日本でも、ポスト小泉の首相の座をめぐる争いが次第にかまびすしくなってきたが、イギリスでもポストブレアのリーダー選びが現実味を帯びてきた。労働党史上、最長の首相在任記録を更新してきたブレアも、「絶対的権力は絶対に腐敗する」という政治の鉄則から自由ではなかったようである。閣僚や与党首脳の不祥事が相次いで、国民の批判が高まり、五月の地方選挙では大敗を喫してしまった。ブレアはもはや死に体である。しかし、十年近くに及ぶニューレーバー(新しい労働党)の実験の意義は、決して軽視すべきではない。ブレア政権の実績から、教訓として、また反面教師として何を学ぶべきかを考えてみたい。
ブレア労働党は、十八年に及ぶ野党暮らしの後、一九九七年の総選挙で歴史的大勝を収めて政権を奪還した。このときのスローガンは、「第三の道」であった。第一の道とは、第二次大戦直後のアトリー労働党政権が打ち出した「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家路線である。第二の道とは、一九七九年以来、サッチャー政権が進めた新自由主義的な「小さな政府」路線である。ブレアは、かつての大きな政府の福祉が陥った弊害をふまえ、同時に小さな政府路線がもたらした社会の荒廃を是正するために、第三の道を打ち出した。
その意図するところは、グローバルな経済競争の中で持続しうる福祉国家を建設することであった。日本よりも二〇年早く小さな政府路線の改革をくぐったイギリスでは、貧困層の固定化、若年層の失業など多くの社会問題に直面した。ブレアは、逆境にある人も再び仕事に就き、前向きに生きていけるような条件を整備するところに政府の役割を見出そうとした。そして、低所得層を中心とした減税、若年層の就労支援、初中等教育の強化、働く女性のための育児支援など具体的な政策を打ち出した。たとえば、チャイルド・トラスト・ファンドという制度が導入されて、新生児に政府から五〇〇ポンド(約十万円)が支給され、その子が一八歳になるまで親は年額一二〇〇ポンドを上限に非課税の貯蓄ができる(この口座は一八歳になるまで引き出すことはできない)。このように、自立にせよ子育て支援にせよ、精神論ではなく具体的な投資によって人々の生活を支える点がイギリスの政策の特徴である。
また、地方分権の推進や、NPOなどの市民エネルギーを育成することにも大きな成果が上がった。こうして、かつての停滞や混乱のイギリスというイメージは、すっかり過去のものとなった。
しかし、ブレアは民主政治の指導者としては致命的な誤りを犯した。彼はメディア戦略を重視し、国民に直接語りかけることで支持を集めてきたが、イラク戦争の際にはそうした手法故に国民に大量破壊兵器の脅威という嘘をつく結果となった。また、安全のためと称して国民すべてにIDカードを持たせ、イギリス中を監視社会にするなど権力の肥大化を進めてきた。この点で、国民の不信を買ったことが、行き詰まりの原因となった。
しかし、こと内政に関する限り、ブレア政治の遺産は継承されるに違いない。人気急上昇の保守党も、かつてのサッチャー主義からは決別し、環境保護や医療、教育の充実を訴えている。ブレア政権が実現した福祉国家改革は、今や党派を超えた共通の前提となっている。
このことは、ポスト小泉の日本政治を考える上でも示唆的である。日本では、第一の道が官僚と族議員による利益配分政治、第二の道が小泉改革と捉えることができるだろう。その結果、今では日本も貧困や格差という問題に直面して、政府の役割が問われている。「大きい-小さい」という単純な二分法を乗り越えて、人々の自立した生活を支えるために政府が何をなすべきか、より具体的な議論が求められている。だとすると、日本版の第三の道とそれを推進するリーダーが必要とされているのである。
|