところが、今のナショナリズムは、格差を是認し、弱者を排除するナショナリズムである。教育や歴史問題に関しては国民としての意識が強調され、愛国心が要求される一方、格差拡大の趨勢の中、国民が二極化することが放置されている。領土問題について日本の主権が強調される(そのことに私も異論はない)一方で、農村部の地方の衰弱、荒廃は放置されている。最近の地域政策では、行政コストのかかる田舎に人は住まなくてもよいといわんばかりの地方切り捨てが進んでいる。階層間であれ地域間であれ、富める部分から貧しい部分への再分配を正当化するためには、「同じ国だから」というナショナリズムに基づく言説が不可欠だと私は考えており、ナショナリズムそのものを敵視するつもりはない。
しかし、弱肉強食の社会経済原理とナショナリズムが結びつくとろくなことはない。それは歴史が示す通りである。競争に敗れ、経済的に困窮した国民を統合するために外部に敵を作り出し、自民族の優秀性を観念的に注入する。搾取されたと感じる人々は、敵と教え込まれた者に対して憎悪を強め、紛争がエスカレートする。このパターンを繰り返さないために、知識人こそが醒めた議論をすべき時である。
ナショナリズムは、自己中心主義やナルシシズムと結びつきやすいという問題もある。今、歴史問題や対外関係であらわになっているのは、まさにこの点である。右派論壇では日本人が世界の権力政治の現実に無関心であることを嘆く論者が多い。しかし、戦後の世界秩序の構造を理解せず、もっぱら国内向けの議論を繰り返してきたのが日本の論壇だったのではないか。中西輝政氏の「中国には「歴史力」で勝負せよ」(『諸君』二〇〇五年五月号)という論稿は、そのことを考える上で興味深い材料である。中西氏は歴史問題が国際政治における権力の資源となったことを指摘し、中国が日本による侵略という歴史を巧みに操作して日本に対して無理難題を押し付けることを非難する。そして、日本も自国を守り、権益を追求するためには、独自の歴史カードを持ち、歴史力で負けないようにしなければならないと言う。具体的には、第二次大戦の戦勝国の集まりである国連を解体し、日本を悪者扱いする歴史観と決別するよう世界に訴えることを意味しているようである。
歴史問題が政治的競争の道具になっているという指摘は、その通りである。問題は、どのような歴史観を持つことが、世界における日本への理解や敬意を高めることにつながるかという点である。中西氏には憤懣やるかたないことのようだが、戦後世界は第二次世界大戦においてファシズムと軍国主義に染まった枢軸国を民主主義国が打倒したという物語の上に成り立っている。私もこれには多少異論がある。欧米諸国の帝国主義やアメリカによる無差別爆撃や原爆投下はお咎めなしかという不満は誰しも感じることであろう。しかし、大枠として敗戦によって枢軸国は民主化され、戦後を生きる我々はその恩恵に浴していることは確かである。無謀な戦争を引き起こした日本やドイツは、戦前を否定することによって初めて戦後世界の一員として受け入れられるという構図になっている。それが世界の常識である。
中西氏の言う日本の歴史カードが何なのかよく分からないが、仮に満州事変以後のアジア太平洋戦争が自衛のための正しい戦争であったという歴史観であるならば、そんなものはむしろ日本の国力を損なう有害な道具でしかない。この点でも、保守と右派の分岐が進んでいる。猪木正道、半藤一利両氏など今まで論壇で左派と対立してきた保守側の論者が、アジア太平洋戦争についてその誤りを指摘し、戦争を遂行した指導者の責任を論じている。国民の熱狂と権力の暴走によって日本が理のない戦争を行ったことを保守主義者が批判するのは当然である。その点を否定する言論が日本国内で強まっていることこそ、中国による日本批判に論拠を提供している。どのような歴史観を持つのも自由であるが、「日本は常に正しかった」という歴史観を流布させたいならば、よほど卓越した論理と説得力が必要だという覚悟をもってもらいたいものである。
各種イベントの余興に大声コンテストというのがある。日ごろ内にひめている感情や欲望を大声で叫ぶという他愛ない遊びである。むき出しの本音という誘惑に身を任せ、過激な言説を競うという点で、今の右派論壇は、まさに大声コンテストの趣である。
心理学者の速水敏彦氏は近著『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)で、仮想的有能感という概念を使って若者の心の変容を説明している。若者を中心として、厳しい競争に曝される現代の日本人は、自己を肯定するために、すぐに他人を軽視したり否定したりする。そして、そのことによって根拠のない有能感を持つ傾向があると速水氏は主張する。また、ITメディアの影響を強く受けた人ほど仮想的有能感を持ちやすく、「2チャンネル」をよく見る人において仮想的有能感が強いという研究もある。私はこの本を読んで、なぜネット空間に下品な右翼的言説がはびこるのかについての説明を得たような気がする。
広範囲の個人の心理に起こった変化は、当然世論にも波及するであろう。日本は国全体として、激しい競争に曝されながら、またバブル崩壊以後の停滞の時期をくぐり、隣国中国の経済的勃興を目の当たりにして、自己肯定感を欲している。過去への反省や主体的努力によって自己評価を引き上げるのではなく、甘い自己認識、世界認識の下で、手っ取り早く他国を見下して、それによって仮想的有能感を得ようとしているのが右派論壇である。政治的意味空間を豊かにするためには、現実感覚に支えられた論理性のある言説が不可欠である。そのような条件を備えた保守言説の復活を祈るばかりである。
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