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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
小泉改革の遺産
山口 二郎
 
 
 
 通常国会も終盤を迎え、教育基本法改正案や共謀罪など政府与党が意気込んで提出した法案も継続審議となりそうである。これらの懸案処理については、小泉首相のやる気のなさが目立つ。しかし、この国会で成立したいくつかの法律は、小泉改革の遺産としてこれからの日本政治に大きな影響を与えることになるだろう。また、それらの法案には小泉政治の欠落もはっきりと現れている。

 最大の問題は、理念なき数値目標の提示と政府の減量の自己目的化である。最近、社会保険庁による国民年金保険料の不正免除・猶予が全国各地で発覚している。数字のつじつま合わせに躍起になる役人の姿は失笑を買うものでしかないが、この事件は小泉改革が陥りかねない落とし穴を暗示していることに注意する必要がある。

 小泉首相が熱意を燃やして成立させた行政改革推進法では、国家公務員総定数の五%以上の純減、特別会計の統廃合による二〇兆円の捻出、八つの政府系金融機関の統合など具体的な数値目標が設定されている。特に北海道開発局の定数削減については、首相自ら「外務省より多いのはおかしい」と主張し、行革のシンボルとして「どーんと減らせ」ということになった。まさに論理不在、理念不明の削減である。各地の財務局、整備局など国の省庁の地方支分部局がその存在理由を問われていることは確かであるが、それならば北海道だけを狙い撃ちするのではなく、国全体について周到な改革戦略が必要である。

 公務員定数については過去四〇年近くの間、累次の定数削減計画を実施してきており、一律の数減らしはもはや限界に近づいている。真の改革は、国の官庁の仕事そのものをやめる、あるいは組織そのものを根本的に見直すことにほかならない。定数削減は、改革の目標ではなく結果なのである。補助金削減の流れに危機感を持った国の省庁は、自らの権益を守るために地方出先機関が、自治体への補助事業ではなく、自ら事業を行うようになったことも報じられている。数値目標を達成することが改革のすべてであるならば、官僚は必ず自らの権益を守りながら数字だけをあわせるという知恵を出すに決まっている。今必要な改革は、たとえば地方分権との連動で地方の出先機関を廃止する、あるいは自治体に統合するという構想である。

 数値目標はかつての社会主義体制では、ノルマと呼ばれ、生産管理の手法として多用された。しかし、数字の意味を労働者が理解しない場合、粗悪品を作ってノルマを達成することが横行し、結局ノルマ自体が無意味になった。社会保険庁の場合も、収納率の上昇だけが一人歩きし、国民年金制度そのものへの信頼性の確保という根本的な政策目標を顧みる者が誰もいなかった。数値目標や成果主義は決して万能ではない。

 もう一つの問題は、小泉改革に共通する「プロクラステスのベッド症候群」である。プロクラステスとは、ギリシャ神話に出てくる追いはぎで、旅人を捕まえてベッドに寝かし、ベッドの大きさに合わせてその手足を切り取ったり引き伸ばしたりした。国民や社会の必要に合わせて政策を供給するのではなく、役所の都合に合わせて国民生活を切り刻むのが小泉政権の進めてきた改革のように思える。

 この国会での成立が確実な医療制度改革関連法案がその典型である。これが実現すれば、高齢者医療の自己負担分が二割または三割まで引き上げられる。また、いわゆる高齢者の社会的入院の大幅削減が掲げられ、入院費用の引き上げや療養病床の削減が進められる。以前にこの場でも書いたが、経済規模との対比における日本の医療費支出全体も、その中での公的支出も、先進国では最低水準である。先日の本誌の特集でも詳しく報じられたように、介護が必要な高齢者を抱えている人々は筆舌に尽くせぬ苦労を強いられる。社会的入院が多いのは、介護の社会的基盤が貧弱だからである。高齢者を病院から追い出しても、介護基盤が現状のままであれば、介護の苦労が家庭に鬱積するだけに終わる。数字の上で医療費を抑制できても、それで国民が幸福になるわけではない。

 竹中平蔵総務相の私的懇談会で打ち出された今後の地方分権のあり方からも、同様の発想がうかがわれる。地方交付税をより簡潔にすることは必要であろう。しかし、交付税への依存を国への依存とみなす議論は不当である。従来は、交付税は自治体固有の財源と説明されてきた。税源の地域的偏在が大きいため、全国でナショナルミニマムを確保するために必要な財源を保障するのが交付税の本来の機能である。そうした趣旨をゆがめて、交付税の算定を恣意的に運用し、自治体に借金や公共事業を勧めたのは中央官僚であった。地域間の経済格差が大きい以上、財源不足の自治体が多数発生することは不可避であり、交付税依存体質からの脱却がそれ自体で目標となるわけではない。

 改革とは、目指すべき社会の姿がはっきりしてこそ、意味を持つ。小さな政府は所詮過渡的な目的であって、改革の究極的ゴールにはなりえない。小泉改革とは政府という玉葱の皮をむいていくようなものである。皮をむいていった挙句、政府がいったい何をするのか、実体のあるメッセージは何も伝わってこない。財政の帳尻合わせに近視眼的に必死になる財務官僚や市場メカニズムを神聖視する一部の財界人は、どんどん政府を小さくして、政治を無力にすることに何の抵抗もないのであろう。しかし、そもそも政府とは個人の努力や市場では解決できない問題に取り組むために存在するはずである。折しも出生率はさらに低下し、少子化に歯止めがかかっていないことが明らかになった。人々が未来に希望を持って生きていけるような社会にするために、政治が何をなすべきか。数字ではなく、中身の議論が必要である。ポスト小泉の政策論争を期待したい。

(週刊東洋経済6月16日号)